第8羽 朝が来る
濃い霧が立ち込めている。
夜明け間近の暗い闇の中、何台もの車のヘッドライトが光っていた。投光器代わりのその光に照らされて闇に浮かび上がっているのは、広い滑走路。しかし、その光も霧で遮られ滑走路の端さえ見通せない。
その滑走路の真ん中に立つアタシの足元には、数台のヘッドライトの光で作られた影が折り重なっていた。
「ゲート、配置完了しました!」
「伴走車に運転手と青葉トレーナーが乗られました!あとは記録員待ちです!」
周囲では、技術専攻の学生や学園OB、そしてアクティブガル先輩を慕うボランティアたちが、慌ただしく、しかし的確に準備を進めている。
「どう? ノーツちゃん。初めての本格的な飛行場、その真ん中に立った気分は」
ガル先輩は、ストレッチをしながら余裕の笑みを浮かべて話しかけてきた。
広大なアスファルトの平原。学園の滑走路とは比較にならないスケール感。霧のせいで距離感は狂うが、その圧倒的な開放感と、同時に押し寄せる孤独感に、アタシは飲み込まれそうになっていた。
「どうして学園じゃなくて、わざわざ他所の滑走路を借りてやるんですか?」
「グッドクエスチョンね。ちょっち大人の事情もあるけれど、1キロ以上の記録を狙うなら、学園附属の富士川滑走路じゃ足りない。海に出ればそれ以上飛べるけど、水に落ちるから一発勝負しかできないのよ」
だからここでやるからには1キロ以上飛べるように頑張らないと、と言いながらガル先輩は人を呼んで何かを頼んだ。
「あとはね、」
学園生が持ってきたタオルを受け取って、1枚をアタシに手渡しながら先輩は話を続ける。
「ここは聖地なの。かつて、とある日本のトリ娘が当時の世界記録を樹立した、記念すべき場所」
「すごい……!どなたなんですか?その方は」
「ナスカちゃんのお母様よ」
ナスカ先輩の家は、日本でも最も歴史のあるトリ娘の名門だ。執事を兼ねたトレーナーが幼少期からついていることでも知られている。
「あの一族が刻んだ歴史に、今、名もなき新人のあなたが挑もうとしているのよ。……最高にワクワクすると思わない?」
言いながらもガル先輩はタオルで羽根を丹念に挟むように拭いている。アタシは、何気なく自分の翼を広げて動かしてみた。
――重い。
2ヶ月に及ぶ地獄の特訓。ガル先輩によるミリ単位の型稽古とパワートレーニング、青葉トレーナーによる高温加圧室での体幹強化。アタシの体幹や翼は以前とは比較にならないレベルに仕上がっているはずだった。
「なんで……!?」
「この霧のせいね。羽根一枚一枚が水分を吸っちゃって重くなってるわ。今から申請した記録飛行の日時を変更する訳にはいかないし、滑走路を使える時間も限られているから、できるだけ水気をとって飛ぶ準備を早めに整えないと」
慌てて、先輩と同じように付着した霧をタオルで拭き始める。状況を察して何人かがタオルやペーパーをかかえて駆け寄ってきた。湿ったタオルやペーパーを乾いたものに取り替えながらできる限りの水分を取り除いていく。
その間にも、少しずつ日が昇って明るくなっていた。
「事務長先生、こちらの準備は整いました」
一人のトリ娘が近づいて声をかけてきた。黒いダウンベストにジーンズを履いているところからすると、学園生ではないようだ。
「わかったわ。そしたら、三渡さんと琴川さん、青葉ちゃんにこっちは何とか予定時刻に間に合いそうと伝えておいて。あとは、始まったら動画記録を手筈通りよろしくね」
三渡さんとは、この記録飛行に立ち会い公式記録を証明する公式立会人。琴川さんは、アクティブガルに対しトレーニングを始めとしたサポートをしている、彼女にとってトレーナーのようなパートナーだ。
「了解です」
「あ、ちょっと待って。ノーツちゃんにはまだ紹介してなかったわよね」
そう言ってガル先輩はそのトリ娘を引き止めた。
「こちら、今回手伝いに来てもらってるクールクラフトちゃん。うちの学園を卒業した私の大事な後輩でね、ちょうどこの飛行場に近いところに住んでたからサポートに来てもらったの」
ウイングノーツも向き直って会釈する。
「そうですか! 初めましてウイングノーツです、今日はよろしくお願いします!」
「クールクラフトです。お二人の今日の健闘を祈ります。――では、ご安全に」
彼女が去るとすぐに、タイムキーパーが手を挙げた。
「そろそろ時間です! 1本目、開始してください!」
「さあ、ノーツちゃん。先陣を切ってもらうわよ。まずはあなたが、この重い空気をどう切り裂いて飛ぶのか、私に見せてちょうだい」
ガル先輩の言葉に、アタシは深く頷いた。
近くにいた学生にタオルを渡して、両足に車輪付きの靴を履く。
足を使って走ることは許されない。公式記録のルールは、翼の羽ばたきによる推進力のみで離陸することを求めている。
「おっとっと……」
ローラースケートのような不安定な感触に戸惑いながら、サポートの学生二人に支えられてスタートラインに立つ。
前方には、2本のポールの上方に渡されたロープが見える。
高度2メートル。
アタシの身長よりも少し高いだけ。けれど今のアタシにとっては天まで届かのような公式記録のハードルだ。
右を見ると、既に伴走車が待機している。フライト中に並走して指示を出すためのものだ。助手席から青葉さんが手を上げている。立会人の三渡さんもゴーサインを出した。
大きく息を吸って、吐き出す。既に空は明るい。いよいよ本番だ。
「それでは飛びます!――カウント、3・2・1・ゴー!」
叫びと共に、アタシは渾身の力で翼を羽ばたかせた。
バサッ、バサッ、バサッ!
凄まじい風圧が地面を叩く。湿った翼が重く空気を掴み、車輪がアスファルトの上を滑り出した。
(重い……っ!)
霧を吸った翼は、羽ばたくたびに肩に強烈な負荷をかけてくる。まるで泥水を掻いているような抵抗。
それでも、渾身の力を推進力に変えて助走のスピードをあげていく。
「今よ! 上げて!」
青葉さんの号令に合わせ、アタシは尾翼を急角度で跳ね上げ、翼の迎角を最大にした。
――浮いた。
スッと足の車輪が滑走路から離れる。ガラガラという車輪の音が消え、羽音だけが静寂に響いた。
「飛んだ……っ!」
喜ぶのは一瞬だけにして、即座に羽ばたきの方向を変えてスピードを維持しつつ高度を上げていく。
でも、重い翼はなかなか思うように動かない。一回羽ばたいただけでかなりの体力が吸い取られていく。
まだ前方のロープは目線の少し上。足を含めて全身がゲートを超えるには、まだ1メートル近く高度が足りないんだ。
バサッ、バサッ、バサッ
懸命に、翼を動かす。
「パワー!パワー!」
後ろからガル先輩の激が聞こえる。
「はあああぁぁぁぁ!」
アタシは全身の力を振り絞って翼を動かした。それでも、まだロープを超えられるような高さには届かない。
あと30センチ。
あと20センチ。
あともう15センチ。
「――ゲート、倒して! 中止!」
青葉さんの指示で、係員がロープを瞬時に倒した。このまま突っ込んでロープにひっかかると危険と判断して、安全をとったんだ。これで、このフライトでの記録成立は出来なくなってしまった。
「そのまま少しずつ高度を下げて安全に着陸! できるわね?!」
「は、はい!」
羽ばたきを緩めて高度を少しずつ下げていく。
ガッ!
靴の車輪が激しい音を立てて滑走路に乗り、滑り始めた。
ガラガラガラガラッ!
アタシは羽ばたくのをやめ、車輪にのって滑走する。すぐにサポートの学生が集まってきて体を止めてくれた。
測定係が着地地点に走っていくのが横目で見える。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
心臓が口から飛び出しそうだった。肺が焼け、腕が痺れていることにようやく気付く。
すぐに駆け寄ってきた青葉さんの顔を見て、アタシはうなだれた。
「……すみません。ダメでした。思っていた以上に翼が重くて、飛び上がるだけで精一杯で……」
「何を言っているの」
青葉さんは、アタシの肩を強く掴んだ。その瞳は、落胆どころか、眩しいものを見るように細く輝いていた。
「後ろ。見てごらん」
振り返る。
晴れはじめた霧の向こうで、スタート地点が遠くに見えた。
「アナタは今、自力で離陸してここまで飛んできたのよ。滑走した分もあるけど、飛んでいた距離だけでも100メートル近く。……ノーツ。公式記録にはならなかったけど、こんな悪条件の中で、琵琶湖で16メートルしか飛べなかったアナタが、自分の翼だけでここまで飛んだのよ」
そうだ。
アタシは今、プラットフォームの高さも、足の助走も使わず、自分の翼だけで空に浮かんでいた。
特訓で得た力は、重い翼でも確かに空を掴んでアタシをここまで運んだんだ。
「……ありがとうございます。でも、アタシはもっと飛べます。飛べるはずです。次こそ、あのゲートを越えてみせます!」
「いい顔ね。その意気よ。少し休んで、2本目いくわよ」
「はいっ!」
ちょうど二人の横を、飛び立ったアクティブガル先輩が通り過ぎた。
「フルパワー! 頑張れ!」
琴川さんが伴走者の中から叫んでいる。ガル先輩は重くなった翼のせいかキツそうな表情を見せていたが、その激に応えてアタシの到達した地点を一気に超えていく。
その背中を見つめながら、アタシは自分の掌を強く握りしめた。
(いつか、あんな風に……!)
もっと強くなりたい。
もっと遠くへ飛びたい。
霧が晴れて、朝日が滑走路を照らし出す。濡れた翼が、白銀に輝き始めていた。




