第7羽 超える
事務室脇の面談室に通されて、アタシは椅子に腰掛けた。
「まずはコレね」
青葉さんに渡されたのは、見覚えのある一通の封筒。
「……開けるまでもなく、落選通知ですね」
自嘲気味に言うと、青葉さんは否定もせず、静かに頷いた。
次回のトリ娘コンテスト、アタシの出場枠はない。あの記録では当然だ。
「ショックでしょうけど、今のあなたには決定的なものが足りないのよ。ノーツ。マエストロや自分のフライトと、あのソラノセプシーやフーシェのフライト……決定的な違いは何だと思う?」
あの日見た、天使のフライト。
前回のフーシェ先輩の優勝フライト。
「飛び出す……方向、でしょうか。ソラノ先輩たちは、水平に真っ直ぐ滑り出していました」
「正解よ。逆にアナタたちは離陸時に十分な揚力が得られていないことを示しているの。揚力不足をカバーするためにあえて一度ダイブしてスピードを得る戦法もあるけれど、本来の在り方ではないわ。あなたが前回足の先を引っ掛けてしまったのは、練習が足りなかっただけでなくて、そこも原因」
「分かりました。……でも、何を強化すれば解決できるんでしょうか?」
「根本的に足りないのは――パワーと精度ね」
「パワーと、精度」
位置エネルギーの力を借りずに羽ばたくための筋力だけでなく、その力を必要な推進力と揚力に効率良く変換するための翼の形とその維持。
「そう。これが今のあなたの一番の課題。それを克服するために、私はこの欠場をただの練習期間にするつもりはないの」
青葉さんの視線が、傍らの女性を向いた。
鍛え上げられたしなやかな肢体に、タイトなスーツ。
学園の事務長であり、トリコンのOB(Old Birdgirl)――アクティブガル。
「こんにちは、ウイングノーツさん。編入手続きぶりね。話は青葉ちゃんから聞いたわ」
彼女は私の目の前に立つと、にこっと笑みを浮かべた。
「トリコンだけが空じゃないわ。お姉さんと一緒に、日本記録を目指さない?」
「……日本、記録?」
アクティブガル事務長の口から飛び出したその言葉に、アタシは自分の耳を疑った。
「そうよ。本当は世界記録と言いたいところだけど、まずは日本記録ね」
事もなげに言い放つ彼女の瞳には、冗談の欠片もなかった。
「ということは、この前のソラノ先輩の24キロ超えを目指すということですか?」
隣に立つ青葉トレーナーが、アタシの驚きを予想していたのか、静かに、けれど熱を帯びた声で言葉を継いだ。
「ノーツ。実はね、トリ娘コンテストの記録は、公式な飛行記録としては認定されてないのよ。ギネスや国際連盟の記録には載らないの」
「えっ……? あんなにテレビで大々的にやってるのに、ですか?」
「そうなの。理由はいくつかあるけれど、一番は10メートルもの高さがあるプラットフォーム。あそこからの離陸と、足を使った助走がネックでね。いわば、トリコンは独自のレギュレーションで成り立つお祭りであり競技大会。でも、公式記録は……文字通り、全く別の次元の話になるわ」
青葉さんの説明は、アタシのトリ娘としての常識を根底から揺さぶった。続いて、ガル事務長から『FSI・国際スカイスポーツ連盟』のロゴが入った手引書を手渡される。
「公式記録として認められるためのハードルは2つ。まず、助走に足を使わず、己の翼の羽ばたきだけで離陸すること。そして、そこから《《高度2メートルを超えて》》飛び続けること」
「に、2メートル……?」
思わず、頭上に手を伸ばしてその高さを手で測ってみる。
最初から高さ10メートルで飛び始めるのではなく、地面から2メートルまで飛び上がらなければいけない。
「文字通りハードルじゃないですか!」
「その通り。そのためには羽の力だけで助走し、離陸、上昇できるだけの、パワーと翼の精度が必要よ。それを身につけながら挑戦する……やってみる? ノーツちゃん」
ガル事務長の挑発的で燃えるような瞳がアタシを射抜く。
即答できずに手引書に目を落とすと、日本記録保持者の欄に、あの人の名前を見つけた。
『ソラノセプシー:記録4.4キロメートル』
彼女は、トリコンという華やかな舞台の裏側で、この公式記録すらも制していたんだ。
16メートルで沈んだままのアタシで終わりたくない。
あの人の背中を追いたい。
「やります」
アタシは顔を上げて、ガル事務長の目を見据えて言った。
「やらせてください!」
「オーライ。今回は私も一緒に挑戦するから同志ね。ここでは事務長ではなく名前で呼びなさい。……じゃ、行くわよ。日本一への道へ!」
◆
翌日から始まったアクティブガル事務長もといガル先輩の指導は、本当に地獄の修行だった。
彼女が求めたのは、単なる力任せの羽ばたきではない。翼で効率良く揚力を生み出すための、ミリ単位の型稽古。
「違う! その角度じゃ空気が逃げる! あとコンマ五ミリ、翼端を反らせて固定!」
体育館の片隅。アタシは翼を全開に広げたまま、特定の型を維持するトレーニングを繰り返していた。
飛ぶのではない。ただ、翼を理想的な形状に研ぎ澄ませて肉体に記憶させる。
「トリ娘の翼は、筋肉の緊張一つで形が変わるわ。貴女の翼はまだ、ただの羽根の塊。それを空気を切り裂く刃に変えるために、羽根一枚一枚の角度まで、自分の神経を支配下に置くのよ」
腕が、肩が、焼けるように熱い。翼を支える筋肉が悲鳴を上げ、乳酸が限界まで溜まって翼がガタガタと震えだす。
「動かさない! そのまま10分キープ! そんなんで空中で姿勢を崩せば翼が折れるわよ!」
「う……ぐっ……ぁ……!」
「ボツ! 今、左中翼が1ミリ下がった。最初からやり直し!」
何度、その「ボツ」という言葉に絶望しただろうか。
完璧な形が作れなければ、離陸すら許されない。滝のような汗が床に水たまりを作る。
「日本一の成果を出すためには、日本一努力するのよ!」
「はい!」
膝が笑い、意識が朦朧とする中で、アタシは自分の翼を疑い、磨き、削ぎ落としていった。
ガル先輩が技を叩き込む一方で、青葉さんは体を根底から作り変える担当だ。
学園の片隅にある高温加圧室。
クラウドパルの秘密兵器として紹介された設備だが、もともとは青葉さんが既存の理論と技術をトリ娘用に応用して創ったものらしい。大学で関連技術を研究してて卒論もそのネタで出してるというから本物だ。
その専門家が、アタシに特化するように設定を調整している。
「パルちゃん向けの設定から大分いじったわ。今日のメニューは全圧下での羽ばたき運動。……気を失わないように死ぬ気でやりなさい」
漆黒の圧縮スーツを素肌に纏い、アタシは密閉された鋼の部屋に入る。
扉が閉まった瞬間、鼓膜を圧迫する不快な音と共に、全身を万力で締め付けられるような重圧が襲った。
スーツは熱を吸い込み、肌に癒着するように密着する。呼吸の一つ一つが重い。まるで肺の中にまで熱い砂を流し込まれているような錯覚。
その中で、アタシは全力の羽ばたきを繰り返す。
「あと、5分……! 粘りなさいノーツ!」
スピーカー越しに聞こえる青葉さんの声が、遠い世界の出来事のように感じる。
視界が白く霞み、汗が目に入って痛い。心臓の鼓動は早鐘を打ち、全身の血管が浮き出していく。
意識を失いかけたところで、終了を告げるブザーが鳴った。気を抜いた瞬間、筋肉が猛烈な痙攣を起こし、その場に崩れ落ちる。
「ノーツ! しっかりして!」
激しい音を立てて扉がこじ開けられた。
青葉さんが転がり込むように入ってくる。
抱きかかえられて身を起こし、なんとかスーツを脱ごうとするが、体が抜けない。
「はっ……! はあっ……はあっ……!」
青葉さんのハサミで圧縮スーツが切り開かれて、ようやくまともに息ができるようになった。全身の筋肉が解放され、皮膚が脈打つ。
スーツから剥き出しになったアタシの体は汗と熱で赤く染まっていたが、その筋肉のラインは、わずか数ヶ月前とは比較にならないほど鋭く、強靭に研ぎ澄まされていた。
「……大丈夫のようね。切らずに脱げるようになることを目指すわよ。それが、アナタの体が適応してきた証拠よ」
「はい」
息も絶え絶えな中でも、アタシはわずかな手応えを掴み始めていた。
◆
夏の盛り。湿り気を帯びた琵琶湖の風が、頬を撫でていく。
ガードレールに身を預けて、アタシはただ、眼前に広がる聖地を見つめていた。
湖面に突き出した巨大な建造物、通称プラットホーム。そこは、アタシたち『トリ娘』の憧れの場所。
プラットフォームから飛び立つ少女たちの翼。
マエストロは翼の不調を抱えながらも、定常飛行に持ち込んで380メートルを飛んでいた。
そして、現王者のフーシェ先輩は『浪速の疾風』の異名どおり、今圧倒的なスピードで水平線に向かって飛んでいる。
「飛びたくても飛べないのは、つらいわねぇ」
いつの間にか、青葉さんが私の隣に立っていた。
一年前に初めてここで声をかけられた時と、全く同じ言葉。
けれど、それを聞くアタシの心境は、天と地ほどの差があった。
「……いいえ。次は必ずここに戻ってきます。記録飛行の結果をひっさげて。これまでとは違う自分になって――」
アタシは、フーシェ先輩が消えていった遥か彼方の水平線、そのわずか数メートル上の空を見据えた。
トリ娘コンテストは、多くの人に愛される素晴らしい舞台だ。
けれど、今のアタシが目指すべきは、拍手喝采でもテレビのスポットライトでもない。
地上2メートルのハードル。そして自分自身を超えるために。
「ソラノ先輩が見た景色を、私も見たいんです」
青葉さんは、アタシの横顔をじっと見つめ、そして嬉しそうに目を細めた。
「いい目になったわね。記録飛行まであと2週間。……最後の仕上げ、いくわよ」
「はいっ!」
駐車場へ歩き出す青葉さんの背中を追い、アタシは走り出した。2週間後に迫った、記録飛行に向けて。




