幼な妻の殊勲
ホルガン率いるズーン軍とヒュンナグ軍の衝突に先立って――。
ションホルはジムス王からズーン潜入の命を受けた。
目的はもちろん、ゲレルの救出である。
「オクトルゴイの方たちの時のように、エルウェヘーに予知されて罠を張られているのではないかというのが心配だけど……」
アルタントヤーが不安げにそう言うのを、サラーナが即座に否定する。
「その点は大丈夫だよ。エルウェヘーの奴は、必ずホルガンに同行して戦況を見届けようとするはず。この戦の結果如何に、あいつの人生も賭かっているんだからね。あいつの未来視の力がどの程度のものかはわからないけど、夢に見ることが出来るのは自分が実際に目にするであろう光景だけ……。ですよね、竜神様?」
「ああ、そのはずじゃ。自身が居合わせもせぬ場所で起きる出来事まで“見る”ことが出来るなどというのは、いくら天帝の気まぐれでも、人間には過分にすぎる。ズーンにおらぬ奴めに、そこで何が起こるかは知りようがなかろう」
それもあくまで竜神様の推測なのでは……、という言葉を、ションホルは飲み込んだ。
少なくとも、エルウェヘーの力が万能でないことは、ボルドゥの敗死が証明している。
そこでジムスが口を開いた。
「ゲレルはおそらく、ホルガン殿配下の留守居役が保護しているはず。だからその限りでは安全だろう。問題は、僕たちがホルガン殿を打ち破った時だ。ズーンに火種を持ち込んだ片割れとして、憎悪を向けられる可能性がある。そうなる前に、必ず救出してくれ」
「かしこまりました」
「それと……」
一瞬口ごもる様子を見せた後、ジムスが言葉を続ける。
「君には万が一のためにアヤンガの鱗を持たせているが、だからといって無闇に危険な真似はしてくれるなよ」
釘を刺されて、ションホルは姿勢を正す。
「心得ています。俺が命の危険に晒されるということは、供の者たちも死地に立たせるということですからね」
「うむ、わかっていればいいんだ」
頷くジムスの傍らで、竜神が何かを察したような眼差しで年若い夫を見つめていた。
ションホルは彼の部下たちの中から選抜した精鋭四人と、案内役としてエルデニに付けてもらった彼の側近のチラウンという男とともに、ズーンの土を踏んだ。
竜神に導かれてヒュンナグ王宮の側の竜脈に乗り、一瞬でズーンに跳んだのだ。
「はあ、これが竜神様のお力ですか……。やはりヒュンナグは敵に回すべからず、ですな」
チラウンが感慨深げに呟き、ションホルの部下たちも、自分たちが仕える王妃が人間ではないことをあらためて思い知らされて、言葉を失くしている。
一行は事前の手筈どおり、エルデニの母方の氏族・ヌール族の野営地に身を潜めた。
ここは、以前の対ボルドゥ戦の際にも、ションホルたちが世話になったところだ。
顔見知りの者たちと旧交を温めつつ、情報を集める。
「どうやらゲレル殿は、ホルガン殿下の二人の奥方、コルイ様かソルカカン様のいずれかの許にあるのは間違いないようです。ただ、どちらかの特定はできかねておりまして……」
チラウンが申し訳なさそうに報告する。
そこまで判明しただけでもありがたくはあるのだが、完全に特定できないと救出作戦を立てるのは難しい。
ホルガンの二人の妻はいずれもズーン内の有力氏族出身で、同族の女性たちで周りを固めており、おまけに仲が悪いためそれぞれの幕舎の場所もかなり離れている。一方に当たりをつけて外れだったらもう片方、というわけにはいかない。
「手の者たちに引き続き探りを入れさせておりますので、今しばらくお待ちを」
「よろしくお願いいたします。……お手間をかけてしまって申し訳ありません」
頭を下げるションホルに、チラウンが笑って答える。
「いえいえ。ヒュンナグの方たちには我が主の窮地を救っていただきましたし、それにションホル殿とは共に僭王と戦った仲でもありますしね」
チラウンはエルデニとは母方の従兄弟同士にあたり、彼の信頼もっとも厚い側近で、先の対ボルドゥ戦では、一部隊を率いてションホルと共に戦っている。
ションホルがもう一度礼を言おうとしたところへ、部下の一人が駆け込んできた。
「ションホル様、ヒュンナグから飛竜が来ました」
飛竜に結わえられていた文を受け取り、ざっと目を通す。
「ヒュンナグが勝ちました。ホルガン殿は討ち死になさったとのことです。ただ……」
ションホルが言葉を切ると、チラウンが不安そうな表情を浮かべる。
「ただ?」
「エルデニ殿下のもう一人の叔父君、ドルゴ殿という方ですか。そのお人が、殿下にバーブガイ王暗殺の罪を着せ、糾弾なさっているとか」
バーブガイ王が暗殺されたという話は、ズーンに来てすぐに耳にした。
そもそも、ホルガンがヒュンナグに攻め込んだこと自体、王を弑逆したエルデニとその背後にいるヒュンナグを討つ、という名目であったらしい。
「ドルゴ殿下が? ははぁ。分不相応な野心を催されましたかな。して、エルデニ殿下は今のところはご無事ということですか?」
「ええ。ズーンに戻って長老方の判断を仰ぐ、ということになったようです」
「そうですか……。厄介なことになりましたな」
ションホルは困り顔で頭を搔き、チラウンも表情を曇らせた。
その翌日、ズーン軍が本拠地に戻って来た。
結局、ゲレルの居場所も特定できていないままだが、ションホルたちはひとまずズーンの政変の行方を見守ることにする。
見るからに神経質そうな中年男性が偉そうに振舞っているのは、彼が件のドルゴという男なのだろう。
エルデニはおとなしくしているが、父殺しの濡れ衣を黙って着るつもりなどないであろうことは言うまでもない。
彼らから少し離れたところに、エルウェヘーの姿があった。
彼女としてもおそらく想定外の状況で、ドルゴに対する伝手も持っていないだろうと思われるが、エルデニを陥れない限り彼女の身の安全は無い以上、内心ではドルゴを応援していることだろう。
他のズーン人たちも、積極的にどちらかに与しようとはせず、日和見を決め込んでいるようだ。
ドルゴという人物には人望がなく、エルデニは実際にヒュンナグと共闘していたという不利があり、どちらに味方をするのが正解なのか判断に迷っているのだろう。
主要氏族の族長らが見守る中、ドルゴがいささか芝居がかった様子でエルデニに指を突き付け、糾弾を開始した。
「エルデニ! おぬし、あろうことか仇敵ヒュンナグと謀り、実の父であるバーブガイ陛下を弑し奉ったことは明白である! 潔く身を処すがよい!」
「馬鹿な! 叔父上、何を証拠にそのようなことをおっしゃるのか!」
「証拠も何も、現にヒュンナグ軍と手を組んでおったではないか! それに、陛下の暗殺に用いられたのはシュシェンの毒矢であった。おぬしがシュシェンの族長ウジュと懇意なのは周知の事実であろう!」
「百歩譲ってその矢を射たのがシュシェンの者だとしても、ウジュ殿の差し金だという証拠がありますか!」
お互いに決め手のないまま激しい口論を続けるが、予想以上にエルデニの旗色は悪かった。
ドルゴの人望の無さを補って余りあるほど、ボルドゥの爪痕は深く、実際にヒュンナグと手を組んでいたという事実が、多くの者たちにエルデニへ疑いの目を向けてさせている。
彼らはボルドゥと敵対していた者たちだ、という反論も通りそうにない。
状況が状況だけにションホルも何ら手助けのしようもなく、ただやきもきしながら見守るのみだ。
ふとエルウェヘーの姿が目に入り、ほくそ笑んでいる様子に歯噛みしていたのだが――。
「ドルゴ。馬鹿なことを言うのはそれくらいにしておけ。エルデニが儂の命を狙うなど、あるはずがなかろう」
その声はいささか弱々しかったが、激論を交わしていたドルゴとエルデニも含め、その場にいた全員が水を打ったように沈黙した。
皆が一斉に視線を向けた先には、両脇から女性たちにその身を支えられながら、一人の男が立っていた。
ションホルもその人物の顔は見知っている。
他でもない、ズーン王バーブガイその人だ。
「父上! ご無事だったのですか!?」
「あ、兄上!? 生きておられたので!?」
エルデニが、ドルゴが、相次いで叫ぶ。
「ああ、おかげさまでな」
バーブガイ王がその身を右側から支えてくれている女性に目を向ける。
その女性、いや少女は、はにかみながらも誇らしげに、エルデニに微笑みかけた。
「ニルツェツェグ! お前が父上を救ってくれたのか?」
「はい、エルデニ様!」
少女は満面の笑みで答え、バーブガイ王を左側の女性――服装から見て侍女であろう――に預けて夫に駆け寄った。
「一時は生死の境を彷徨ったのだがな。嫁御の治癒魔法のおかげで九死に一生を得たわ」
父の言葉を聞いて、エルデニは胸に飛び込んで来た妻を受け止めながら、彼女の父親・ウネグの顔を凝視した。
彼がいち早くホルガン支持を表明したという話を聞いて暗澹たる気持ちになっていたのだが、どうやらその一方で、バーブガイ王が死んではいないことを隠して我が娘に身柄を託し、治療させていたようだ。
それが、最初からホルガンを謀るための芝居だったのか、それとも二股をかけていたのか。それは今追及すべきことではない。
父の無事を喜びつつ、エルデニは可愛い妻を抱きしめた。
「――!!」
エルウェヘーが声にならない悲鳴を上げ、傍らの騎竜に跨って駆け出すのを、ションホルは見逃しはしなかった。
決して許すことはできない女とはいえ、今ションホルにとって最優先なのはゲレルの確保。彼女がただこの場から逃走しようとするのであれば、相手にすべきではない。だが――。
「エルウェヘーにとって、ゲレルは愛するボルドゥの忘れ形見というよりボルドゥの生まれ変わりそのものなんだろう。絶対に見捨てることはないはずだよ」
愛妻の言葉が耳の奥によみがえる。
ションホルもまた騎竜に跨り、エルウェヘーの後を追う。
ゲレルはきっとその先にいるはずだ。
(こっちは確か、ソルカカンという人の幕舎の方角か)
ホルガンの妻の一人。
ゲレルはそこに匿われているのだろう。
エルウェヘーが騎竜を駆けさせると同時に、一人の男が駆け寄って、懸命に掻き口説こうとする。
ショルゴルジだ。
おそらくは、ゲレルなど放っておいて逃げるよう説得しているのだろうが、エルウェヘーは聞く耳を持たない。
通常なら絶対に許されない、貴人の幕舎に騎竜を乗り入れさせるという非礼を犯し、エルウェヘーが一人の女性と対峙する。
二十代後半ほどの癇の強そうなその女性がソルカカンなのだろう。
エルウェヘーと同様に非礼をあえて犯し、騎竜を乗り入れさせたションホルが見たものは、彼女の足元でぐったりしているゲレルの姿だった。
「ソルカカン! 貴様、ゲレル様に何をした!」
格下であるエルウェヘーに呼び捨てにされるという非礼まで重ねられて、真っ赤に染まった顔がいっそ白くなるほどの怒りにかられたソルカカンだったが、荒い息をついてどうにか落ち着くと、金切り声で叫んだ。
「この子供、聞けばボルドゥの子だというじゃないの! 私の兄上はあの男との戦で命を落とした! たとえホルガン様のお言い付けであろうと、この子に食べさせてやる食糧など、チーズのひとかけらだってあるものですか!」
その言葉を聞いて、ションホルも激怒した。
この女は、ゲレルに食べ物を与えていなかったらしい。
ソルカカンが言い終わらぬうちに矢をつがえ、ひゅっと射放つ。
矢は彼女の頬をかすめて赤い筋を残し、ソルカカンは悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「ひっ、ひぃぃ!」
射殺さなかったのは慈悲ではない。
殺してしまえば取り巻きの侍女たちが主の仇と襲い掛かってくるが、怪我に留めておけばその手当てに忙殺されるだろうという計算だ。
エルウェヘーは驚いた表情で振り返った。
ションホルが矢を射放つまで、自分を追ってきた者がいたことにすら気付いていなかったようだ。
彼女もションホルのことは知っている。
彼の目的も察したようで、慌ててゲレルに向かって駆け出した。
ションホルも騎竜を駆り、ゲレルの許へ向かう。
「……ション!」
ションホルの姿を目にしたゲレルが、弱々しく、けれど心底嬉しそうに立ち上がった。
そしてションホルの方へ歩み寄ってくれたことで、間一髪エルウェヘーの手を逃れ、ゲレルの小さな体はションホルが抱き上げるところとなった。
「ゲレル様!!」
悲痛な叫びと共に騎首を巡らせようとするエルウェヘーだったが、その手綱をショルゴルジが強引に奪う。
彼はエルウェヘーの騎竜の手綱を引っ張って、強引にその場から逃亡を図った。
ションホルはそれを追おうとはしなかった。
今は何より、ゲレルの健康の回復が第一だ。
幼い体を抱えたまま、ションホルはエルデニの許へと向かった。
彼の正妻ニルツェツェグは治癒魔法に長けているという。
彼女に看てもらった上で、美味しいものを食べさせてやろう。
ションホルはゲレルをぎゅっと抱きしめた。




