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勝手に戻さないでください

 昨日、俺の平穏な放課後は終わりを迎えた。

学校一の美少女と噂される図書委員長、一ノ瀬しおり先輩の恐るべき裏の顔を知ってしまったからだ。


図書室を愛するがゆえの、狂気的なまでのルール遵守精神と、凄まじい毒舌。あのインパクトは一晩寝ても頭から離れず、おかげで今日の授業中は何度も悪夢を見そうになった。


とはいえ、俺のスタンスは変わらない。

騒がしい教室から逃れ、放課後の図書室という静寂の空間に身を置くこと。ただそれだけだ。一ノ瀬先輩の秘密を知ってしまったのは不運だが、こちらから関わりに行かなければ、昨日交わした『社会的死の不可侵条約』が破られることもないはずだ。


放課後。俺はいつも通り、図書室の最奥にある本棚の陰、窓際の特等席に陣取っていた。


受付カウンターの方を盗み見ると、一ノ瀬先輩はいつもと変わらず、涼しげな顔で文庫本を読んでいる。黒髪ロングの髪が西日に照らされてきらめき、その姿はどこからどう見ても、お淑やかで完璧な図書委員長そのものだった。


昨日のあれは、本当に俺の白昼夢だったのではないか。そんな錯覚さえ覚えてしまう。


そんなことを考えながら、俺も自分の机に視線を戻した。

ふと、隣の長い机に目が留まる。


そこには、さっきまで利用していた生徒が残していったのか、三冊の本がぽつんと置き去りにされていた。


いつもなら無視するところだ。図書室の整理整頓は図書委員の仕事であり、ただの帰宅部である俺が手を出す領域ではない。

だが、昨日の今日である。もし一ノ瀬先輩がこの置き去りにされた本を見つけたら、またあの『全国の図書委員を代表したブチギレ』が発動するかもしれない。あの低いマシンガントークを至近距離で浴びるのは、精神衛生上よろしくない。


それに、少しでも先輩の手間を省いて点数を稼いでおけば、俺の秘密(ぼっち本の貸出履歴)を守る防壁もより強固になるのではないか。そんな打算が働いた。


俺は席を立ち、隣の机に残された三冊の本を手に取った。

幸い、どれも背表紙に見覚えがある。俺がいつも陣取っているこの最奥のエリア、日本の小説が並んでいる棚の本だ。著者の五十音順に並んでいるだけだから、戻す場所くらい俺にでも分かる。


俺は音を立てないように配慮しながら、それぞれの本を棚の隙間に差し込んでいった。

よし、完璧だ。机の上は綺麗さっぱり何もない。


少しばかりの満足感を覚えながらカウンターの方を振り返ると、いつの間にか一ノ瀬先輩がこちらをじっと見つめていた。その目は、いつも通りの穏やかな微笑みに彩られている。


俺は小さく息を吐き、少しだけ声を潜めて言った。

「一ノ瀬先輩。あそこの机に本が置きっぱなしになってたんで、棚に戻しておきましたよ」


良かれと思ってやった行動だ。少しは感謝されてもバチは当たらないだろう。


しかし、一ノ瀬先輩の反応は、俺の予想とは全く異なるものだった。

先輩は微笑みを浮かべたまま、ピキ、と完全に硬直したのだ。


「…え?」

先輩の口から、微かな声が漏れる。その微笑みは完全に形骸化しており、頬の筋肉がピクピクと痙攣しているのが遠目からでも分かった。

先輩は無言のまま、幽霊のような足取りで、俺が今しがた本を戻した棚へと歩いてきた。


嫌な予感がした。俺は本能的に一歩後退する。


一ノ瀬先輩は、俺が差し込んだ本の一冊に細い指を触れ、それをゆっくりと引き抜いた。

その本のタイトルは『図解・プロが教える極上麻婆豆腐』。


「……」

先輩は無言だった。ただ、その身体がブルブルと小刻みに震え出している。

頭がゆっくりと下がり、黒髪が顔を隠す。昨日見た、あの不吉な予兆が完全に再現されていた。


閉館のチャイムが鳴るまでは、まだあと二十分はある。しかし、図書室の最奥であるこのエリアには、今、幸か不幸か俺と先輩の二人しかいない。


一ノ瀬先輩は、ゆっくりと顔を上げた。

そこにあったのは、ハイライトの完全に消え失せた、虚無のジト目だった。学校一の美少女の面影を粉砕する、圧倒的な怨念のオーラが立ち上っている。


先輩は一歩、また一歩と俺に近づき、手にした料理本を俺の目の前に突きつけた。


「柚木くん」

地を這うような、冷徹な低音だった。

「は、はい」

「全国の図書委員を代表して、一言いいですか?」

「あ、どうぞ…」


この定型句が出た時点で、もう逃げられない。俺は諦めて背筋を伸ばした。


「勝手な場所に本を戻さないでください。親切心が、時に残酷な凶器になるということを学んでください」

先輩の声のボリュームは最小限だったが、その分、言葉の鋭さが際立っていた。


「え、でも、そこは日本の小説の棚ですよね? 著者の頭文字も合ってたはずですが」

俺は恐る恐る反論した。確かに、その棚は『ナ行』の作家の小説が並ぶ場所で、麻婆豆腐の本の著者も『中村』とかそんな名前だったはずだ。


すると、一ノ瀬先輩は信じられないものを見るような目で俺を睨みつけた。


「柚木くん、本には『住所』があるのです。日本のすべての図書館や図書室は、日本十進分類法という偉大なルールによって管理されています。小説は九類。技術や家政、つまり料理本は五類です。著者の名前が同じだからといって、ミステリ小説の棚に麻婆豆腐のレシピ本を混ぜるなど、狂気の沙汰です!」


先輩は麻婆豆腐の本を強く握り締め、早口でまくしたてる。


「想像してください。ある日、本格ミステリを読もうとワクワクしながら棚を探していた生徒が、この本を引き抜くのです。密室殺人のトリックを期待してページを捲ったら、そこにあるのは隠し味のテンメンジャンと、ひき肉を強火で炒めるコツですよ!? 脳がバグります! 読者への精神的テロ行為です!」


「いや、テロは大袈裟じゃ」

「大袈裟ではありません! 住所の違う棚に紛れ込んだ本は、図書委員からすれば『行方不明』と同じなのです。誰かが『麻婆豆腐の本はどこですか』と尋ねてきて、システム上は『棚にある』と表示されているのに、実際は小説の棚に監禁されている。これを見つけ出すのがどれほど大変か、あなたに分かりますか!? 砂漠の中で一本の針を探すような絶望感を、全国の図書委員に味わわせる気ですか!」


先輩の熱量は、昨日にも負けず劣らず異常だった。本への愛、というよりは、完璧に管理された秩序が乱されることへの恐怖に近いのかもしれない。


「…全国図書委員掲示板でも、定期的にこの『親切心による誤配テロ』が報告されて血の雨が降っています。京都の図書委員長さんなんて、古典の棚にラノベを戻されたせいで、丸一日捜索に追われて寝込んだと言っていました。本を元の場所に戻せないのなら、大人しく返却台に置いておくのが鉄則です。それが、本を愛する者が守るべき最低限のモラルというものです!」


ハァ、ハァ、と、先輩はまたしても激しい息を吐きながら、手にした本を愛おしそうに胸に抱えた。


俺はただただ、その圧倒的な剣幕に圧倒されていた。

良かれと思ってやったことが、ここまで全否定されるとは思わなかった。だが、先輩の言うことにも一理ある。確かに、探している本が全く違う場所にあったら困るだろう。


「…すみません。次からはちゃんと返却台に置いておきます」

俺が素直に首をすくめると、一ノ瀬先輩はハッと我に返った。


自分がまたしても、後輩の男子生徒の前で本性を爆発させてしまったこと。しかも、今回は閉館後ではなく、まだ開館中の時間帯だということに気づいたらしい。


先輩の顔が、一瞬で真っ赤に染まっていく。

彼女は周囲をキョロキョロと見回し、他の生徒がこのエリアにいないことを確認すると、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。


「…また、やってしまいました」

膝に顔を埋めた先輩の声は、消え入りそうなほど小さかった。

「柚木くん」

「何ですか」

「今の、その、怒鳴ったのは、私の本意ではなく、本の精霊が私に乗り移って」

「いや、完全に先輩の言葉でしたけど」

「忘れてください。お願いですから、忘れてください」


上目遣いで俺を見てくるその姿は、学校一の美少女の名に恥じない破壊力があった。だが、その足元にはさっきの麻婆豆腐の本が転がっている。ギャップが強すぎて、俺の心は一ミリも動かない。


「忘れるのは無理ですが、他人に言い触らすつもりもありません。約束ですから」

俺がそう言うと、先輩は少しだけ安心したように息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。


「…柚木くん」

「はい」

「あなたには、正しい本の戻し方を教える必要があります。これ以上、我が図書室で迷子を出すわけにはいきません」

先輩の目が、今度は怪しい光を帯びていた。


「へ?いや、俺はただの帰宅部だし、次から返却台に置くって言ったじゃ」

「ダメです。一度でも間違った人間は、正しい知識を身につけるまで監視対象です。ほら、ここに来てください。背表紙のこの数字の意味を、今から一から説明します」


一ノ瀬先輩は俺の腕を掴み、強引に本棚の前へと引っ張っていった。

拒絶する間もなかった。先輩の顔がすぐ近くにあり、古い紙の匂いに混じって、かすかにシャンプーのような甘い香りが鼻をくすぐる。


だが、彼女の口から飛び出してくるのは「日本十進分類法における各類の解説」という、極めて硬派で容赦のないスパルタ指導だった。


「いいですか、一類は哲学、二類は歴史、三類は社会科学。これを覚えるまで、今日の放課後は帰しませんからね」

「あの、俺、ただ静かに本を読みたいだけなんですけど」

「図書室の秩序を守る者だけが、その静寂を享受する権利を得るのです」


完璧な美少女の皮を被った猛獣に捕まり、俺の平穏な放課後は、またしても遠のいていくのだった。

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