7.
「はぁ~……」
俺の溜息は日に日に深くなっていた。それもこれも、全てあの毛むくじゃらのせいだった。
洗ってやったあの日から、ムクは姿を見せていない。せっかく仲良くなれたと思ったのに、やっと可愛いと思えてきたのに、ムクがいる生活が馴染んできたところだったのに、呼んでも呼んでもあいつは姿を現さないのだ。
「はぁぁぁ~~~……」
「おはようございます。……どうかしたんですか?」
臨時職員の林さんが、また話しかけてくれた。最近は会話も増え、かなりフレンドリーにコミュニケーションを取れている。彼女が持って来た粉っぽいインスタントのコーヒーの香りは不快だが、心配してくれる彼女の気持ちに心が安らいだ。
「いやぁ、なんというか……。ちょっといなくなっちゃって」
「いなくなった、って、何がですか?」
「何がって、うちのムクだよ。まぁ、元々野良だったし、そのうち戻って来るとは思うんだけど」
「あ、そうだったんですね。それならどこかに行っちゃうことも、あるかもですけど……。心配ですよね」
苦しい言い訳かと思ったが、案外すんなり信じてくれたようで助かった。
それにしても林さんは忘れっぽいのか、俺との会話をいつもほとんど覚えていない。そんなのだから臨時職員なのだろうが。
「私も、マロンが初めて逃げちゃった時は大変でした。……あ、マロンっていうのはうちの初代犬でトイプードルの茶色い巻き毛が可愛い子だったんですけどね」
にこにこと人懐っこそうに笑う林さん。その笑顔を見ていると安くて不味いインスタントコーヒーがいくらかマシな味になる。話を覚えていないぐらい大目に見てやろう。
「ペットって逃げちゃうもんなの?」
「そういうわけじゃないですけど、散歩中にいきなり駆け出したり、リードを繋ぎ直す時に走って行っちゃったりすると、追いかけきれないんですよね」
「なになに、林さんってワンちゃん飼ってたの?」
「あ、進藤さんおはようございます」
また余計な男が会話に加わってきた。いつも林さんと話していると割り込んでくる。この男の顔に張り付いている仮面のような笑顔のことを、他人は爽やかな笑顔とでも言うのだろうが、表面的な愛想を振りまいているだけで中身が空っぽな男に見えて仕方ない。
「今、普田巻さんちのムクちゃんが逃げちゃって、それは心配ですねって話してたんですよ」
「あちゃ~、普田巻さん、ムクちゃん脱走させちゃったの? やばいじゃん」
林さんがわざわざ説明するから、進藤が余計なことを言ってくるじゃないか。進藤なんか気にせず俺とだけ話していればいいのに。それに脱走させちゃったとはなんだ。まるで俺が悪いみたいじゃないか。
「近所とか探してるの?」
「ま、まぁ、そりゃな」
「張り紙とか作ったら? ほら、よく迷子のペットの張り紙、電柱とかに貼ってあるでしょ」
「あー、そうだな」
いかにも正しいですといった顔で指摘してくる進藤。お前に何がわかるっていうんだ。
俺の中にふつふつと怒りに似た感情が湧いてくる。こいつのへらへら笑う顔を思いきりぶん殴ったら少しはスッキリするだろうか。社会人として、そんなことはもちろんしないが、想像するのは自由だろう?
「まあそんなに気を落とさずに、ペットってのはひょっこり帰ってきたりもするもんだから、地道に探しながら気楽に待つのがいいよ」
「あ、でもそれは本当に。おうちの場所を覚えてて、いつの間にか帰ってきたりするんですよね」
「覚えてくれてるといいけどなぁ」
「大丈夫ですよ。普田巻さんが愛情を注いでたのはきっと伝わってますって」
「そうそう。ムク、なんて可愛い名前まで付けちゃって、可愛がってたのはペットにも伝わってるっしょ」
進藤がバンバンと俺の肩を叩く。問題は解決したと言わんばかりの笑顔で。
何も解決していないし、何もわかっちゃいない。
あいつは、ムクは、どこから来たのかもわからない。ある日突然家にいて、ペットになって、そしてまた突然いなくなって。
ムクがいなくなって、それまでの俺となんら変わりない日常に戻っただけだっていうのに、心にぽっかり穴が空いたようになって、満足なはずの日常を物足りなく感じてるんだぞ。
でも、そんなことを言ったところでどうせこいつらに伝わりっこない。
「はぁぁぁ~~~……」
俺は再び大きなため息をついて、どうにもならない現実を嘆いた。




