間章2 新米貴族は、姉弟喧嘩に手をこまねく。2
少し重たく感じる扉を開いて屋敷に戻ったライアンは、使用人として雇っている妙齢の女性たちへ「ライフアリー商会の方は応接室へ案内を?」と聞いた。戻ってきた主の言葉を聞いた彼女達はライアンに、「お帰りなさいませ」と頭を下げてから続けて「はい、奥様が応接室へ通すようにと言っていたので」と二人が住むには広すぎる屋敷を水気を含んだ雑巾で掃除をしながら答えた。
「今日は良い天気ですよね」
ライアンに声をかける一人の使用人に彼も「そうだね。少し暑いけれど」と返せば、「そうですね」と言って持ち場に戻る姿を横目に屋敷を歩く。
彼にとっては、彼女達の態度は昔から一貫していて、ライアンには特に思うこともなかった。そして、そのまま玄関から応接室に向かって屋敷の中を歩く。ただ、彼女達の『奥様が言った』という言葉を聞いて、胸の内に抱えたばかりの不安は大きくなっていた。
「……エリーには教えてないはずなのにな」
風が入らず熱気を帯び始めた屋敷の廊下をライアンは歩く。
ライフアリー商会の一員として来たはずの、ゼクラット書店のファビオのことを考えながら、また額に滲んだ汗を拭った。ファビオの姉であり、ライアンの妻であるエリザベスにはファビオがこの屋敷に来ることを伝えていない。だからこそ彼は、彼女の直感もしくは嗅覚の鋭敏さに頭を抱えた。
「ここまでのものだと薄ら寒くなるな」
そう言って僅かに口角を上げる彼は、屋敷に差し込む強い日差しを受けながら進む。
二人と知り合う前、ライフアリー家の次女エリザベスと四男ファビオの印象は口伝てでは大人しく人形のように可愛らしい女の子と他人と関わろうとしない男の子のはずだった。だが、知り合い、実際に話してみれば真逆だったのは、今では一つの笑い話になっている。
明らかに攻撃的な物言いをしてファビオを困らせるエリザベスと、そんな彼女を煽るように反発するファビオを初めて見た時、ライアンは、人となりは直接会って話さないと分からないことを知った。
だが、人形のように可愛らしいというエリザベスの容姿が、想像以上に綺麗に見えて一目で惚れてしまったことは、ライアンは誰にも言わずに墓場まで黙ることにしていた。
「にしても、それなりに長い関わりがあるのは不思議だな」
ライアンとエリザベスが将来をそういう仲になることを約束されたのは大人の事情で二人は了承していた。だが、ファビオともこれだけの時間関わることになるとは、露にも思わなかった。
これまでのことを思い返す彼は、「確かまだ学園に居た時。……俺がエリーと話した時から、特に、か」と息を吐く。
ちょうど学園を卒業する一年前、今から数えて三年前の話。
貴族タングリング家が『統治不能』の烙印を押されるまで秒読みだと首都で噂が回って、彼はエリザベスにタングリング家の後始末を被らせたくないと婚約破棄を願い出た時から、その一部始終を野次馬のごとく見ていたファビオと、その頃から特に関わり合いが増えた気がした。
その後も、色々と問題が起こってはその中心にいつの間にかファビオ自身がいる。あるいは、そもそも問題が解決してから素知らぬ顔でいつも通りにしているファビオを見る彼は、人と関わろうとない男の子という印象は皆無だった。というより、なにか厄介事があればどこかで絡んでいるような印象しかない。
「やっぱり工場に来てもらうべきだったか? ……しかしなぁ」
事前にファビオがタングリングに来ることを、ライフアリー商会からの連絡で彼は知っていた。だが、紙の製造場所である工場はタングリング領内でも公にしていない。
紙という物自体は最近になってデミストニアの首都でよく見る消耗品になっているが、三年前までは消耗品といえど高級品であった。
故に、いくらライフアリー商会と提携している紙の製造と卸売りの商会であるタングリング商会の定期会議を、その工場で行うことをライアンは渋ったのだ。そもそも、ファビオが来る時点でその定期会議が出来ない事もライアンは知っていた。
ただ、エリザベスが商会間の会議に関わる必要がないし、彼は今日が会議の日だと言ってなかった。
「……ライアン様? どうかなさいました?」
応接室に続く廊下を、俯いてこめかみを押しながら歩く彼とすれ違った使用人の一人が彼に声をかけた。唐突に声をかけられて、ライアンはその声の方を向く。相応に年がいってシワが目立ち始めた使用人の中でも高齢の彼女が不思議そうにライアンを見ていた。
「あぁ、申し訳ない。ライフアリー商会との会議で考え事をしていてね」
「そうですか。商会の方はのんびりしていらっしゃいましたよ」
その一言で、ライアンはファビオが暢気に応接室に向かったことを知った。
エリザベスから通された応接室に、一人で待っておけるほど彼女はファビオに対して甘くない。ライアンがこれまで見てきた彼女達の関係性を考えれば、言い争っているだけであればまだマシだと思った。
「あー。まぁ、ここまでならそうなんだと思うけれどね。これから先のことでさ。ろくでもないことにならないといいんだけどね」
「はぁ」
よく分かっていない様子で答える彼女をライアンは見る。
のんびりと時間が流れるタングリング領の人らしく、柔らかに愛想笑いを浮かべる彼女を見てライアンも口角を上げて笑って言う。
「エリーにはさ、会議のことを教えてなかったんだよ。だから、なんで知ってるのかなってさ」
彼女に言ったところで、ライアンはたいしたことにならないと思って言うと、目の前の彼女は困った顔をした。
「どうかしたかい?」
困った顔のまま、目を閉じた彼女は何かの合点がいったようで眉を下げながら目を開けた。
「……なるほど。でしたら私のせいですね。申し訳ありません」
「ちょっと、どうしたんだい?」
そう言って頭を下げる彼女にライアンは彼女の肩を掴んで起き上がらせる。
「奥様にライフアリー商会の方がお見えだと私が報告を」
ライアンの不安のタネは、肩に手を置いた彼女のせいだったようで、彼女の口から出た言葉に目をパチクリさせた彼は少し間を置いて、彼女の肩に置いた手を離してそのまま頭の方に持っていった。
「……そういうことか。まぁ、気に病むことでもないさ」
ライアンの言葉に彼女は下がった眉を上げた。
「ありがとうございます。それでは」
それだけ言ってライアンに軽く一礼した後、踵を返して廊下を歩き始める。
もう終わった話としたい様子の彼女の後ろ姿を、ライアンは引き留めるために口を開いた。
「……そうだ。人数分のコップを用意してくれないか? 工場から戻ってきたばかりでね」
「かしこまりました。後ほど応接の間に伺います」
彼の言葉に振り返った彼女は、さっきまで困ってどうしようもなさそうな顔がなくなって仕事を続ける顔つきに戻っていた。
そんな彼女にライアンはこめかみを掻いてから、「よろしく」と言って振り返り、応接の間に向かって廊下を歩き出す。
彼の後ろでは、頭を下げていた使用人の彼女も歩き出したようで軽い足取りが彼まで届いて少し離れると消えていった。
「まぁ、仕方ないといえば……そうだな」
彼女はエリザベス・ライフアリーの側付きのために新たに雇った内の一人であるから、ライアンが屋敷を出ていた際には真っ先に伺いを立てることは何も間違っていない。ライアンにとっては、この屋敷がエリザベスの意向が彼の言葉よりも大きくなりつつあることを、婚姻してから一年と少し経って良く理解していた。
「それにしてもだ。エリーはよくファビオ君が今日来ることを分かったな。……きょうだい愛ってことにしておくか」
屋敷を歩き進む彼の胸の内にあった不安は、もう確実にそうなるだろうと考えて、治癒院の人間を呼ぶべきか悩みつつ応接室まで歩いた。
屋敷の一番端にある応接室の扉の前で、ライアンは一つ息を吐く。
「……気が重いな」
正直に、胸の内にあった言葉を彼は一人呟く。待ち人がいる部屋の扉を前にして、消えた言葉は扉の向こうから聞こえる聞きなじみのある声に変わっていく。
『もう何回も言ってるけどさ。『深窓の令嬢』は本当に終わらせるんだって』
『今日聞いたばかりでその態度。いつからその決定権があるって錯覚してるの?』
『錯覚って……最初から持ってるんだけど』
『お子様の想像力もここまで来ると傑作ね』
ここまで直接的な売り言葉を言う彼女は、二人で休んでいる時くらいしかライアンは見ていない。最近では特に物珍しくなっていて、扉にかけた手を離して耳を近づけた。
『想像力って……そんな上等なものは僕にはないよ。そういう姉さんこそ、色々とあいつに手紙を送ってるらしいじゃないですか』
『私はいいのよ。若いから』
よく通る二人の声が扉越しでも左と右側に分かれていることに、ライアンは最悪の状況に至っていないことを確信した。少しずつ話の温度が熱を出し始めていることも彼は分かって、扉に近づけた顔の眉間に薄くシワを作る。
『えぇ? 若い? そっちこそ子どもの真似事してるみたいって言いたいんだけど? 言葉の綾ってやつが、姉さんには分からないんだね。こどもだからか。仕方ないね』
そして、挑発するように右側から聞こえる声を聞いたライアンは経験上ダメだと思った。
左側に座っている彼女が、その挑発に乗らなければダメではないのだがこれまでの経験では、挑発に乗らない彼女は彼女ではないことも分かっていた。
『もしかして図星だった? 『深窓の令嬢』はもう打ち切りでディオネとも話してるからさ』
図星どころかまっすぐに彼女の恥ずかしいところを当てていく彼の鋭さに尊敬の念すら浮かぶライアンは、(さすがきょうだい。というか、ファビオ君はどうして――)と扉に手をかけて(もう、盗み聞きはできそうにないか)と引いて魔道具の明かりがついた応接室に入り――。
「てめぇ! ちょっと書店の経営が良いからって調子乗って――」
と扉が開いた音とともに、ライアンは久しぶりにドスが効いた黒髪の彼女――エリザベス――の怒号よりも強烈な絶叫に似た声を聞いた。
椅子から立ち上がって気分は最悪な方へ昂っているエリザベスがライアンの方を見ると、「ちょっと部屋から出てくれる?」と聞いてきた。
「いや、さすがに今日は私の客だからね。エリーこそ出てくれるかい?」
何年も一緒にいれば、怒っている彼女に気おされることもないライアンは応接室に入ってエリザベスが手を伸ばせば触れるほど近くまで進んだ。
「とりあえず、落ち着いて」
エリザベスの肩に手を置くライアンに、火照った体の通り顔まで赤くなっている彼女は彼に目を向けて「落ち着いてるけど?」と全く落ち着いていない様子で言った。
「そ、そうだよ。姉さん」
元の元凶――ファビオ――は、もたれかかった椅子の裏側から顔だけをライアンとエリザベスの方に向け、くすんだ金髪と少し怯えた赤い目を見せていた。
「もとはと言えば、てめぇの!」
顔色は悪そうではあったが、はっきりとした口調に調子の良さを感じるファビオを見つつ、ライアンはエリザベスに「まぁまぁ」と宥めて椅子に座りなおそうとしているファビオに顔を向けた。
「ファビオ君、それくらいにしてくれ。君もまた三年前のようなことになるのはごめんだろ?」
例のディオネ・スカンタールが書き上げて売った『深窓の令嬢』の一番最初の本で起こった騒ぎのこと。
綺麗な黒髪が逆立っていると錯覚するほど怒ったエリザベスがファビオの顔面を思いっきり打ち抜いた時の話。ライアンはファビオの顔の骨が砕けた惨状のことを時折思い出しては、自分はそうならないよう注意している。だが、当の本人は忘れているようだと、ライアンは困った顔をして眉を下げた。
「……そうですね。……姉さん、僕が悪かったよ。ごめん」
椅子に座ったファビオの言葉に、熱が上がった応接室が一気に冷めていく。
「最初からそう言えばいいんだよ。気分が悪いから、ディオネちゃんに『深窓の令嬢』の新しい物語を書いてもらわないと治まらないかも」
弟の謝罪につけ込む姉の構図を、子どもの頃からライアンは幾度か見てきたが、大人になってもそれは変わらない。胸を張ってどこか偉そうにファビオに目を向けるエリザベスもさっきまで座っていた椅子に腰掛けた。
(最悪の事態だけは免れた)とライアンは応接室にある椅子を一脚エリザベスの隣に持って座ろうとするが――。
「それは本当に無理。だって、ディオネが決めたから」
「はぁ!? 私の了承もなしに!?」
ファビオの言葉にエリザベスがまた立ち上がって座っている彼を睨み付けた。
ライアンはその光景に、話し合いをどう始めていこうか分からなくなった。




