間章2 新米貴族は、姉弟喧嘩に手をこまねく。1
デミストニア自治国の首都であるデミストニアから、馬車で半日弱ほどの場所に位置するタングリング領。その土地の由来となった貴族が未だに町外れにある大きな屋敷に居を構えているだけの土地である。
特段、商売が盛んでもなければ、特産品があるような土地でもなかったその領ではデミストニア自治国としてワグダラ王国から独立した後も、細々と平穏に暮らす人達が毎日を謳歌しているそれだけの土地だった。
それが近年、とんでもないほどの発展をしかけている町並みは、とある商会を起点に昼夜問わず建物を建てる音と道を整備する音を響かせている。
事の発端は紙の生産を始めた三年前からだった。
当時も現在も変わらずその土地を治める貴族のタングリング家は、デミストニア自治国議会で決定した中央集権の政策方針による貴族特権の収用を七年後に控えていた。だが、その七年を待たずして運営難による『統治不能』に遭っていた。
昔からの話なのだが、タングリング家の歴代の当主は特産などなにもないその土地を、緩やかに統治することを是としていたせいだ。故に、前当主デービット・デ・タングリングの統治期間に問題は起こった。一年前、後継のライアン・デ・タングリングとライフアリー家の次女エリザベスの婚姻を機に当主の座を退き、現在は首都で余生を送っている。
結局、『統治不能』寸前まで事態を軽く見ていたタングリング家の即時貴族特権の剥奪を検討されるまで至ったのだ。理由は巨大に膨れ上がり、回収の目処を建てれば数十年もかかる財政赤字のせいだった。特産がないタングリング領では領民の税によって賄っていた公共の福祉をデミストニア自治国に借り入れという補助金をもらいながら生きながらえていたのだ。
それが長年の間、一向に好転しないタングリング領の統治に議会の調査が入ったことで、議会は補助金を打ち切り借り入れ金の返済を迫ったのだ。
そんな訳で窮地に陥っていたタングリング家ひいてはデービットだったが、当時婚約していたライアンとエリザベスの縁を頼り、ライフアリー商会の援助でワグダラ王国を跨ぐ位置にあるドリンシャス帝国のトレンティア領との交易をする事になる。
交易と言っても高級紙に分類される薄く丈夫で白い紙の製造方法の教授を受けることだけ。トレンティア領と直接の交易はワグダラ王国の経済制裁による要件に当てはまっているので、あくまでタングリングとトレンティアの相互出向だが、ワグダラ王国から横流しされるだけのデミストニア自治国にとっては、将来現地生産できるかもしれない紙の製造がタングリング領の特産になる事をライフアリー商会は目論んだ。
代々続く商会長の娘を嫁に出す訳なので、ライフアリー家にとってはそれなりに自立して生活できるようにしてほしいだけだったのは想像に難くない。
そして、その交易が始まったのが三年前になる。
長閑に日々を過ごしていた領民に立ち退きなどの要望を出したタングリング家は、彼らの反対を押し切って紙の製造を推し進めることになった。
その時始めて、三百年近く続いたタングリング領が特産品を創り出すことに真剣に向き合った。
それから一年近く経ったあと、紙の製造は軌道に乗り出す。
薄く品質の良い紙など、どこもかしこもが欲しがった。
品質にムラがあった当初からライフアリー商会が紙を買い取っていき、充分に安定した紙の製造が可能になれば、デミストニア自治国に構える色々な商会と教育機関がワグダラ王国から転売される紙の値段よりも格段に安くそれなりの品質の紙を求めたのだ。
それからはもうトントン拍子である。紙を刷れば売れていく当時の勢いに、ライアンとデービットは金を刷っているのかと戸惑うくらいに売れた。現在は一定の落ち着きが出てき始めたが、当時は製造工場に民間商会の密偵が潜り込みトレンティアからの技術を盗もうとする輩も多かった。特にワグダラ王国内で興った商会ギルドの系列商会員が日夜問わず技術や出来上がった紙を盗み出そうとしたり、果ては巷で売れっ子作家として名声を上げつつある新進気鋭の女性作家も突然工場に出向いては紙のことで文句を垂れ流したりもしていたのはライアンにとっては身近な過去の話である。
そして晴れの日が続く今日、来客の予定があったライアンは時間がない中、紙を窃盗しようとした商会員に沙汰を下しに出向いた帰り道を、愛馬に跨がり来た道を戻っている。彼は日に日に大きく広くなっていく町を横目に、生まれた時から住み続けている屋敷に向かっていた。
そして、陽が昇りきる頃に彼は屋敷の門の前まで乗っていた馬を止める。
「ドウドウ。……良し」
愛馬であり名を『アリ』と付けた青鹿毛の牡馬は従順に、ライアンの命令を聞いた。
そんなアリの首元に手を当てた彼は「良い子だ」と叩くと、嬉しそうに耳を動かす。その馬は彼が所有する動物の中でも一番澄ました行動をするが、耳と尻尾だけは感情と直通で、取り扱いを間違わなければ素直で頭の良い馬である。
「今日もありがとうな」
鞍から身軽に下りたライアンは、「おーい!」と屋敷までの坂を上って息を切らしているアリの首を撫でながら言うと、閉じた木の門に向かって声を上げた。その手は手綱を掴んだまま、気にすることもなく大声を上げる。
馬は総じて音に敏感なはずだが、アリは彼の声に慣れているようでたくましい首を振るだけで素知らぬ目をして屋敷まで響く町の音へ首を向けた。
そうして、ライアンの声から数刻としない内に、門の向こう側から走る音が彼とアリまで聞こえた。
「エリザベス様! ライアン様が戻られましたぉ!」
向こうから聞こえる男の声に、少し遅いなと首を掻くライアンは「アリも一緒だ! 誰でも良いから厩舎に連れて行ってほしい!」とまた声を張り上げる。
「委細承知!」
帰ってきた言葉に、向こう側にいる彼は分かっているのか。
ライアンは警備員として雇い始めた彼の言葉が、ディオネが書いた本に載っていたことを思い出す。
二年前に婚姻を挙げてから、エリザベスが何度も繰り返し読む『深窓の令嬢』の三作を、彼も気になって読ませてもらった。
何度も感想を聞くエリザベスのことを可愛らしく思いながら、毎日のように『今日はどこまで読んだ?』や『まだそこ?』と聞く彼女に辟易したことも合わせて思い出して彼は首を振った。
最後の方では、エリザベスの方から先の展開を話し出し、さすがのライアンも『勘弁してくれ』と願わずにはいられなかったのは記憶に新しい。
「……嫌なことを思い出したな」
日が照りつける門の前で、額に汗が滲み出した彼は、日差しが強くなる季節に変わり始めたことを感じながらそれを拭う。ライアンは門の向こうでドタバタと忙しなく開門の準備を進める彼を待ちながら、長閑にこの土地で時間を刻んでいる。
澄んだ空気と時折鳴く小鳥のさえずり、遊びにやってくる領民の子どもたち。デミストニア中心の町とは違ったこの空気感が、ライアンは昔から好きだった。
だからこそ、ライアンはデービットから首都に移り住むことを提案されても、代々受け継いできたこの地に根差したのだ。
デービットはデミストニアに建てた邸宅で気長に暮らしているようだが、彼にとってはこの土地で暮らす人と一緒の空気を吸うことが父と暮らすよりも何倍も良かった。
「ライアン様! 今開けますんで! よろしいか!?」
少しばかり時間が経つと彼の声がライアンの耳に届き、返事を待たないまま門がゆっくりと開いていく。主従の契りを結んでいるはずだが、その態度はどこか友人への扱いのようだと彼は感じていた。
修繕されたばかりの門の動きはなめらかで、蝶番からは一切の金切り音が鳴らないままライアンとアリが通れる幅まで開いた。
「お帰りなさいませ!」
ライアンの耳に直接届く声に向けて「あぁ」と声をかける。
綺麗に着た新品の制服に袖を通した彼がライアンに近づいて「アリの手綱、預かります!」と言って近づくと、当のアリは言ったことを分かったようで、ライアンが手離した手綱を首を振って遊ぶように振り回す。
「ちょ、ちょっと!」
上唇を目一杯にあげて笑うように振り回すアリに、ライアンは少し前まで退屈そうにしていたアリのことを見て微笑んだ。
「あぁ! ライアン様!」
「別に逃げ出さないさ、ホールも休んでいいよ」
ライアンの言葉に警備を担当する彼――ホール――はライアンの方を見て「ありがとうございます!」と頭を下げた。その拍子にアリはホールから逃げるように駈歩で中に進んで行く。
アリを追いかけるホールの「おい! 待ってくれよ!」という叫びに似た声と共にライアンも門をくぐって中に入った。
中には一台の見慣れない馬車が停めてあって御者と休息中の二頭の馬がホールとアリを目で追っている。
「そうだった! ライアン様! ライフアリー商会の方が既にお見えになっています!」
「……ありがとう。助かるよ」
(確か、出かける前にライフアリー商会が来たらすぐに知らせてくれって言ってたはずなんだが?)
屋敷の裏にある厩舎の方に走っていくアリを追いかけるホールの背を見ながら首を傾げて歩く彼は、屋敷の応接室がある方向に目を向けるとカーテンで中が見えなくなっていた。出かける前までは閉ざされていなかったはずの部屋だが、様子を見るにライフアリー商会が訪問してから時間が経っているんじゃないかとライアンは考えた。
「……面倒なことになってないといいんだが」
停泊している馬車に座っている御者が歩いている彼に気づいたようで、馬車から降りて頭を下げた。その姿を見た彼は御者に「ここに着いてから時間は経っているかい?」と聞くと、一回りは年が離れていそうな御者は「そうですね。ありがたいことに軽食もいただきまして」と頭の後ろを擦って返した。
「……なるほど。ありがとう」
「いえ。タングリング様のご帰還に居合わせたこと、まことに喜ばしく思います」
もったいつけたような話し方をする御者はまた頭を下げてライアンを見送る。
そんな彼から目を離せば、もう十歩程度の所に屋敷の玄関扉があった。
「……はぁ、大丈夫だろうか」
呟くライアンは、先に待っている商会の彼のことを心配した。
厳密には商会員ではない彼がライフアリー商会の名前で来る時は、決まって売れっ子作家から何かしらの要望が上がっているのは間違いない。大抵は無茶な要望に頭をひねる羽目になることも、この一年間で幾度もあった。
「ファビオ君、エリーと鉢合わせしてないと良いが」
二人が顔を合わせたら碌なことにならないことをライアンは知っている。だからこそ、来た時にすぐ知らせてくれと頼んでいたのだ。
「今日は朝から面倒事が多い気がするな」
扉に手をかけるライアンは最近する事がなかったため息を吐いて扉を引いた。遠くで「いってぇ! 噛むなよ!」とホールの叫びが聞こえる中、彼はこの先の予定がどうもつつがなく進む気がしなかった。




