狂愛の果て
「離して! 離せ! ゲレル様、ゲレル様っ!」
叫び続けるエルウェヘーをあえて無視したまま、ショルゴルジは彼女の騎竜の手綱を引っ張って、ひたすらに北へと向かった。
北の地には針葉樹の大森林が広がり、庇護を仰げるような勢力は存在しないが、ただ逃げ隠れするだけなら、むしろ隠れ場所には事欠かない。
地平線の彼方に豆粒ほどの人影すら見えないところまで来て、ようやくショルゴルジは立ち止った。
「ショルゴルジ! ゲレル様を取り返しに行くのよ! 早く!」
もはや正気とは思えない表情で、エルウェヘーが詰め寄る。
相手がションホル一人だけならまだしも、おそらくズーンに部下を伴って来ているであろうし、その上エルデニ王子の配下の者たちに周りを固められては、手出しなど出来ようはずもないというのに。
「落ち着け、エルウェヘー。ゲレル……様は、一時ジムス王に預けておけばいい。決して悪いようにはしないのはわかっている。いずれ取り戻す機会もあるだろう」
説得を試みるショルゴルジに、エルウェヘーは冷ややかな眼差しを投げかける。
一度ゲレルを奪われたジムス王が、再び同じ轍を踏むとは考えられないし、そもそもショルゴルジが本気で言っているわけではないことも、見透かされているようだ。
もうボルドゥの仇討ちもその忘れ形見のことも忘れて、北の森で二人穏やかに暮らそう、などという本音を、エルウェヘーが受け入れてくれるはずがないことは、ショルゴルジも承知している。
それに、草原の覇者となるというボルドゥの夢をゲレルに果たさせる、という目標が失われることは、エルウェヘーの生きる気力をも失わせることになりかねない。
さりとて説得の言葉も思い浮かばず、途方に暮れかけたショルゴルジの視界に、奇妙なものが映った。
それ自体は別に奇妙とは言えない。
局地的な雨を降らせるような黒い雲だ。
しかし、その動きは明らかに尋常ではなかった。
風は西から東へと吹いているにもかかわらず、南から北へ――さらに言うなら、まっすぐこちらに向かって、黒雲が近付いてくるのだ。
説明しがたい恐怖を感じ、ショルゴルジは再びエルウェヘーの騎竜の手綱を引いて、逃走を開始した。
「ちょっと、ショルゴルジ! 離せ! 離せと言うのに! ゲレル様をお救い……」
エルウェヘーの抗議の声が途切れ、ショルゴルジが引く手綱が突然軽くなる。
どさっという音とともに、エルウェヘーの体が地面に落ちて跳ねる。
その背中には一本の矢が突き刺さっていた。
「エルウェヘー!!」
悲痛な叫び声を上げて、ショルゴルジが振り返る。
その視線の先に、矢を射放った者の姿があった。
瑠璃色に輝く鱗に覆われた騎竜と、その背に跨り弓を携えた少年。
ヒュンナグ王ジムスその人だ。
地面に横たわったエルウェヘーが、虚ろな眼差しで何ごとか声にならない声を漏らした。
その唇の動きは、「ボルドゥ」という言葉を紡いだように見えた。
背中に刺さり肺を突き破った矢が致命傷であることは、近付いて確認するまでもない。
ショルゴルジが心から愛した女は、もう彼を見てくれることはない。
いや、はじめから彼女の視界に、自分の姿など映ってはいなかったのだろう。
「ああああああああああああああああああっ!! 殺す!! 殺す!! 殺す!! 殺す!! 殺す!!」
絶叫を轟かせて、ショルゴルジは矢をつがえ、騎竜を駆けさせた。
何故こんなところにヒュンナグ王がただ一騎でいるのかはわからない。
いや、一騎だけなわけはないだろう。
草むらに多くの兵たちが潜んでいると考えるのが当然だ。
そして、ショルゴルジが近付けば針鼠にしてやろうと待ち構えているに違いない。
だとしても、エルウェヘーを殺した奴だけは絶対に生かしておけるものか。
ジムスもこちらに向かって騎竜を駆けさせ、その背で矢をつがえた。
双方同時に矢を放ち、自分の矢がジムスの左肩に突き立って騎竜の背から転げ落ちさせるのを見届けて、ショルゴルジもまた地面に転げ落ちる。
その喉笛を、矢が貫いていた。
(エルウェヘー……)
もはや声を出すことも出来ない。
ヒューヒューと喉から音を漏らしながら、ショルゴルジは愛する女の骸に這い寄った。
あとわずかで手が届く。
しかし、その伸ばした指先は、彼女の着物の袖に届く寸前で力尽きた。
「ジャズグル、仇は討ったよ」
射抜かれた左肩を押さえながら、ジムスはよろよろと立ち上がり、呟いた。
「ぐうっ!」
呻き声とともに思い切って矢を抜き取ると、傷はたちまちにして何事もなく塞がった。
「まったく。無茶な真似をするやつじゃ。いや、付き合っておいて言うことではないかもしれぬがな」
ジムスの側に歩み寄った瑠璃色の騎竜の口から、呆れ気味の人語がこぼれた。
「ごめん。もうこんなことはしないよ。でも、死なずに済んでよかった」
ほっとした表情で呟くジムスに、瑠璃色の騎竜――に姿を変えた竜神が指摘する。
「ふん、死んだとて生き返るじゃろ? その懐に入れておるものは何じゃ?」
ジムスの懐には竜神の鱗が入っており、先ほど肩の傷を癒したのもその力だし、たとえ致命傷を負っていたとしても、身代わりになってくれる。
「……ずっと考えていたんだ。いくら君が神様でも、本当なら死ぬはずの人間を、何の代償もなしに救えるものなのか、って。ひょっとして、何か相応の代価を支払っているんじゃないのかい?」
ジムスのその言葉を聞いて、瑠璃色の騎竜は愉快そうに笑った。
そしてすぅっと人間の姿に変わる。
「いや、大したものじゃ。これまで鱗を貸し与えてやった人間は二十人を超えるが、そのことに思い至ったのは、ジムス、お前が初めてじゃよ。サラーナですら、特に疑問を感じてはおらぬというのに」
「やっぱり……」
「何、気にするな。我が鱗が人の身代わりとなった時、そやつの余命の分だけ儂の寿命が削られる。といっても、幾万年のうちの数十年じゃ。誤差のようなものよ」
「そうだったんだね。でも、やっぱり君の寿命が縮まるのは嫌だよ」
「その分だけ、お前のいない世界で生き続けよと?」
それを聞いてジムスは黙り込んだ。
逆の立場を想像してみたら、愛する人と死別した後の世界で生き続ける辛さは察するに余りある。
「ふふ、意地の悪いことを言うてしもうたな。許せ。お前と過ごす日々の思い出は、きっと幾万年経とうとも、儂の心を慰めてくれることであろうよ」
「そう言ってもらえたら嬉しいよ」
愛する妻に微笑みかけた後、ジムスはほうっと溜息を吐いた。
「それにしても、ヒュンナグでも指折りと評される弓矢の名手相手に、我ながらよく勝てたものだよ」
「ふん。いかな名手といえども、心がかき乱された状態ではな。それにお前も、ヒュンナグ一の名手の手ほどきを受けておるではないか」
竜神の言うとおり、ジムスはションホルの教えを受けて、めきめきその腕を上げていた。
ショルゴルジに勝利したのも、決してまぐれではない。
「うん。後で礼を言っておかなきゃ」
笑いながらそう言った後、ジムスはふっと表情をあらため、地面に転がる二人の亡骸に視線を向けて、冷ややかな声音で告げた。
「葬ってはやらない。獣に食われろ」
そして亡骸に背を向ける。
しかし、そんな彼の背後で、とんと足を踏み鳴らす音がして、続いて地面が揺れるのが伝わってきた。
振り返ると、地面の土がうねる波のように盛り上がり、二人の亡骸を飲み込んでいくところだった。
「無理をして非情ぶる必要はなかろう。この先、本当に情を捨てねばならぬ時も来ようて。その時まで取っておくがよい。それに、ジャズグルがこの程度のことで腹を立てると思うか?」
「いや、思わないよ。むしろ、ちゃんと葬ってあげてくださいと頼まれそうだ」
そう言って笑いながらも、ジムスの頬を涙がつたう。
「そうじゃな。あやつならきっとそう言うじゃろう」
竜神もしみじみとした口調で呟いた。
ジムスは竜神と共に竜脈に乗ってズーンの王宮に向かい、療養中のバーブガイ王を見舞った。
王は、エルデニが世話になった、と礼の言葉を口にはしたが、そもそも騒ぎの種を持ち込んだのはヒュンナグだろう、と内心思っているのが見て取れ、ジムスとしても苦笑するしかなかった。
彼の野心を沈黙させるのはまだまだ難しい――。そう思わざるを得ない。
ヒュンナグに戻って、ジムスは妻やサラーナたちとも話し合い、ゲレルを竜神の里で育てる方針を決めた。
ボルドゥの遺児に利用価値があると考える人間が他にもいるとは考えにくいところではあったが、万一何者かが野心あるいは執着を見せた時、何の罪もない者が巻き込まれることは避けたい。
竜神の里であれば、余所者が入り込める余地は限りなく少ないので、ゲレルが一人前になるまで育てるにはうってつけだろう。
里に連れてこられたゲレルは、草原とは一味違う風景に興味を示し、あちこちを探検して回って、世話役の者たちを振り回していたが、その程度はご愛敬。
里の者たちも、ボルドゥの遺児に妙な感情は抱かず、腕白な少年を可愛がるようになって、ジムスもほっと胸を撫で下ろした。
三月ほど後、飛竜を用いたサラーナとアルタントヤーとの定期連絡で、ズーンの状況が知らされた。
健康を回復したバーブガイ王は、弟ドルゴも含め、ホルガンに与した者たちを皆不問に付した。
これは慈悲というよりも、余計な禍根を残したくないという配慮であったろう。
特にドルゴについては、肉親の情というよりも、どうせ大したことは出来はしないだろうという判断でもあった。
バーブガイ王暗殺未遂の犯人については、シュシェンの族長ウジュ自らが、生け捕りにした男を引っ張って謝罪に訪れ、やはりホルガンの差し金であったことが明らかにされた。
その男の首がズーン王宮の側に晒されることになったのは言うまでもない。
そして手紙は、ニルツェツェグが懐妊したようだという一文で締めくくられていた。
次第に里の生活にも慣れてきたゲレルだったが、毎月一回、ジムスたちとともに、母ジャズグルの墓に詣でるのが恒例となった。
墓といっても、草原の民には墓標を立てる習慣はない。
亡骸が埋葬された小高い丘に向かって祈りをささげるだけだ。
ゲレルはまだ母の死というものを完全に理解してはいないようだが、もう母とは会えないということは察しているようで、時々寂しげな様子を見せる。
それでも、サラーナやションホルに遊んでもらっている時は、屈託なく笑う。
「もっと大きくなったら、ちゃんと話してやらんとな。母が、どれほどお前のことを愛していたのかを」
瑠璃色の髪の王妃様からそのようなことを言われてきょとんとするゲレルを、ジムスはそっと抱き上げてやるのだった。




