第10羽 未来への咆哮
『――続いて、現在プラットフォーム上は、富士川スカイスポーツ学園、バートライアさんです!』
上を見上げると、まさにバートライアがその巨躯をプラットフォームの端へと進めたところだった。
一回り大きな彼女の体躯は、トリ娘の中でも異質。翼を広げればプラットフォームが狭く見えるほど。観客席からはどよめきが起き、誰もがその規格外のパワーに期待を寄せていた。
「ゲート、オープン!」
「3、2、1、ゴー!」
叫びと共に、バートライアが走り出す。
ダダダダッ、とプラットフォームを叩く力強い足音。けれど、その巨体がプラットフォームを蹴った瞬間、悲劇は起きた。
勢いよく身体を前に突っ込みすぎて、頭から湖面へと突っ込む絶望的な体勢になってしまった。
「私だって! 負けていられないんだからぁぁぁ!」
叫びと共に、彼女は執念で尾翼をねじ切らんばかりに動かした。
その重さと突っ込むスピードを逆に利用して、ジェットコースターのように急上昇する。そのまま、プラットフォームを遥かに超える高さまで一気に駆け上がった。
そのダイナミックな機動に、会場からは驚喜の叫びがあがる。
――けれど。それも、数秒のことだった。
上昇の勢いがピタッと止まったとき、バートライアの背中は完全にプラットフォームの方を向いていた。
空中で垂直に直立した状態。いわゆる失速だ。
どこにも進む力を失った巨体は、ただの重い肉塊となって、足からゆっくりと落下していく。
「いやああああぁぁぁぁぁぁっ!」
悲鳴を残し、水柱を上げて琵琶湖に呑まれていく彼女の背中。
それを見て、アタシの心臓がドクンと跳ねた。
16メートルで沈んだ、あの日の悪夢がフラッシュバックする。
でも。
――違う。
アタシは首を大きく振った。
記録飛行のあの重い霧を。
肺が焼けるような高温加圧室の苦しみを。
アクティブガル先輩のしごきを。
そして、アタシの背中を押し続けてくれた青葉さんの言葉を。
今のアタシは、あの日のアタシじゃない。
自らの力だけで重力を振り切って100メートル以上飛んだ、その実力が今の自分には宿っている。
アタシはスロープを一歩ずつ踏みしめ、プラットフォームの頂上へと登った。
視界が開けた瞬間、目の前に広がったのは、どこまでも青く、そして残酷なほどに広い琵琶湖の水平線だった。
『現在、プラットフォーム上は、富士川スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんです!』
『さあ次はディスタンス部門2度目の挑戦、ウイングノーツ選手。数日前の練習で負傷したとのことですが、なんとか本番に間に合わせてきました。さぁ今回はどうでしょう!』
実況の声に、アタシは苦笑いしながらも翼を広げた。さっそく事前情報がネタにされている。でも、擦られてかえって気が楽になったかもしれない。
審判員が赤い旗を上げ、風を読む。
やがて、旗が鮮やかな白に切り替わった。
「ゲート、オープン!」
大きく、深く、肺の奥まで空気を吸い込む。
「行きます! 3、2、1、――ゴー!!」
アタシは滑走路を蹴った。
記録飛行で培ったように最初からフルスロットルで羽ばたき、最高速でプラットフォームの端を飛び出す。
少し斜め下に向かって身体が投げ出されるが、焦りはない。尾翼をコンマ数ミリ、繊細に動かす。
視界が安定し、正面に水平線がピタリと固定された。
「「よし!」」
インカム越しに、アタシの声と青葉さんの歓喜の声が重なった。
身体が、空気に乗る。
羽ばたきのリズムは正確。翼の角度も完璧。
アタシは今、ついに、目指していた定常飛行の領域へと足を踏み入れたんだ。
『見事なスタート! ウイングノーツ、安定しています! このままいけ、このままいけ!』
バサッ、バサッ、という一定の羽ばたき音。
右側には、最初の目標だったホテルレイクビュー彦根が通過していくのが見える。
若干右に流されながらも、ふっと身体が少し軽くなる感覚があった。見えない巨大な掌に、下から支えられているような……。
「よし、捕まえた! いけいけ!」
青葉さんの叫び。ああ、これが風を捕まえるということか。
けれど、快感は長くは続かなかった。
岸を越え、周囲に遮るものがなくなった途端、琵琶湖はその真の姿を現した。
どこまで行っても、変わらない青い水面。
どこまで羽ばたいても、近づいてこない水平線。
アタシたちトリ娘には、鳥類と同じように天性の方向感覚と位置把握能力が備わっている。例えるなら、頭の中にGPSがあるような感じだ。
進んでいる方向が正しいと頭では分かってはいる。それでも、この変わらない景色、先が見えてこないような途方も無さはアタシを消耗させた。
腕が重い。翼の付け根が、熱い鉄を押し当てられたように焼けている。
「ハッ……ハッ……ハッ……」
意識が混濁し、景色がぼやける。
『ウイングノーツ選手! 下がってきてるぞ〜! 上げろ上げろ〜!』
萩原レポーターの声が遠くから聞こえてくる。
『ノーツ!! 湖面が近い! ピッチ上げて!』
青葉の叫びに、アタシはハッとした。
視界が湖面で埋め尽くされている。
――バシャッ!!
しまった、と思ったと同時に、右足が水に触れた。
冷たい衝撃が走り、グイッと身体が下へ引きずり込まれる。
――琵琶湖が、アタシを引きずり下ろそうとしている。
終わったと、誰もがそう思ったはずだ。実況も、観客も、そして伴走ボートの青葉さんでさえ、一瞬だけ呼吸を止めた。
けれど。
「うあああああァァァァァァッ!」
頭が、体が、カッと熱くなる。
アタシは、まだ飛べる。翼だって、心だって――折れてない!
「ぁぁぁぁあああアアアアァァァァァァッッ!」
尾翼を全力でねじり、残された全筋力を翼の一振りに込めた。
バシャッ
水面を叩きつけるような猛烈な羽ばたき。
水飛沫を上げながら、アタシの身体は一度掴まれた琵琶湖の手を振り切り、再び空へと舞い上がった。
『なんと! 着水したかと思いきや、復活しました! ウイングノーツ、着水寸前からの奇跡のリカバリー! なんという執念、なんという根性だ!!』
実況の絶叫が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
なんとか、少しでも、飛んで、前に進むんだ。ただその本能だけで、鉛のように重くなった腕を振り続けた。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
急上昇による消耗は致命的だった。
視界は真っ白。翼はガクガクと震え、羽根の一枚一枚が悲鳴を上げている。
それでも、アタシは落ちなかった。
『ウイングノーツ選手、1キロを通過しました!』
『ノーツ! 1キロ超えたって!』
「ハア……ハア……ハア……ハア……」
青葉さんの声が聞こえた気がしたが、応える余裕はない。
『まだ粘る、まだ粘る。湖面スレスレを飛びながら落ちないウイングノーツ! ここまでの粘りは、根性は、どこから生まれてくるのでしょうか!?』
だんだん腕に、翼に、力が入らなくなってくる。それでも、少しでも飛び続けたい。それだけを考えてひたすら腕を振り続けた。
――そして。
指先一つ動かせなくなったころ、アタシはゆっくりと、滑り込むように湖面へと着水した。
視界が青い水に覆われ、アタシは慌てて水面に顔を出す。瞬く間に数台のボートに囲まれた。
「よくやったわ! ノーツ! 最高のフライトだったわよ!」
救助されたボートの上。青葉さんがなりふり構わず私に抱きついてきた。
アタシは翼をだらんと垂らしたまま、泥のように座り込み、力なく笑う。
「へへ……。1回目の着水で、全部使い切っちゃいました……」
「いいのよ。あそこから立て直すなんて、前代未聞なんだから」
ボートの無線から、静寂を切り裂くようにアナウンスが響いた。
『――只今の、富士川スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんの記録は……』
会場全体が、固唾を呑んで発表を待つ。
『1709メートル50でした!』
『こーれはいきなりの大ブレイク! 2回目の挑戦にして史上10人目の1キロ超えを達成したー!ウイングノーツ!!』
地鳴りのような拍手と歓声。
遠くプラットフォームの方からも、アタシを讃える声が風に乗って聞こえてくるようだ。
「……やった。ついに、飛べたんだ」
アタシはボートの縁に頭を預け、初めて湖上から空を見上げた。
あんなに怖かった琵琶湖の空が、今は透き通るように美しい。
けれど、胸の奥には、小さな、けれど消えない火がまだ残っていた。
1.7キロ。でも、マエストロはアタシの倍飛んでいる。そして対岸は、もっと先にある。
喜びが引いた後に残ったのは、これまで味わったことのない、飢えだった。
「ノーツ? どうしたの?」
青葉さんの問いに、アタシは起き上がって、まだ震える翼で、遥か彼方の霞んだ対岸を指差した。
「青葉さん。アタシ、次こそは……あそこまで。もっともっと飛びたいんです」
青葉さんが大きく頷く。
アタシたちの4つの瞳に、迷いはなかった。




