幕間1 豪商の末っ子は、急転直下な日々に目をつぶる。
「それじゃあ、引き継ぎ書類は私が作ってるから、また今度ね」
小さなゼクラット書店の、小さな間口に似合う一つしかない玄関の扉から鈴が鳴った。
リンリンと涼しげな音に耳を傾けつつ、僕は扉に手をかけて外に出ようとするカーラさんを店内から見送る。
「わかりました。次来る時はちゃんと連絡してくださいよ」
去り際の彼女の一言に日頃感じていた不満をそれとなく伝えてみるが、彼女は振り返ってとぼけた顔をしながら手を振った。
青い髪を肩口まで揃えて切った彼女は、以前は色濃くつけていた目の下のクマがサッパリなくなっていて、その肌は外から入る強い日差しにも負けず白く輝いている。ケイドリンに行くことには彼女の強い要望もあったようで、ここ最近のカーラさんの疲れ果てた顔つきは見なくなっていた。
「分かってるわよそれくらい。じゃあね」
「はい、お疲れ様でした」
玄関の扉が閉まるまでの少しの時間、いつも通りのまま書店から出てライフアリー商会に帰っていった彼女を見送るが、この感じだとまた急に来る気がした。
もう少しで見納めだから別に気にすることもないと思うが、急に来られても対応できる時間がないのでどうしようもない。多分だけど。
「ファビオ君もお疲れ。僕も帰るよ」
「何言ってるんだよ。まだ業務時間だろ? またアンナさんに怒られても僕は庇わないからな」
「いや、庇われたことないんだけど」
そして次は面倒な奴の声が後ろから聞こえた。
カーラさんが帰ればすぐこれだ。
息を潜めていたマイケルが僕の後ろから、ちょうど鞄を持って時間を見計らって声をかけたのは容易に想像がつく。
彼女の小言が嫌だから隠れていたんだろうけれど、いい歳した大人が子どもみたいなことをしている。もうため息すら出てこない。
「それに、あの人ならもう帰ってるけど? だって夕方まででしょ、あの人」
まるで僕が時間を把握出来ていない人みたいで、やれやれと首を振るマイケルに少しの苛立ちが募った。
「……そんなに時間、かけてました? 全然気にしてなくて」
「えぇ? 時間を気にしない経営者っているの? あぁ! ここにいたんだ!」
……一旦、本当に一旦マイケルのことは考えないようにしよっか。今目を合わせたら言葉よりも先に拳が出そうだから。
今日は、カーラさんに売上目標のこととか諸々の引き継ぎをしていたから、そこまで時間がかかってない。正直、経営云々の急な進展というか、まさにゼクラットおじいさんが頭を抱えながら言っていた『急転直下とはこのことか』とかを今さらながら思い出す。
思い出したところで、本人がもういないからその言葉の理由はよく分からないけれど、なんとなく昔のことを思い出す頻度が増えているのは僕が年をとった影響——もとい、心も大人になったからなのかもしれない。
今まではそう思い出すことなんてなかったはずだけれど、ここ最近は引き継ぎと確認の作業で僕の一人時間はあってないようなものなのだ。まるでビクター兄さんの仕事みたいな、そんな感じ。
……まぁ、とりあえずマイケルに煽られていることも分かっている。けれど、いつもの悪ふざけなのは重々承知の上だし僕も分かっている薄っぺらい余裕をもって対応するのだ。
「うっせぇ。今月の給金から僕が差配することになってるから、口の利き方——」
「これはこれは! デミストニアで飛躍を遂げようとしている有名書店の経営者様! よ! さすがライフアリー商会の末弟!」
すぐに鞄を置いて、目の前で腰を低く両手をこまねくマイケルが、まるでディオネが書く雑魚の悪役のごとく誰でも苛つくような顔をして迫った。末弟って褒めてない気がするが気持ち悪い遜り方をするこいつの目を見て本気ではない冗談めかして言っているそれに頭を掻いた。
「いいって。今月の給金はもう差配が終わってるから」
「……なんだよそれ。じゃあヨイショは無駄じゃん」
途端に僕を見上げるマイケルがため息と共に腰を伸ばして首を回し、「じゃ。僕帰るけどいいよね?」とカウンターの側に置いていた鞄を持って僕に聞いた。
「いや、帰る時間はまだじゃない?」
同じ問答を繰り返している気もしたが、カーラさんが書店に来たのは昼の休憩が終わってすぐの時だ。
そして帰る時はもう終業の時というのは、僕が言っていいかはどうかは定かではないけれど、なかなか時間の使い方がなっていない気がする。
それこそこいつがさっき言った『時間を気にしない経営者』もいいところだ。僕の感覚ではまだ終業には早い気がしてならない。
僕はそう思うのだ。
「いやいや、帰る時間だって」
マイケルはそう言うが、こいつは平気で嘘をつける奴だから信用ならない。
これまでだってそうだ。今日も——。
「今日もおつかれぇ! 明日、デュランさんのところに行ってくるから! よろしく!」
減らず口のマイケルに、そこまで言うなら店仕舞いくらいしたらどうかと言ってやろうと息を吸ったら、僕の後ろからこれまた陽気なアホそうな声で結論だけ言った問題児——じゃなくて、ディオネが書店に来た。けたたましく鳴る鈴が扉が開く勢いの強さを物語って、扉近くに立つ僕の方まで開いた時の風が届いた。
「あ、アホたれディオネ。おつかれ」
「あぁ、バカ間抜けマイケル、略してマヌケル。まだ居たんだ」
「はぁ? バカが略されてないけど? 遊び過ぎて頭の中から大事なものが抜けてるじゃないのかい? 略してアホディオネ」
「はいはい、うるさいうるさい。それでファビオさ、ちょっとお金要るんだけど貸して! 四千ベントくらい!」
マイケルとのじゃれ合いはもういいらしく、僕に近寄ってニコニコと口角を上げるディオネは伸ばし始めた金髪を揺らしてお金の催促をした。四千ベントって、そこそこな金額なのだが彼女の金銭感覚はおかしくなっているかもしれない。
「なんで黙ってるの? いいでしょ? 私の調査費用全然余ってるはずなんだけど?」
呆れているというかなんというか、彼女に返す言葉を探しているわけだけれど、調査費用なぁ。……まぁ、正直に話せばいいや。マイケルのやつ、面白そうだからって一度置いた鞄をまたカウンターに戻してしっかり聞く態勢なのは……それもいいや。今に始まったことじゃない。
「余ってないよ。というか足りてない。原稿料のこと相談したいくらいには全然足りてない」
「……え? ……なんで?」
ニコニコ笑顔のディオネはその顔を反転させた。見開いて半開きになる口と、下がる口角はあり得ないと言わんばかりに想像もしていなかったらしい僕の話に愕然としている。そこまで驚かれると僕が間違っている感じに、端から見ればそう思うんだろうけれど、足りてないものは足りていない。今日もカーラさんと書店の帳簿を見て確認しているから間違いない。というか、ちょうどいい時間に来てくれたのかもしれない。
「だからさ、時間があれば今からでも相談——」
「ない! 時間はないけどお金は要る!」
赤くなり始めた彼女の頬が膨らんで「お願い!」と僕に遜るディオネにさっきのマイケルのそれがちらついた。やっぱり変なところで似ている二人に頭が痛くなる。さっきからニコニコと微笑んで僕を見ているマイケルに、「見世物じゃないけど?」と言うと「書店のことだから、僕は聞くだけ聞く権利はあるでしょ?」と当然だと言わんばかりの顔をされた。……こういう時くらい素直に帰ればいいものを。やっぱり面倒くさいことこの上ない。
「ねぇ、ファビオ。いいんだよね?」
何がいいのか、ディオネは彼女の頭の中では四千ベントは僕が貸す前提で話しかけたが僕はなにも貸すなど言っていない。そもそも——。
「そもそも今日で何回目? 三万ベントは使ってるよね? それに——」
「いやいや! これまでの収益とか! 色々と込みでさ、あるでしょ?」
それでいて都合が悪くなると、すぐ被せて言い返してくるところもマイケルに似ている。実は兄妹だと言われても僕は驚かない。
「もうない。本当に足りないから」
「なんでぇ!」
僕の腕を掴んで前後に揺らすディオネは「どうするの!? 私借金しないといけないじゃんか!」と、お金を貸してと意気揚々と言ってきたさっきまでの自分の言葉とちぐはぐになった。そもそもこいつに渡している収入に比べたら些細な額なのだが、多分使い込んでるんだろうな。ちょっとダルダラさんに話した方が良いかもしれない。普通じゃないお金の使い方してそうだし。
「売れっ子作家が借金生活って、どんな逆転人生よ!」
「なんだよそれ」
理由のわからないことを言って。ゼクラットおじいさんみたいなことを言うんじゃないよ。
「もういい!」
真っ赤な顔で動揺して、表情をコロコロ変えたディオネが口元を引き締める。これから怒りますっていう顔をした。学園を卒業してからというものの、彼女の表情が多くなった感じがするのはただの気の所為ではないみたいだ。死人がよく生き返ったよね。アースコット教授に研究してもらってもいいかもしれない。
「次の原稿の資料ができないんだから、大幅な遅れは仕方ないってことでいいよね!? だって調査できないし!」
怒るよりも開き直るの方が正しかったらしく、彼女は精一杯の威勢を貧相な胸で張った。全然可愛らしくもないけれど、少し言い過ぎた気もして僕を睨みつけている彼女の肩に手を置く。
「な、なによ」
「じゃあ、調査費ないけどそれでいいってこと?」
口を川魚みたくパクパクさせるディオネは徐々に眉間に力を込めた。
後ろで見物しているマイケルからは「うわぁ」と引いた声が聞こえた。
黙ったままのディオネに「別に今、何が何でも本を売らないとダメってわけじゃないし」と言えば、彼女の目尻がピクピク動き出した。
「げ、原稿あげてやろうじゃない」
小さく呟くディオネの声が聞き取れなくて「なにが?」と聞き返すと彼女の肩に置いていた僕の手首を掴んだ。
「原稿の一つ二つ三つあげてやるって言ったの! 見てなさいよ! この私の本気を!」
そう言って、僕の手を離して「ちくしょう!」と言いながら扉を乱雑に開けて出て行く。鈴なんかガランガランと汚い音をあげて、外の冷たい空気を運んできた。
「さむ」
書店に入って来てすぐ出て行った突風のようなディオネを追いかける元気はない。それに薄暗くなった外にこれから僕も出て行くのは明日に響きそうだからやめた。
あと、マイケルと話した時間のことは考えないまま今日は寝ようと思う。カーラさんとの打ち合わせって、時間経ってたんだね。
「なんかやる気になってくれたからいいや」
うん。最近のディオネはあまり原稿を書き上げることはなくて、色んな所に行っては僕に感想を言ってくるだけの何をされている人なのか分からなくなる時もあったから、ちょうど良かった。
「え? 本気で言ってる?」
「本気も本気だけど?」
ディオネが出て行ってマイケルがカウンターから僕の所に歩いてきた。もう鞄を持っているマイケルはこのまま帰るつもりのようだった。
「そっか。まぁ、ディオネのことだし別に良いけどさ」
「なんだよ。そんな含みのある言い方して」
「ファビオ君もライフアリー商会の人っぽくなってきたなぁって思って」
「ぽくって何だよ。僕は商会長の息子だからしっかりライフアリー商会の人じゃん」
手に持った鞄を肩にかけたマイケルが僕の言葉に笑って近づく。
「そうだった。全然らしくなかったからさ。意外だなって思っちゃったよ」
僕にとってはライフアリー商会の人って言われても嬉しくもなんともないし、場合によっては悪口と捉える時もあるけど、もう今日はそんな元気はない。まだ居座りそうなマイケルと、ディオネが来る前にしていた時間の問答もどうでもよかった。というか早く帰ってくれ。
「何でもいいけど、もう帰るんでしょ? 店仕舞いは僕がしておくよ」
「いいの? じゃあお言葉に甘えてさせてもらおうかな」
そうしてくれ。僕が率先して店仕舞いをするなんてないんだからな。
すれ違って扉に歩いて行くマイケルは扉を開けて綺麗な鈴の音と共に「お先にお疲れ」と言って外に一歩を踏み出せば、「夜じゃん」と僕の方を見てやっぱりな、としたり顔をしながら出て行った。
悪かったな時間が分からない経営者で。とりあえず最近出回り始めた時計なるものを買っておこう。
マイケルにいい顔されるのこともサボられるのもなくなるだろうし。無駄な出費の気がしなくもないけれど別にそれくらい買う余力は今のところゼクラット書店にはあるのは救いだね。




