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6.

「ムクー。髪の毛、洗うからここに出てくれー」


 風呂場で何もいない場所に向かって話している俺の姿は、他人から見たらさぞ滑稽なことだろう。


 あれから俺なりに、積極的にムクとコミュニケーションをとってきた。してほしくないことをしていれば何度でもきちんと叱り、朝や帰宅時の行動はムクの方からじゃれて甘えているということにして撫でてやり、今日の出来事や他愛のない会話を虚空に向かって話しかけたりした。


 不思議なもので、そういう目でムクを見、接していると、その辺の犬猫と大差ないように思えてくるのだ。やんちゃで、愛情表現が下手で、でも寂しがり屋といったような個性が見える気がしてくる。


 前に臨時職員の林さんの言っていたことが、なんとなく腑に落ちて来た。『手のかかる子ほど可愛い』と。『うちの子が世界で一番可愛い』と。


 世の中のペットを飼っている人達はみんなこんな気持ちなんだろうか。


「おい、ムクー。今日はやめとくか? ……返事でもあればラクなんだけどな」


 だがきっと、本当にムクが返事をしたら、声を発したら、俺は心臓がひっくり返る気がする。だいたい髪の毛だらけのどこから声が出るっていうんだ。


「ったく、せっかく洗ってやろうと思ったのに。……あぁ、なんだ、ちゃんと出て来てくれたのか」


 諦めて浴室を出るかと振り返った先にムクが居た。どくんと跳ねた心臓に無意識に反応し、右手で胸を押さえる。そんなことより、ムクの髪の毛の長さが問題だ。


 天井付近でなくとも、俺の身長に合わせた高さだって相当な毛量になる。今回はムクは座った俺の目線と同じ高さに浮かんでいたから、かなり短い方だろう。それを確認して俺はいくらかホッとした。


「よし、捕まえた。ほら、今綺麗にしてやるからな」


 ムクに触れた時に背中を駆け上がって来るぞわりとした感触も、きっと今日が最後だ。綺麗さっぱり洗ってやれば、不快感を抱くこともないだろう。


 後頭部を撫でてやり、そっと力を入れるとムクは押す方にスススと動いた。ムクが動く時と動かない時の差が分からないが、今日は素直に動いてくれて助かった。


「シャンプーして、リンスもしてやるからな。さっぱりした方がお前も気持ちいいだろ」


 適温になったシャワーで長い髪を万遍なく濡らしてやる。やっぱり気持ち良いのか、小さく小刻みに震えていた。


 それにしても、本当に三百六十度、全部髪の毛だ。いつものムクより短いとはいえ、俺の数倍の長さと量がある。お湯をかけると濡れるものの、頭皮の脂がすごいのか、まばらに水をはじいている。一体どのくらいシャンプーを出せば綺麗になるのだろう。


「じゃあシャンプーするぞ。ちょっと冷たいかもしれないけど、我慢しろよ」


 俺はシャンプーボトルのポンプを外し、直接ドバっとムクにシャンプーをぶっかけた。特売で買ったこのシャンプー、無香料だと思っていたが、これだけ出してようやく石鹸の香りが鼻をくすぐった。


「よしよし、ちゃんと我慢しててえらいぞー。じゃあ洗ってやるからな」


 シャンプーまみれになった後頭部をガシガシと洗う。どっぷりとシャンプーがかかっているのに全然泡が立たない。ムクの頭が汚すぎるのか、それともこういう存在にシャンプーが効かないのか、どちらなのかはわからない。


「どうだ、気持ち良いか? こんな長いと洗うの大変だよなぁ」


 頭のてっぺんだけでなく、下側の方までちゃんと洗っていく。都度、抜けた大量の髪の毛が手にべったりつくのでシャワーで流しながら。


「どうせ変幻自在ならもっと短くしてくれよ。そうすりゃ洗いやすいんだけどな」


 ムクはさっきよりも震えが収まり、大人しくしている。爪を立てないように、柔らかく頭皮と髪を洗ってやる。少しずつ泡が立ち始めるにつれ、身体を這い回るおぞけはいくらかマシになった気がする。慣れただけかもしれないが。


 そんなことよりじっとしているムクが、苦手なものを必死に耐えているような、そんな殊勝な姿に見えて可愛いを通り越して愛おしさがこみ上げてくる。……俺の勘違いだろうか。


「そうだ。短く切ってやろうか? 手先が器用って褒められたこともあるし、きっと上手に……ちょ、ちょっと、なんだよ、落ち着けって」


 ムクはところどころ泡立つ頭を激しく振り始めた。洗っていた俺の手は弾かれ、風呂場の床や壁や天井にシャンプーが飛び散った。


「どうしたんだよ。あ、あれか。切るって言ったから怒ったのか? 痛っ。ごめんって。謝るから大人しくしろって」


 濡れてまとまった髪の毛がビッタンビッタンと暴れている。手当たり次第に風呂場にある物を落とし、髪の毛があちこちに当たる音と物が転がる音でうるさい。音もすごいが、威力もすごい。止めようと差し出す俺の腕や身体にも、鞭のようにしなった髪の毛が容赦なく当たる。


「痛いって。いい加減に落ち着けよ。痛っ、悪かったよ。冗談だって」


 俺の言葉なんて聞く耳持たず、だ。ビチビチととんでもなく暴れて手が付けられない。こういう時、他のペットを飼っている人はどうするのだろう。


「もうそんな冗談言わないから、落ち着け……あれ? ムク?」


 ムクの猛攻にどれほど耐えたのか。気がつくとムクは目の前から消えていた。目の前にはぐっちゃぐちゃで泡だらけの風呂場と、両腕に残るミミズ腫れのような無数の痛々しい痣だけ。髪の毛一本落ちていない。


 というか、あいつ、泡だらけのまま消えたのか?


「悪かったよ。謝るから許してくれよ」


 俺の言葉は、安っぽい石鹸の香る風呂場に空しく響いた。

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