第9羽 情熱の目覚めるとき
「はぁぁ~~~~~……っ! 生っき返るわぁ……!」
大浴場の高い天井に、アクティブガル先輩の艶やかな声が反響した。
ここは記録飛行を行った飛行場のすぐ近くのビジネスホテル、京浜イン。
公式記録こそ逃したものの、霧という最悪のコンディションの中で2本のフライトを終えたアタシたちは、青葉トレーナーやサポートチームのミーティングを横目に、一足先に湯船へと沈んでいた。
「お疲れ様でした、ガル先輩」
「お互いにね、ノーツちゃん」
隣でお湯に浸かる私に、先輩がいたずらっぽくウインクを投げる。
ふと視線を横に向けると、お湯から出た先輩の肩から胸元にかけての筋肉に、思わず目が釘付けになった。爆発的な推進力を生み出すために極限まで絞り込まれ、まるで競走馬のようなしなやかさと、鋼のような張りを兼ね備えた、真のアスリートの肉体だ。
「……なぁに? さっきからジロジロと」
ガル先輩が胸を両腕で隠して流し目をした。
「あ、いや、すみません! でも、本当にすごいなって思って。その、体幹というか、筋肉の付き方が……」
「あら、そっち? てっきりバストの方かと思ったわ。胸筋を鍛えると形も張りも良くなるのよ。ノーツちゃんも、あと半年特訓すれば……少しは期待できるかしらね?」
先輩がいたずらに胸を張る。対する自分の身体を見て、アタシはそっとお湯の中に身を沈めた。
けれど、冗談めかした会話の裏側で、先輩の身体には至るところにテーピングの跡や、小さな痣が刻まれているのが見える。
「……やっぱり、キツかったですね。今日のフライト」
「そうね。羽根が霧を吸うと、あんなに足枷になるとは思わなかったわ。おそらく重量だけで3キロ、抵抗まで含めればそれ以上の負荷がかかっていたはずよ。あれで2メートルを超えて飛べなんて、鬼よ鬼!」
「――それだけじゃないわね。霧の微細な水滴が羽根の表面で乱流を起こし、スムーズな空気の流れを阻害していた可能性が高いわ」
不意に響いた声に振り向くと、タオルを巻いた青葉さんが浴槽に入ってくるところだった。
「ミーティング、終わったんですか?」
「ええ。手短にね。……二人とも、本当にお疲れさまでした」
青葉さんの温かい言葉に、張り詰めていた心が少しだけ解ける。
「結局、2本目も2メートルは超えられませんでした。100メートル飛ぶのが精一杯で……」
「いいのよ、ノーツ。あなたは今日、誰の助けも借りずに自力のみで離陸して記録に挑むという、トリ娘でも経験した人が数少ない領域に触れたの。その自信は、次のトリコンで必ず生かせる力になるわ」
青葉さんの力強い言葉に、アタシは強く頷いた。
そうだ。アタシはもう、プラットフォームの真下に沈んだ無力な編入生じゃない。
「……じゃあノーツちゃんの目標は、やっぱり琵琶湖なワケね」
アクティブガル先輩が、お湯の中から翼をパシャリと跳ね上げた。
「頑張ってね、ノーツちゃん。まあ、私は個人としても仕事としても全生徒の応援団ではあるのだけれど」
「事務長はまた記録飛行にチャレンジですか?」
「うーん、どうするかなー。実は練習の段階でもトラブルがあったし、実際ケガもしてるのよねー。今回を振り返った後に考えてみることにするわ。社会人はね、いろいろと忙しいのよ」
うーん、と伸びをしながら答えたガル先輩が、ふと何か思い出したように力を抜いた。
「あ、そうそう社会人といえば」
「?」
「記録飛行を手伝ってくれたクールクラフトちゃん。彼女、次回のトリコンに出場することに決めたみたいよ。私達のフライトを見て、飛んでみたいって血が騒いだんですって」
「クールクラフトさんが……?」
「ええ。学生時代から優秀だった子だから、ノーツちゃんにとって良いライバルになるはずよ」
ライバル。その言葉が、私の胸を熱く焦がす。
「そうなんですね、まだ烏滸がましい気もしますけど……ライバルと呼ばれるにふさわしい自分になってみせます!」
アタシの宣言に、青葉さんとガル先輩が顔を見合わせて笑った。
「んじゃ、真面目な話はここまで! ノーツちゃん、なんか面白い話なーい?」
「えっ、面白い話……? あ、そうだ青葉さん! さっき脱衣所でチラッと見えたんですけど、ガル先輩の勝負下着――じゃない勝負インナー、とんでもなくド派手だったんですよ!」
「ちょっ、ノーツちゃん!?」
「先輩……年甲斐もなくまだあんな派手なの着てるんですか?」
「年言うな! 何よいいじゃない! アレが一番気持ちがアゲアゲになるのよ! 勝負インナーってそういうもんでしょ!」
湯船に笑い声とお湯の掛け合いが広がる。特訓の疲れを忘れるような、束の間の休息だった。
◆
記録飛行から2ヶ月。スカイスポーツ学園のグラウンドには、青葉さんの鋭い声が響いていた。
完全自力離陸の実績アピールが効いたのか、アタシは無事に次回のトリ娘コンテストへの出場権を手にしていた。
本番まであと4日。
「ノーツ。さっき聞いたわよ、秘密の記録飛行の話」
練習の合間、シード権を持つマエストロが少し不満そうな顔で近づいてきた。
「でも無駄よ。今度の大会では、必ず私が優勝するんだから。見てなさいよ!」
「うん、負けないよ」
「フン!」
アタシは軽く返したが、内心では少し不安と焦りがあった。
自力離陸は滑走路が長いので十分なスピードを得てから飛ぶことが出来る。一方、トリコンのプラットフォームの助走路は最長10メートル。その短い距離で瞬間的にパワーを爆発させて踏み切る必要があるのだ。その感覚をまだ掴み切れていない気がしていた。
「……青葉さん、もう一回だけ、飛んでもいいですか?」
「ダメよ、ノーツ。今日はもう筋肉が限界のはず」
「お願いします! あと1回、納得いく感触を掴みたいんです!」
アタシの必死の形相に、青葉さんはため息をついた。
「……あと1回だけよ」
アタシはスタート地点に駆け戻る。
「いきます! ゴー!!」
全力の羽ばたき。自力離陸の要領で爆発的な推進力を生み出す。
踏切ラインを蹴って身体を宙に浮かせ、風を掴む。
この流れならいける!
感触を掴んだ嬉しさで文字通り舞い上がってしまったアタシは、着地点に向けて減速するタイミングが遅れてしまった。
「ノーツ! 前よ!!」
青葉さんの叫びが届いたときには、グラウンド脇の堤防が目前に迫っていた。
「……っ!」
強引に翼を捻って回避しようとする。バランスを崩した身体はそのまま草むらへと激しく叩きつけられた。
ドサッ……!
……痛い。
幸い、翼にダメージはなかった。
けれど、勢い余って額と膝を地面で思い切り強打している。熱い血の感触が肌を伝った。
◆
そして、トリ娘コンテスト当日の朝がやってくる。
空が白みだした琵琶湖湖畔は、異常な熱気に包まれていた。
アタシは額と膝に大きな絆創膏を貼り、マエストロやバートライアと共に、スタート前のウォームアップを行っていた。
「やあ、君たち。準備はいいかな」
生徒会長のトーワさんが、審判団を引き連れて現れる。本番前の最終チェックだ。
彼女の視線が、アタシの絆創膏で止まった。
「ウイングノーツ君。……状態を見せてもらえるかい?」
アタシは無言で絆創膏を剥がした。現れたのは、治りかけの少し赤みを帯びた傷跡。
「おっ、なんや盛り上がっとるやないか」
その時。人垣を掻き分けてやってきたのは、前回王者のフーシェ先輩だった。アタシの傷跡を見るとなるほどと腕を組んだ。
「あー。さては自分も直前の練習で怪我したクチか。安心し、ウチかて全身痣だらけや。気合で治したけどな。お立ち台に立つには、それくらいの覚悟がないとアカン」
フォローしてくれてるのか自慢してるのか。でも、その先輩の不敵な笑みに、アタシの背筋が伸びる。
「フーシェ君。その話はこの後の君の最終チェックで詳しく聞かせてくれたまえ」
「げ。トーワ会長おったんか」
「まぁいい。……よし。傷はもう問題ないレベルだな。絆創膏はむしろ空気抵抗になる。このまま飛びなさい。3人とも合格だ。ベストフライトを見せてくれ」
「「「はい!」」」
トーワ会長の合格サインがでて、審査合格のステッカーがユニフォームに貼られる。
アタシは剥がした絆創膏をゴミ箱へ捨てた。傷跡が朝風にさらされて、そこだけ少しヒヤッとする。
でもその刺激が、アタシの気持ちを奮い立たせたのだった。
◆
大会が始まり、会場のボルテージは最高潮に達している。
『現在、プラットフォーム上は、富士川スカイスポーツ学園――マエストロさんです!』
マエストロがプラットフォームに立った。彼女は一度だけ、伴走ボートの上にいる行雲トレーナーを見つめ、そして深く息を吐く。
「いくわよ……。3、2、1、――スタート!!」
彼女の飛翔は、完璧だった。
プラットフォームの高さを完全に維持したまま、水平線へ向かって一直線に突き進む。
『マエストロ選手、1キロを通過! 安定して飛んでいるぞ!』
会場が揺れる。モニターに映し出される彼女の表情は、苦痛に歪んでいた。インカムからは、肺を削るような荒い呼吸が漏れ聞こえる。
『3キロ通過!! いまだ高度を維持しています!』
その時、アタシは理解した。彼女もまた、この2ヶ月、課題克服のために死ぬ気で自分を追い込んできたのだということを。
やがて彼女の翼が限界を迎え、ゆっくりと高度が落ちていく。
足が水面を叩き、激しい飛沫と共に彼女のフライトが幕を閉じた。
『――素晴らしい記録が出たようです』
好記録の時のアナウンスが流れて、固唾を呑む。
『只今の、富士川スカイスポーツ学園、マエストロさんの記録は、3823メートル70でした』
『マエストロ選手! 見事なフライトで暫定1位です!!』
うおおおおおっ!!という地鳴りのような歓声。
3.8キロ。それは、前回までのアタシたちの常識を遥かに超えた数字だ。
救助されるマエストロの姿を見つめながら、アタシは体が震えるのを感じていた。でもそれは恐れではない。武者震いのようなものだと自分でも分かっていた。
「……強くなったわね」
隣に立つ青葉さんが、アタシの肩に手を置いた。その手は、優しく、けれど強くアタシの背中を押した。
「さあ、ノーツ。次はアナタの番よ。あの記録を超えて、その先の景色を見に行きましょう」
「……はいっ!!」
アタシはプラットフォームへと続く桟橋に、一歩足を踏み出した。




