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 高校の教室という場所は、どうしてあんなにも無駄な熱気に満ちているのだろう。


休み時間や放課後になるたび、狭い空間に充満する大音量の笑い声、机を叩く音、どうでもいい恋バナや部活の連絡。聴覚に容赦なく突き刺さるそれらの雑音は、俺にとって苦痛以外の何物でもなかった。


柚木春人。それが俺の名前だ。

部活動には所属していない。いわゆる帰宅部だが、だからといって放課後にすぐ家に帰るわけでもなかった。家には年の離れた騒がしい妹がいるため、結局のところ、俺が求めている「本当の静寂」はそこにもない。


だから、俺はここにいる。


放課後の図書室。

重い木製の扉を引けば、そこには教室の喧騒が嘘のような、ひんやりとした静けさが広がっている。古い紙とインクの匂い。窓から差し込む西日。エアコンの微かな稼働音だけが、等間隔で空間を満たしている。


最高だ。これ以上の避難所を俺は知らない。


俺は図書室の最奥、窓際に設置された長机の端を定位置にしている。ここは背後を高い本棚と壁に守られており、受付カウンターや入り口からは完全に死角になっている。本が特別に好きというわけではない。ただ、一応の体裁として適当な文庫本を開き、文字を追うフリをしながら、この贅沢な「無の空間」を消費するのが、俺の放課後のルーティンだった。


今日もそのはずだった。あの声が響くまでは。


「一ノ瀬さん、ちょっといいかな?」


静まり返った室内に、場違いなほどハキハキとした、そして心底耳障りな声が響いた。

俺は眉をひそめ、文庫本の上から視線だけを動かす。本棚の隙間から見える受付カウンターの前に立っていたのは、サッカー部のニ年生エースとして有名な神田という男だった。いかにもクラスの中心にいますというオーラを隠そうともしない、俺とは対極に位置する人種だ。


カウンターの奥から顔を上げたのは、この図書室の主であり、我が校の誰もが知る有名人、一ノ瀬しおり先輩だった。


高校二年生。図書委員長。

黒髪ロングの美しい髪が、彼女の丁寧な一礼に合わせてサラリと揺れる。冷涼で整った目元、白く端正な肌、そして誰に対しても分け隔てなく向けられるおっとりとした微笑み。学校一の美少女と噂される彼女は、まさに絵に描いたような聖母だった。


「はい、どうなさいましたか? 神田くん」

一ノ瀬先輩の声は、図書室の空気を乱さない絶妙なボリュームで、鈴を転がすように優しかった。


「あ、いやさ。半年前くらいに借りた歴史の資料本なんだけど、部室のどこかに紛失しちゃったみたいで。期限もとっくに過ぎてるよね。本当にごめん!」


神田は頭の後ろで手を組み、全く悪びれもせずに笑った。

半年。二週間の貸出期限に対して、半年だ。それはもはや紛失というより横領に近いのではないか。俺は内心で神田の図々しさに呆れたが、口を挟むつもりは毛頭ない。本棚の陰に隠れ、気配を殺す。早く用件を済ませて出ていってくれ、それだけを願っていた。


普通なら、いくら優しい図書委員でも少しは声を荒らげる場面だ。

しかし、一ノ瀬先輩は驚くほど穏やかに首を傾げただけだった。


「まあ、そうだったのですね。大丈夫ですよ、神田くん。部活がお忙しいのは重々承知していますから。本は生き物のようなものですから、たまには迷子になってしまうこともあります。見つかった時で構いませんので、ゆっくり探してみてくださいね」


「うわ、一ノ瀬さんマジ女神! 本当に助かった、また探してみるよ!」


神田は爽やかな笑顔を残し、再びバタバタと足音を立てて図書室を去っていった。

扉が閉まり、再び静寂が戻ってくる。


さすがは一ノ瀬先輩だ、と俺は小さく息を吐いた。全校生徒の憧れの的である理由は、あの圧倒的な美貌だけでなく、あの底なしの包容力にあるのだろう。俺なら、半年前の本を無くしたと言われた時点で、確実に引き攣った顔をしてしまう。


やはり、この静かな空間を維持してくれる彼女には感謝しなければならない。俺はそう思いながら、再び手元の文庫本に意識を戻した。


それから三十分ほどが経過し、閉館時刻を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。

図書室に残っていたわずかな生徒たちも、それぞれ荷物をまとめて退出していく。俺はいつも、彼らが完全にいなくなるのを見届けてから、最後に立ち上がることにしていた。最後まで静寂を味わい尽くしたいからだ。今日も本棚の陰の特等席で、完全に人がハケるのをじっと待っていた。


図書室の中は、静まり返っている。


(俺もそろそろ帰るか…ん?)


先輩がカウンターから出てきて、図書室の重い扉へと歩いていく気配がした。

ガラガラ、パタン。

扉が完全に閉まり、内側から鍵をかけるカチャリという金属音が、静かな室内に明瞭に響き渡った。


しまった…そう思って鞄に手を伸ばした、その時だった。


「――っ、はあぁぁぁぁぁ、あああああああぁぁぁっっっ!!」


背筋が凍るような、凄まじい怨念の籠もった絶叫が、静寂をズタズタに切り裂いた。


俺は思わず硬直した。

声のした方、つまり入り口の扉の方を、本棚の隙間から恐る恐る覗き見る。

一ノ瀬先輩は、俺がまだ奥に残っていることに完全に気づいていない様子だった。彼女は完全に一人になったと思い込んでいる。


そして、そこには、俺の知っている一ノ瀬先輩はいなかった。

さきほどまで凛と真っ直ぐに伸びていた背筋は見る影もなく湾曲し、まるで糸の切れた人形のように肩を落としている。黒髪が前方にだらりと垂れ下がり、彼女の顔を覆い隠していた。


「…え?」

声は出さなかった。正確には、あまりの異様さに声が出せなかった。


一ノ瀬先輩はドス、ドス、と、信じられないほど重く引き摺るような足取りで、受付カウンターへと戻っていく。その手には、神田の貸出カードが握られていた。


バン!!


乾いた凄まじい音が、図書室の天井に跳ね返った。一ノ瀬先輩が、カウンターの机に両手を強く叩きつけた音だった。俺は心臓が跳ね上がるのを感じながら、本棚の影から息を潜めて見守る。


「大丈夫なわけがあるか、この大馬鹿者めが!!」


先輩の口から、機関銃のような早口が飛び出してきた。声のボリューム自体は図書室の規則を守っているのか驚くほど低いのだが、その分、密度と圧力が異常だった。誰もいない空間に向けて、彼女は怨嗟の声をぶちまけている。


「神田くん! 半年です。半年ですよ!? 百八十日です! 秒数に換算すれば一千五百五十五万二千秒です! それだけの時間、あの男は本を放置し続けたのです! 貸出期限の二週間という数字は、単なる『提案』でも『努力目標』でもありません。システムが保証した、人類の英知に基づく『絶対の契約』です!」


先輩は細い肩を激しく上下させ、白目を剥きそうな勢いでまくしたてる。


「部活が忙しい? サッカーのルールは守れるのに、なぜ図書室のルールは守れないのですか。オフサイドだのハンドだのには、審判にすぐ抗議するくせに、自分の返却期限オーバーは笑顔でスルーですか。ふざけるのも大概にしてください。イエローカードどころか一発レッドカード、向こう三ヶ月の図書室出入り禁止処分が妥当です!」


俺は本棚の影で、冷や汗が止まらなくなっていた。

怖い。とにかく怖い。関わりたくない。というか、俺がここに残っていることがバレたら確実にまずい。不法侵入者を見るような目で消される。頼むから早くその怒りを収めてくれ。


「それに何が『部室のどこか』ですか。本を何だと思っているのですか。あの資料本は、十年前に出版された地方の郷土史をまとめたもので、すでに絶版、古書市場でも高値で取引されている貴重なものなのですよ。もしあの埃っぽい部室で、プロテインやら汗やら炭酸飲料やらがページに染み込んでいたら、私は彼を絶対に許しません。末代まで呪います。図書カードのバーコードを永久に読み取り不能にしてやります。あ、そうだ、全国図書委員掲示板に書き込んでやる。北海道の司書さんも言ってた、サッカー部はだいたい本を無くすって!」


先輩の言葉は留まることを知らなかった。

普段の「お淑やかで完璧な委員長」という仮面の下に、これほどのドロドロとした怨念と、本への狂気的な執着が隠されていたとは、誰が想像できただろうか。


一通り叫び終えると、先輩はハァ、ハァ、と、まるで長距離走を走り終えたかのような荒い息を吐きながら、カウンターの椅子にどさりと座り込んだ。どうやら、溜まりに溜まった毒素をすべて吐き出して、少しだけすっきりしたらしい。


図書室に、再び静寂が訪れる。


俺は硬直したまま、どうやってこの場を切り抜けるか必死に考えていた。気配を完全に消して、先輩が作業に没頭した隙に忍び足で脱出するか。いや、鍵が閉まっているからどのみち先輩に開けてもらわなければならない。詰んだ。完全に詰んだ。


よし、ここは覚悟を決めて、今気づいたフリをして出ていくしかない。


「あの、一ノ瀬先輩」


俺は本棚の影から、できるだけローテンションな、いつもの声を意識して足を踏み出した。


「ひゃああっ!?」


短い、情けない悲鳴が図書室に響いた。一ノ瀬先輩は文字通り椅子から跳び上がり、目を丸くして俺を見た。


「ゆ、柚木くん!? なんで、いつからそこに」

「いや、チャイムが鳴る前からずっと窓際の席にいました。荷物をまとめるのが遅くなって」

「…聞いて、いたのですか?」

先輩の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。


「…全国の図書委員を代表した一言までは、バッチリと」


「」


一ノ瀬先輩は両手で自分の顔を覆い、そのまま数秒間、完全にフリーズした。

学校一の美少女の、あまりにも無防備な絶望のポーズ。しかし、俺にそれを可愛いと思う余裕はなかった。だって、彼女の指の隙間から覗く瞳が、今度は別の意味で冷たく据わっていたからだ。


先輩はすうっと息を吸い、いつもの、あの完璧に美しい、聖母の笑顔を作ってみせた。

顔は笑っているのに、目が一切笑っていない。そのギャップが、先ほどの怒り狂う姿よりもさらに恐ろしかった。彼女はゆっくりと、俺の前に歩み寄ってくる。


「柚木くん」

「はい」

「今のことは、忘れてくださいね?」

「できれば俺も忘れたいんですが、インパクトが強すぎて、その…記憶に焼き付いてしまいました」

「もし、今のことを誰かに言ったら」


先輩は俺の目をじっと見つめ、静かに、しかし拒絶を許さないトーンで告げた。


「あなたが先週借りた『ぼっちのための快適空間構築論』の貸出履歴を、全校放送の図書紹介コーナーの原稿に、おすすめの一冊として紛失を装って挟み込みます。もちろん、クラスと氏名付きで」


「ひぃ…」


俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

学校一の美少女に名前を呼ばれるのは男子の本望かもしれないが、そんな形で全校生徒に自分の陰キャ趣味を晒されるのは、社会的死を意味する。


「…誰にも、言いません。俺の平穏な生活がかかってますから」

俺は即座に両手を挙げ、無抵抗の意思を示した。関わりたくない。ただそれだけだった。この秘密を他人に漏らすメリットなど、俺には一ミリもない。


「ふふ、分かればよろしいのです。…それでは、閉館作業の手伝いをお願いしますね、柚木くん」


いつものお淑やかな声に戻った先輩が、俺に雑巾を差し出して微笑む。


なぜ俺が手伝わなければならないのか、という疑問は頭をよぎったが、それを口にする勇気はなかった。断れば、あの全校放送の脅しが現実になるかもしれない。


俺は諦めて鞄を机に置き、雑巾を受け取った。


静寂を求めて通っていた放課後の図書室。

どうやら俺の平穏な避難所は、今日を境に、世界で一番スリリングな場所に変わってしまったようだった。

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