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図書室で告白するな



高校の図書室という場所は、本来、知識の宝庫であり、思索と静寂のための聖域であるはずだ。


少なくとも、俺にとってはそうだった。騒がしい教室という名の戦場から命からがら逃げ延び、エアコンの効いた空間で誰にも邪魔されずに無の時間を過ごす。そのために俺は、放課後になると毎日ここへ足を運んでいる。


しかし、世の中にはこの聖域を全く別の目的で利用しようとする不届き者が存在する。


「あの、先輩」

「…何でしょうか、柚木くん」


放課後の夕暮れ時。俺の定位置である図書室の最奥、窓際の特等席。そのすぐ隣の席に、なぜか一ノ瀬しおり先輩が座っていた。

もちろん、普段の彼女は受付カウンターの奥で、学校一の美少女と噂されるにふさわしい、完璧なお淑やかさで貸出業務を行っている。だが今の彼女は、開いた文庫本で自分の顔を完全に隠しながら、低く押し殺した声で俺に話しかけてきていた。


なぜ彼女がわざわざカウンターを捨てて俺の隣に避難してきているのか。その理由は、ここから数メートルほど離れた「世界史・ヨーロッパ」の棚の陰から漏れ聞こえてくる、ひそひそとした話し声にあった。


「あの、私、ずっと前から、先輩のことが…」

「えっ、あ、いや、俺、まさかそんな風に思われてるなんて…」


若い。実に甘酸っぱく、そして死ぬほど場違いな会話だった。どうやら他クラスの女子生徒が、憧れの先輩をわざわざ図書室の奥に呼び出して、人生の一大イベントである「告白」をぶちかましている最中らしい。


「…聞こえますか、柚木くん」

一ノ瀬先輩が文庫本の端から、ハイライトの完全に消え失せたジト目を覗かせて俺を睨んだ。声のボリュームは極小だが、その中には凝縮された殺意のようなものが含まれている。


「聞こえますね。バッチリ聞こえます」

俺は文庫本のページをめくりながら、できるだけ声を低くして返事をした。巻き込まれたくはないが、これだけ近くに負のオーラを放つ猛獣がいれば、無視するわけにもいかない。


カチャ、カチャ。


世界史の棚の向こうから、今度は衣類が擦れ合うような音が聞こえた。おそらく、告白された側の男子が照れて頭を掻くとか、そういう動きをしたのだろう。その微かな音が響くたび、一ノ瀬先輩の細い指が、持っている文庫本の表紙をギリ、と引き千切らんばかりの力で締め付けていく。


「なぜ、ここなのですか」

先輩の細い唇から、呪詛のような呟きが漏れる。

「さあ。静かで人が来ないからじゃないですか。世界史の棚の奥なんて、テスト期間前でもなきゃ誰も立ち入りませんし」

「言語道断です。静かで人が来ないのは、そこが『勉強と読書のための空間』だからです。誰も来ないデッドスペースを見つけて色恋沙汰に利用して良いという免罪符にはなりません。あそこはナポレオンやルイ十四世が見守る神聖な歴史の棚ですよ。そんなところで愛の告白など、フランス革命に対する冒涜です」


先輩の怒りの矛先がどこに向かっているのか、俺にはいまいち分からなかった。だが、彼女の「図書室の秩序を乱す者」への敵意が、限界値に達しつつあることだけは理解できた。


「あの、でも、俺、部活とか忙しいし、今は誰とも付き合う気はなくて…」

棚の向こうで、男子生徒が気まずそうな声を出す。どうやら告白は失敗に終わる流れのようだ。


その瞬間、一ノ瀬先輩の眉間がピキリと動いた。

「…振るなら早く振りなさい。そして速やかに退室しなさい。引き延ばせば引き延ばすほど、この空間の気まずいエネルギーが濃縮され、周囲の蔵書の湿度に悪影響を及ぼします。今すぐその場で回れ右をして、グラウンドを十周してきなさい」


声が漏れている。小さくだが、確実に棚の向こうに届きそうな距離だ。

「先輩、シー。声、漏れてますから」

俺が焦って嗜めると、先輩はハッと我に返り、再び文庫本で顔を隠した。


結局、そのカップル未満の二人は、重苦しい沈黙のあと、女子生徒が小さく鼻をすする音を残して、逃げるように図書室から去っていった。

ガラガラ、パタン、と扉が閉まる音が響き、図書室には本当の静寂が戻ってきた。


しかし、俺の隣に座る猛獣の導火線は、すでに完全にパチパチと音を立てて燃え尽きようとしていた。


やがて、閉館を告げるチャイムが校内に鳴り響く。

残っていたわずかな一般生徒たちが退室し、図書室の重い扉が閉められた。一ノ瀬先輩がカウンターへ戻り、内側からカチャリと鍵をかける。


その金属音が静寂を破った瞬間、一ノ瀬先輩の背筋が嘘のようにぐにゃりと折れ曲がった。


ドス、ドス、と地響きが聞こえそうな足取りで、先輩が俺の席へと舞い戻ってくる。その手には、なぜか図書室の環境管理用と思われるデジタル温湿度計が握られていた。


バン!!


昨日、一昨日と同様に、先輩は俺の目の前の机に両手を強く叩きつけた。学校一の美少女の顔が、凄まじい怨念を湛えて俺の視界を占拠する。


「柚木くん」

「はい」

「全国の図書委員を代表して、一言いいですか?」

「どうぞ」


もう様式美だ。俺は驚くことすら諦め、文庫本を閉じて彼女の言葉を待った。


「図書室をラブコメの聖地にするのをやめてください。ここは学問の府であり、一時の感情に流された男女が修羅場を展開するための劇場ではありません!」


先輩は温湿度計を俺の鼻先に突きつけながら、ローテンションのマシンガントークを爆発させた。


「見てください、この数値を! 付き合いたて、あるいは失恋直後の人間が発する、あの特有の奇妙な熱気と手に汗握る緊張感のせいで、図書室の湿度が通常より五パーセントも上昇しています! 本にとって湿気は最大の敵です。カビやページのヨレの原因になります。彼らの色恋沙汰のせいで、我が図書室の貴重な蔵書たちが、人知れず水分を吸って苦しんでいるのですよ!」


「湿度の変化はエアコンのせいで、人間の感情のせいじゃないと思いますけど」

「いいえ、感情のせいです! 全国図書委員掲示板でも、これは『告白湿害』として広く認知され、恐れられている現象です。特に、とある南の島の高校の図書委員長(HN:南国の司書)さんからの報告によれば、図書室の片隅で同時に三組が告白を敢行した結果、そのエリアのライトノベルのカバーがすべて波打つという未曾有の大惨事が発生したそうです!」


ついに掲示板の仲間たちの話まで飛び出してきた。どうやらその全国図書委員掲示板とやらは、全国の図書委員たちが日々の愚痴と奇妙なオカルト検証を共有する、裏のネットワークと化しているらしい。


「なぜ、わざわざ図書室を選ぶのですか。放課後の教室、夕暮れの渡り廊下、あるいは体育館の裏。学校にはいくらでもラブコメに適したロケーションが存在するはずです。それなのに、あえて『静寂を維持しなければならない』という縛りプレイ環境を選び、ひそひそ声でスリルを味わおうとする。その歪んだ精神性が我慢なりません。静寂を返してください。図書室の静寂は、柚木くんのように『本当に何もする気がなく、ただ空気のように存在している人間』のためにあるのです!」


「ん?褒められてる気が全くしないんですが」

「最上級の褒め言葉です。あなたのように、本も読まず、恋人も作らず、ただただ静かに背景と同化してくれる利用者こそ、図書委員長にとっての理想の生徒です。それに比べて、あいつらは何ですか。『先輩のことが…』ではありません。そんなことを言う暇があるなら、世界史の棚の並びが微妙にズレているのを直していきなさい!」


先輩はハァ、ハァ、と息を荒くしながら、温湿度計のボタンを連打してエアコンの除湿モードを「強」に設定した。


俺は椅子の背もたれに体重を預け、呆れ半分、感心半分で彼女を見ていた。確かに、図書室で告白されるのは、静かに過ごしたい俺にとっても迷惑な話だ。その点に関しては、一ノ瀬先輩の怒りにも同意できる部分はある。


「まあ、でも」

俺はふと、頭に浮かんだ疑問を口にしてみた。一ノ瀬先輩の前で「俺」という一人称を使うのも、二人の距離感が少しだけ変化してきた証拠かもしれない。

「一ノ瀬先輩だって、学校一の美少女とか言われてるわけですし、こういう場所で告白されたり、相手が図書室に呼び出したい気持ちも、男側からすれば分からなくもないですよね」


それは、ただの純粋な疑問だった。これほどの美貌を持ち、普段は完璧な聖母として振る舞っている彼女だ。男子生徒からのアプローチなど、日常茶飯事だろう。


しかし、俺のその言葉を聞いた瞬間、一ノ瀬先輩の動きがピタッと止まった。


エアコンのブーンという稼働音だけが響く室内。

先輩は温湿度計を握り締めたまま、まるで石像のように硬直している。そして、彼女の白く綺麗な耳の付け根が、みるみるうちに鮮やかな赤色に染まっていくのが見えた。


「…は?」

先輩が、蚊の鳴くような声を出す。

「いや、だから、先輩も告白されたりしますよねって話」

「な、何を、馬鹿なことを言っているのですか、柚木くん」


先輩はバッと俺から顔を背け、自分の長い黒髪で顔を隠そうとした。だが、赤くなった耳までは隠しきれていない。さっきまでの猛獣のような勢いはどこへやら、声が完全に上ずっている。


「私、私は、その、図書室の秩序を守る義務がありますから。もし、万が一、億が一、そのような不届きな真似をしようとする輩が目の前に現れたら、その瞬間に貸出カードを没収し、永久出禁処分を下します。当然です」

「いや、出禁は厳しすぎるだろ。ただ好意を伝えたいだけなのに」

「図書室内での私情の持ち込みは、全面禁止です! それに、私は…その」


一ノ瀬先輩は、文庫本を胸に強く押し当て、床の一点を見つめたまま、小さな声で呟いた。


「私は、図書室で騒ぐような、ルールの守れない人間は嫌いです。…柚木くんみたいに、静かに、ただ私の隣で空気のようにいてくれる人で、その、十分ですので」


「……」

今度は、俺が硬直する番だった。


今の言葉は、何だ。

文脈からすれば、単に「静かな利用者が好き」という図書委員長としての好みを語っただけに過ぎないはずだ。だが、彼女のその真っ赤になった耳と、心なしか潤んだジト目で見つめられると、ただの帰宅部である俺の心臓にも、少なからず妙な振動が伝わってくる。


無自覚なのだろうか。それとも、これが学校一の美少女が持つ天然の破壊力なのだろうか。


気まずい沈黙が、二人の間に流れる。世界史の棚の向こうで展開されていたあの空気よりも、確実に濃密で、そして奇妙な熱を持った沈黙だった。


「あ、エアコンの、除湿が効いてきましたね」

一ノ瀬先輩が、引き攣った笑顔で話を逸らした。

「…そうですね」

俺もそれ以上追及する気にはなれず、あいまいに頷いて文庫本を開き直した。


「…柚木くん」

「何ですか」

「今日のところは、これで勘弁してあげます。…でも、もし明日、また図書室で告白しようとする不届き者を見かけたら、その時は二人で『出禁』の看板を持って突撃しましょうね」


「俺を巻き込まないでください」


俺が呆れたように言うと、先輩は「ふふ」と、今度は作り笑いではない、本当に小さくて悪戯っぽい微笑みを浮かべた。


静寂を求めて避難してきた図書室。

そこで繰り広げられる、お淑やかな委員長の奇妙な暴走と、時折混ざる想定外のカウンター。俺の平穏な放課後は、どうやら少しずつ、別の意味で落ち着かないものになってきているようだった。

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