第4羽 明日への涙
アタシが飛んだ、その翌日。
琵琶湖の空に、透き通ったウグイス嬢のアナウンスが響き渡った。
『――ただいまより、トリ娘コンテスト2日目。ディスタンス部門を開催いたします』
アタシは独り、観客席の隅に座っていた。
視線の先には、昨日立ったばかりのプラットフォームがそびえ立っている。
あそこから落ちたアタシの姿は、観客席の皆にはどう映ったのだろう。期待外れだっただろうか。やっぱり無理だと笑われただろうか。
昨日の最終成績は、17位。
参加選手28人中の17位で、全体の3分の2に入ったのだから思っていたほどは悪くはない。でも、中途半端な数字がかえって胸に刺さったまま抜けない。
そんなアタシの思考を遮るように、巨大スクリーンに親しみのある笑顔が映し出された。
『さあ、ディスタンス部門のトップバッターは――クラウドパル選手です!』
カメラに向かってピースサインを作るクラウドパル。その愛嬌は、緊張で震えていたアタシとは正反対だ。プラットフォームの下では、ボートに乗った青葉トレーナーが彼女を見守っている。
でも。
パルちゃんのフライトは、あまりに呆気なかった。
「あ……」
飛び出した直後、彼女の体はバランスを崩し、大きく右へ旋回しながら湖面に沈んでいった。
昨日の自分を鏡で見ているような光景に、思わず腰を浮かす。
『……只今の、富士川スカイスポーツ学園、クラウドパルさんの記録は、42メートル06でした』
湖面に浮かぶパルちゃんの姿を見て、アタシは拳を強く握りしめた。
昨日のことを思い出す。
本番の難しさ。風の条件との戦い。コントロールで勝負するしかない滑空の難しさと限界。そして圧倒的な練習と経験不足。
やがて、大きな歓声がしてアタシは我に返った。観客席横の巨大モニター上を見ると、4761メートル08という数字が表示されている。
『女王ナスカ! 軌道のコントロールに苦戦しましたが、見事なフライトで現在第1位です!』
モニターには、水上に浮かんで救助ボートを待つナスカ先輩と、砂浜がそのすぐ近くに映っている。一瞬対岸到達かと驚いたが、記録が5キロ弱ということを考えるとどうやらこちら側――琵琶湖東岸らしい。
しかし、今日の本当の驚きはここからだった。
『現在プラットフォーム上は、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ソラノセプシーさんです』
歓声があがって、前々回チャンピオンがプラットフォーム上に姿を現す。銀色の髪をなびかせ、合図を待って立つ姿は、もはや一つの彫像のような静謐さを纏っていた。
白旗が揚げられて、彼女が走り出す。
「――っ、すごい!」
思わず叫んでいた。
翼を広げて、走り出した姿勢からそのまま真っ直ぐ。飛び出した高度を維持したまま、まるで透明なレールの上を滑るように、どこまでも真っ直ぐに空を突き進んでいく。
1キロ、――3キロ、――5キロ。
アナウンスが響くたびに、会場が地鳴りのような歓声に包まれる。
やがてスクリーンには、一昨日ナスカ先輩たちが指差した多景島が映し出された。その横を、ソラノセプシー先輩は淡々と、力強い羽撃きで通過していく。
『……いける。このまま、対岸を目指す』
インカムの無線を通して聞こえた彼女の低い声に、総立ちになった観客たちが熱狂する。
15キロ。――18キロ。
先輩を追うボートのカメラの先に、朧げながら陸地が見え始めた。
「ノーツ、パルちゃん。……見てなさい。あれが、風を乗りこなすということよ」
いつの間にか隣に座っていた青葉さんが、静かに言った。
ソラノセプシー先輩の尾羽が、小刻みに、それでいて正確に動いている。見えない気流の変化を瞬時に読み取り、軌道を変えずに進む。それはおそらくセンスと努力の果てに辿り着ける、究極の美技だった。
『おーい! ソラノセプシー! どこまで行こうというのかーっ!』
追うボートに乗ったアナウンサーが興奮混じりに叫ぶ。
先輩は竹生島の脇を通り、琵琶湖の北西に位置する葛籠尾崎の西を北に進路を変えつつ進んでいく。そこから先は湾となっているため、行き止まりだ。
やがて岸との間隔が狭くなってくると、運営のボートが先輩を追い越した。旗を振りながらホーンを鳴らしている。
『あーっと、着水指示が出ました。これ以上先は陸地のみのため、手前の水上に降りるよう指示が出ました』
指示を受けて、先輩が羽ばたきを緩めながら高度を下げ、浅瀬に足を伸ばす。
大きく両翼を広げ、銀髪をキラキラと輝かせながら、彼女は水面に降り立った。
その姿は――まるで、天使の降臨そのものだった。
『――素晴らしい記録を発表します』
静寂を破ってウグイス嬢のアナウンスが響き、会場が少しザワつく。
『――只今の、スカイスポーツ学園、ソラノセプシーさんの記録は――』
会場が落ち着くのを待つかのように間を空けて告げられたその記録は。
『――2万3688メートル24でした!』
うおおおおおという歓声が湧き上がり、観客が総立ちになる。スタンディングオベーションで拍手が鳴り響いた。
『なんという大記録!ついに、トリ娘の念願である対岸に到達!琵琶湖横断達成!ソラノセプシー!我々は、伝説を目撃しましたーーーーっ!』
決して届かないと思っていた、対岸という目標。それを、彼女はまさに目の前で達成して見せた。
「……アタシも。あんな風に、飛びたい」
心の中に、小さな、けれど消えない炎が灯った。
◆
帰りのバスの中。
伝説の余韻に沸く車内で、アタシたちの周りだけが、沈殿したような静寂に包まれていた。
「……元気だそうよ〜! 打ち上げ、打ち上げ!」
空元気で励ますクラウドパルの言葉も、虚しく響く。
クラスメイトの中の最高記録がアタシの44メートル。期待されていたマエストロやバートライアは、20メートルや計測不能という散々な結果に終わっていた。
「……パル、あんたは悔しくないの? あんな記録だったのに」
マエストロが、絞り出すように聞いた。
パルちゃんは一瞬だけ動きを止め、それから、いつもの明るい笑顔で言った。
「あたし? あたしはね、飛べたから嬉しかったよ」
ああ、と納得するマエストロと不思議そうに首をかしげるアタシを見て、パルちゃんは微笑んだ。
「……あのね、ノーツ。あたし、生まれつき尾羽が無いの」
え、とアタシは顔を上げた。
パルちゃんはお尻を軽く振ってみせる。確かに、そこには本来あるはずの、舵取りのための尾羽がない。この学校に入るまでずっと周りにトリ娘はいなかったから意識していなかった。
「そもそも飛べないって、言われてたんだ。でも、青葉さんに教えてもらって、翼のコントロールだけであそこまで行けた。だから、いつかあの人を……尾羽がないのに滑空で優勝した、アタシの憧れの先輩を超えたいんだ。アタシの目標は、その260メートル。一歩ずつ、近づければいいの」
「パルちゃん……」
一番明るい彼女が、一番重いハンデを背負って、それでも誰よりも前を見ていた。
自分の不甲斐なさを他に求めようとしていた自分が、急に恥ずかしくなった。
◆
その夜。
学園に戻ったアタシは、フライト映像の分析をしているスタァ先輩の邪魔をしないように、そっと部屋を抜け出した。静まり返った階段の踊り場へと向かう。
少し緊張しながら、慣れ親しんだ番号を押した。
「……あ、バァちゃん。久しぶり。元気?」
『ああ、ノーツ。テレビ観だよ。しっかり顔まで映ってで、ばぁぢゃん嬉しかった』
電話の向こうから聞こえる、聞き慣れた訛りのある声。少し掠れた、けれど温かい声。
その響きに触れた瞬間、ダムが壊れたように涙が溢れ出した。
「……でも、思ったようには飛べねで、17位だった。距離も、44メートルで……」
一度口にすると、止まらなかった。
短い一ヶ月、どれだけ必死だったか。どれだけ怖かったか。それなのに、結果はこんなにも惨めで。
「みんな、上出来だって言ってくれるんだ。でも、もっと……もっと上手くできたんでねかって……悔しくて、悔しくて……っ」
嗚咽が漏れる。言葉にならない。
バァちゃんは、アタシの泣き声が落ち着くまで、ずっと黙って聞いていてくれた。
そして、静かに、一言ずつ、噛みしめるように話し始めた。
『……大丈夫だっちゃ。……おめは大丈夫だっちゃ。おめが今泣いでるのは、本気でやっだがらだ。本気で取り組んでねぁー人は、なんぼやったって泣げるわげがねぁー』
アタシは、手で目を拭いながら頷いた。
『泣げるづーごどは、一生懸命やった証拠なんだっちゃ。おめはよぐやった。胸張れ。真っ直ぐ落ぢもせず、綺麗さ飛んでだ。商店街のみなも、ノーツの飛ぶ姿見で喜んでだよ。笹九のミヨさんなんか、帰ってぎだら唐揚げどカボチャの天ぷら作って待ってるって言ってだよ』
岩沼の、皆の笑顔が浮かぶ。
『立派でねぁーが。こごからだ。こごがら、もっと飛んでいげばいい。ばぁちゃんたちはいづでも応援してっから。
――がんばらいん、ノーツ!』
深呼吸をした。
肺の奥まで、温かい空気が満ちていく。
「……バァちゃん、ありがとね。あのね、アタシ、目の前で見たんだ。琵琶湖の向こう岸まで飛んでいった人を」
瞼の裏に、ソラノセプシー先輩の白く輝く翼が浮かぶ。
「正直、最初は『やりやすそうだから』って滑空部門を選んだんだ。でも、実際に飛んでみて分かったの。アタシは、行けるところまで行ってみたい。自分の持てる全てを出し切って、あの空の果てまで」
アタシは羽先で最後の一滴を拭って、夜の校舎の向こうに広がる暗闇を見据えた。
「――バァちゃん。アタシ、ディスタンス部門で対岸を目指すよ」
電話を切った後も、しばらく窓から外を眺めていた。向こうに見える海の水面が、琵琶湖と重なる。
あの水面の向こう。
本当にやりたいことが見えた。
ここからだ。もう一度、アタシのフライトを、ここから始めるんだ。




