間章1 豪商の末っ子は、聞いていない急転直下に首をひねる。2
重たい空気感が漂い始める会議室で、ファビオはまだ本題に入っていない現状に煩わしさがあった。
三文芝居の次は、演奏会が始まる前の時間のような静けさがあったのだ。
だが、その空気感はザノアールの咳払いで霧散する。
「……私から言おう」
もったいぶった様子で話そうとするザノアールに、最初からそうしていればいいものを。とファビオはザノアールと目線を合わせる。横目でビクターを見ると、興味なさそうに目線を逸らして「お願いします」と言った。
「……よし。ファビオ、冷静に聞いてくれ」
目力と言い方のせいで、重たい内容だろうかと勘ぐるファビオだが、横で座っているビクターの緊張感の無さが浮いて目立つ。
何だろうかと考える彼のことなど構わず、そのままザノアールは話し始めた。
「お前のところのゼクラット書店なんだが」
そこまで言って一度、呼吸をするザノアールはまた続けた。
「出資の提案があった。どこだと思う?」
「知らねえよ」
ザノアールの問いにファビオは寸分間を置くことなく返した。
当然の返答を聞いたビクターは吹き出すように笑った。
「おい、ビクター。笑うほどじゃないだろ」
ザノアールは笑うビクターに言うが、それでも止まらないビクターの笑い声にザノアールとファビオは彼が治まるまで待つことにした。
ファビオにとっては普通に返事をしただけのことだったが、笑うビクターにそこまで笑わなくても、と不思議に思った。
「いやぁ、ごめん」
「本当だよ、兄さん」
笑いが治まったビクターにファビオが言った。
ザノアールは腕を組んで椅子の背もたれに深く寄りかかるだけで、彼の顔はどこかいじけた様子でビクターを見ている。
「父さんもさ、ファビオは何も知らないんでしょ? そんな問いかけ……フフ」
「もう笑うな、悲しくなってくるだろ」
治まったように見えるだけでその実まだ、ビクターの心の内は笑っていた。
「もう大丈夫。父さん、続きをお願いします」
「もう、お前が言えば――」
「いいや、父さんが持ってきた話ですから」
ビクター兄さんが言えばいいのに、とファビオも思った。だが、ビクター自身がそれを断る。
ファビオの対面に座り、ビクターに却下されたザノアールはため息をついて、また口を開く。
「まぁいい。話が逸れたがな。ファビオ」
とさっきまでの空気感に戻そうとするザノアールだが、既に会議室にある空気感は重苦しいそれを霧散させていた。
それでも話そうとするザノアールの腰を折るようなことはしたくなかったファビオは、ズレていた姿勢を戻して彼に面を向ける。
「出資の提案を受けてな。私も驚くくらい良い条件なんだが」
「いや、どこからの話です? そこから教えてくださいよ」
出資の提案を受けていたことは話したが、どこからかは話していない。
そこが一番重要なところなのだが、ザノアールは「……そうだな」と少し言い淀んだ。良い条件という割に、気乗りしていない様子を見るファビオは首を傾げた。
そして、止まった話の流れはまた重い空気感を帯び始めようとしていた。
そんな空気感をザノアールの隣に座るビクターが、かき消すように声を出した。
「ケイドリン伯爵だってさ、ね? 商会長」
ビクターがザノアールを突き放すように商会長と呼ぶ。
その時は決まってビクターとザノアールの判断が対立していることをファビオは知っていた。
ビクターは『ケイドリン伯爵』と言った。
ファビオはザノアールの話を合わせると、ゼクラット書店はケイドリン伯爵からの提案されていることになる。だが、なぜ書店に直接その話が来ないのか。ファビオはまた、今度は深く首を傾げた。
「……まぁ、ビクターの言う通りだ。ファビオ、そういうことなんだが、どうだ?」
どうだ? と聞かれて、はい分かりました。と言えるほどファビオは賢くない。だから彼はザノアールに聞いた。少し腹が据えかねるのは一旦横に置いて。
「……そもそも、何でなんです? 別に僕、伯爵と話したこともないですし夫人とは少し話しましたけど、唐突すぎて、飲み込めないっていうか」
「そうだな、それでも仕方ない。そういうことなんだ。だから――」
「父さん、それじゃあファビオは分からないって」
ビクターの助け船がなければファビオは疲れ果てていたかもしれない。
ザノアールの悪い癖なのか、彼は彼基準で話をする。だから、何を指して言っているのかファビオは分からないことが多かった。上のきょうだいはみんなそこそこに、ザノアールと話ができるのが不思議でならなかったのだ。
「そ、そうか。すまんなファビオ。それでな」
ビクターの指摘にザノアールは、またファビオに話す。
ただ、居心地の悪さは残っているようで、しかめ面の彼をファビオは新鮮だと思った。
「もう、私が話します」
ビクターはザノアールの話を遮って声を出す。
「ケイドリン伯爵家からゼクラット書店に出資したいと申し出があった」
ファビオはビクターの言い方がザノアールに似ていると思った。だが、茶々を入れずにそのまま黙って聞くことにした。ビクターが少し苛ついているように見えたからだ。
「それで、ゼクラット書店をライフアリー商会から独立させて」
そこまで言って、言い淀んで下を向いたビクターの隣で、ザノアールも同じように下を向いていた。それを、ファビオはその二人を正面から見ている。
二人して何を言いたくないのか分からないファビオは「それで? 独立させて、何です?」と聞いた。いつまでもライフアリー商会にお世話になるつもりはなかった彼にとっては、ケイドリン伯爵からの申し出はありがたいことで文句はなかった。だが、その条件が独立だけではなさそうなことをファビオは二人を見て感じていた。
「いや、な」
ザノアールはビクターの方を見て言えば、そのビクターも「はぁ」と息を吐いた。二人の様子にファビオの目は細くなる。
「いい加減にしてくださいよ」
ファビオの口から出た言葉は至極もっともだった。
呼んでおいて出資がどうのと言うばかりで進まない二人に、そう思うのも仕方ない。
それはファビオの前で下を向く二人も分かっていた。
「……お前が経営をすることだとよ」
「僕が?」
ザノアールの言葉にファビオが聞き返した。
いきなりの話に困惑するファビオにザノアールは続けた。
「ケイドリン伯爵はお前が経営をしてみろってさ」
「私は反対ですけど」
ファビオは二人のその態度に認めたくはないが、なるほどと顔をしかめた。
六年前に失敗しているファビオに彼らは二の足を踏んでいた。
ファビオの身から出た錆で、彼らにとっては身内の恥である。
当のファビオも自分の兄が経営に失敗したというのは言いたくもないのだから、彼らが向ける気持ちも分かってしまった。
要するに、ケイドリン伯爵が多大な出資をする代わりに経営に難のある人間を据えろと言うのだ。それも自分たちの家族の人間だ。誰だって嫌である。
「そういうことなんだ」
ザノアールは話を折って結末を話した。
さすがにファビオもザノアールが言いたいことは分かった。
だが、彼にとっては苦虫を噛んでしまった様な険しい顔をする二人を見ると、分かりたくもなかった話だった。
「でも、僕には決める権利がないですよね?」
ファビオは浅く座り直す。
彼の心の内は緊張よりも、その話をどうするのかという疑問の方が大きかった。
今のゼクラット書店の経営者は商会から出向しているカーラだ。ビクターが会議室に入って来る時にカーラと話をしていたというのは、ゼクラット書店のことについてなのか、とも考える彼にビクターが言う。
「ファビオの言う通りなんだが……お前が立ち上げた事業だからな」
反対していると言うビクターは、優しい声色で続けた。
「いやぁ、やっぱり拒否できないですかね?」
「受けるしかないだろ。これまでの関係もある。書店一つで関係を損ねる方が損失が大きいんだろ? お前がそう言ったんだ」
「そうなんですけど。何というか、ファビオを見ているとなんか」
ビクターは心底嫌そうに目を細めた。人によっては睨み付けるようなそんな顔だ。実の弟に向ける顔ではない。兄としてどうなんだ? と言いたくなる気持ちを抑えて、ザノアールを見ると彼もビクターと同じような目をファビオに向けていた。
「まぁ、ビクターの気持ちも分かる。よく分かるがもう決めたことだ」
何なんだよこいつら、人を呼びつけてこんな目を向けてくるなんて親の顔を見たい。と内心毒を吐くファビオは、「……決めたんですか? それで?」と話を進めようと口を開く。これ以上構えていても仕方ない、と彼は背もたれに体を預けた。
「ケイドリン伯爵の申し出は受ける」
そうだろうな、とザノアールの言った言葉にファビオは胸の内で返事をする。
「それで、お前も経営者に戻す」
ありがたい話だが、ファビオは現実味がなかった。あれほど経営者に戻ってやろうと息巻いていたものがなぜかいきなり戻ってきたのだ。ひとりでに。
「どうした? 嬉しくないのか?」
ザノアールは怪訝な顔をしてファビオを見る。そんな彼のことを「多分、分かってない感じですね」とビクターがファビオを見て言った。
「分かってる! ……ちょっと現実味がないだけ」
「そうか」
ザノアールの一言が会議室に響いて終わる。
会議室が静まった。
経営ができると喜ぶべき彼が黙ったままなのが原因で、ザノアールとビクターは彼が何を言うのか待っていた。
「ビクター兄さん」
ようやく口を開くファビオがビクターを呼ぶ。少し納得がいっていない様子の彼にビクターは「何だい?」と聞いた。
「前にした条件の話。あれはどうなるの?」
ファビオが聞いたのはゼクラット書店が出版する頻度を見てライフアリー商会から独立できるか考えるという条件だった。そのことはビクターも覚えている。
この話が出てくる前にした約束ではあったからこそ、ファビオはビクターがどう考えているのか気になった。
「まぁ、仕方ないよ。ケイドリン伯爵からの出資はゼクラット書店の借金を帳消しにしても余るからね、それに、書店は本だけ売ってるんじゃないんだろ?」
「まぁ、そうですけど。って、帳消しにしても余る? どれだけの金ですか?」
「それは言えない」
ファビオの質問に一言を返すビクターにザノアールも「悪いなファビオ、言いたいところだが言ってしまうとな」とビクターの話に乗った。
「でも良いじゃないか、書店も順調でお前もちゃんと働いているってカーラさんも言っていたからね。もう、条件も何もなしにしよう」
両手をあげて降参と言いたげなビクターを見て、ファビオはようやくザノアールとビクターの話のことを理解できた。
堅物だと思っていたビクターがそう言うのだ。嘘でも何でもないその話に、ファビオの顔は少しずつ赤くなる。
「良かったな」
ビクターの言葉にファビオは「まぁね、でもなんで出資をしてくれるの?」と聞いた。
「エレジアからは、ディオネ嬢を気に入ったからだと」
肩を落とすザノアールは続ける。
「ディオネがケイドリンにいつでも行けるように手を打つんだと」
そう言って椅子の背もたれに寄りかかるザノアールを見てファビオは「まぁ、あの人ならそうしかねないか」とこめかみを掻いて頬をヒクつかせた。
ファビオは、エレジア・ケイドリンがなぜそこまで、ディオネの何に心酔できるのかが全くもって分からなかった。




