第3羽 Make debut!
滋賀県彦根市。
かつて井伊家が治めた彦根城の城下町は、今やトリ娘たちの熱気で蒸せ返っている。
ホテルの窓を開けた瞬間、アタシの視界を塗りつぶしたのは、空の青をそのまま流し込んだような琵琶湖の蒼だ。
「……すごい、いい眺め」
思わず声が漏れる。
でも、その絶景の右端に目を移すと、湖にせり出した無骨で巨大な鉄骨の櫓が鎮座していた。
プラットフォーム。
琵琶湖に飛び立つ選ばれた者だけが立つことを許される、空への入り口。夢にまで見たあの場所が、今はアタシを試す巨大な処刑台のようにも見えた。
「へへへ〜。どう? ちょっとしたモンでしょ、ここ!」
隣で胸を張るクラウドパルの声に、現実へと引き戻される。
地元・宮城の小さな町で、一人寂しく「飛びたいなぁ」と呟いていたアタシが、今、本当にここにいる。その事実が、誇らしさと同時に、吐き気がするほどのプレッシャーとなって胃を締め付けるのだった。
◆
同室のクラウドパル、マエストロ、バートライアの3人と一緒に湖畔の下見を兼ねたランニングに出ると、湖畔道路周辺はさながらトリ娘のトレーニングセンターのようだった。
道路脇や湖畔のあちこちでトリ娘たちがストレッチをしたり走り込みをしたりと、大会の準備をしている。学園のジャージを着ている人が半数近いが、他は個々のウェアを着た社会人などの参加者だ。
湖畔道路を抜けて、アタシたちはプラットフォームから左に折れる湖岸沿いの道を、その先のホテルレイクビュー彦根まで駆け抜けた。
「このホテル近くまで飛べれば500メートル。私たちディスタンス部門の、最初の目標であり通過点ね」
マエストロが、汗一つかかずに言い放つ。
アタシがこれから参加する「滑空部門」は、羽ばたかずにグライダーのようにどこまで飛べるかを競う競技で、現生徒会長のトーワさんが持っている329メートルが大会記録だ。
一方で、彼女たち3人が出場する「ディスタンス部門」は、自分の力で羽ばたいて到達距離の限界を競う競技。マエストロが部門転向するにあたってスタミナを重点的にあげたと聞いて納得したものだった。
ホテル前にある、岬のようになった湖岸の先端に辿り着いたところで、見知った人がいることに気付いた。
赤髪の先輩――シャイニングスタァ。そして、彼女の隣には、学園でもトップクラスの実力者であるフーシェ先輩とナスカ先輩も並んでいる。
「こんにちは。皆さんどうされたんですか?」
「あれ、ノーツやないの」
「お、その隣にいるのは一年のエース、マエストロやないか!」
返事をしたスタァ先輩の横から、フーシェ先輩が顔をのぞかせた。
「フーシェ先輩、ご無沙汰してます」
「大会1回分とばして部門転向したんやろ?明後日の大会、楽しみにしとるでぇ。そのフライト、見させてもらうわ」
「ありがとうございます。全力で挑みます」
淡々とした会話にも火花が見えるようで、アタシは隣のバートライアと目を見合わせた。
「せや。うちらは全力で飛ぶ。せやけど最後の最後に勝負を決めるんは、気合や!」
「結局貴女はそればかりではないですか」
腕を組んで下がっていたナスカ先輩が溜息をつきながら突っ込んだ。
「事実やからなぁ。嵐が吹こうが槍が降ろうが最後はココが強いヤツが勝つ!」
ナスカ先輩の指摘も物ともせずフーシェ先輩が胸を示しながら力説する。
「胸のあらへん人に言われてもなぁ」
「……なんか言うたか?」
フーシェ先輩がジロリとスタァ先輩を睨んだ。
「なーんも」
「あのー、先輩方はここで何を?」
話が途切れたとみて、すかさずバートライアが聞きたかったことを質問してくれた。
「ランニングの休憩ついでに、少々多景島を眺めていたのですわ」
「多景島?」
ナスカ先輩の説明に思わず聞き返す。
彼女の視線の先には、もやの向こうに浮かぶ小さな島影があった。
「あの島が、多景島ですわ。ここから約7キロ先。前回、その横を通過できたのはフーシェとソラノセプシー先輩だけでしたわ」
7キロ。
アタシが今まで練習してきたプールの端とは、そもそも住んでいる世界の次元が違う。
呆然とする私に、ナスカ先輩がさらに追い打ちをかけるように、水平線の彼方を指差した。
「しかし、私達の最終目標は、琵琶湖横断。対岸までの20キロですわ」
20キロ。
自らの翼だけで、この巨大な湖を渡りきる。
かつてドーバー海峡を渡ったという伝説のトリ娘『アルバトラス』の名を挙げながら語る彼女たちの瞳には、一塵の迷いもなかった。
「対岸、か……」
ホテルに戻る帰り道。
誰もが先輩たちの目指すスケールの大きさに黙り込んでいた。そもそも、飛べるか飛べないかで四苦八苦している中で、対岸まで飛ぶことが現実的に可能なのか。自分たちが積み上げようとしているものとのギャップが大きすぎて呆然とする。
ホテルの入り口で待っていた青葉トレーナーにそのことを話したら、彼女はカラッとした声で笑い飛ばした。
「気持ちは分かるけど、競技を始めたばかりの人がオリンピック記録を見て絶望してどうするのよ。ナスカだって、初出場の記録なんてせいぜい数十メートルだったんだから。誰もが最初は初心者、よ」
青葉さんは夕日に染まる湖を指差した。
「まずはこの大会、今できる全力で望むことに価値があるわ。そうすることで、課題や気づきなども見えて彼女達に追い付くきっかけになるのよ。運と、風と、今までの自分を信じて。思いっきり飛んできなさい!」
「「「……はい!」」」
その力強い言葉に、アタシだけでなく他の3人も背筋を伸ばした。翼が、熱を帯びる。まずは、明日。アタシからだ。
◆
翌朝、滑空部門の本番当日。
早朝の澄んだ空気の中、アタシは赤を基調とした特注のユニフォームに身を包んでいた。
空気抵抗を減らすための、肌に密着するツルリとした素材。着た瞬間から否応なしに闘争心を掻き立てる。
「……嫌な予感がするわね」
一方で、横に立つ青葉トレーナーは眉をひそめてプラットフォームの旗を見上げていた。旗は、ぐったりと垂れ下がったまま微動だにしない。
無風。
トリ娘にとって、向かい風は揚力を生む恵みの息吹だ。それがないということは、自らの初速と技術だけで、重力に抗って飛ばなければならないことを意味する。
『さあ、間もなく前回覇者、トーワ選手のフライトです!』
場内が静まり返る。
絶対王者がプラットフォームを蹴った瞬間、アタシは世界が止まったかのような錯覚に陥った。無風という条件だが、彼女の軌道は神業だった。
真っ逆さまに落ちる重力を、ミリ単位の翼面制御で水平方向の推進力へと捻じ曲げる。
スーッ、と。
まるで透明な糸に引かれているかのように、彼女は空を滑った。
ギリギリの低空飛行。水面との距離、わずか数センチ。
『ただいまの、富士川スカイスポーツ学園、トーワさんの記録は、……221メートル10でした!』
爆発的な歓声。自己ベストとはいかないまでもまずまずの距離に、会場はさらなる熱戦を期待して盛り上がっている。
ところが。
その後に出場した有力選手たちは、ことごとく無風の環境に呑み込まれていった。
軌道修正に失敗し、錐揉み状態で湖に突き刺さる選手。
一度も浮き上がることなく、真っ逆さまに沈む選手。
バッチャーン、という着水音が響くたび、アタシの心臓は嫌な音を立てて早鐘を打った。
「ノーツ。……次、あなたの番よ」
青葉さんの手が、アタシの肩に置かれた。
その温かさと力強さが、ガタガタと震える膝を辛うじて支えてくれる。
「練習通りに。ただ、無風だから引き起こしは、いつもより一瞬早く。――思いっきり、アナタのフライトを見せてきなさい!」
「……行ってきます!」
プラットフォームへと続く長いスロープを、上を見ながら一歩ずつ踏みしめる。だんだん広くなっていく空。
それが視界を全て埋め尽くしたとき、アタシは頂上に立っていた。
視線を落とすと、目の前には、巨大な琵琶湖と水平線。その青に吸い込まれそうな感覚になるのを、首を振って振り払った。
『現在プラットフォーム上は、富士川トリ娘スカイスポーツ学園所属、ウイングノーツさんです』
テレビで何度も聞いたアナウンスで、自分の名前が告げられた。自分がこのアナウンスで呼ばれる姿を、これまで何度想像しただろう。でも、不思議と何の感慨も湧いてこなかった。ただ、飛ぶ。今はそれだけ。
赤白の旗を持った審判員が前方の助走路上に立った。一旦赤旗を上げ、周りを見渡してから素早く白旗に上げ変えた。
「ゲート、オープン!」
審判員の掛け声に全身の血が一気に熱くなる。
「行きますっ!」
叫びと共に、両腕を左右に伸ばして翼を広げた。
「3、2、1、ゴーッ!」
低姿勢のまま全速で駆け出す。プラットフォームの端までのたった10メートルの助走距離が、長く遠く感じた。
ダンッ、と台の端を踏み切って頭から飛び込む。
全身が重力に支配されて、正面の視界を湖の水面が覆い尽くす。
吸い込まれそうな恐怖を気合でねじ伏せて、アタシは翼と尾羽を渾身の力で上向きに捻った。
ググッ――!
翼の下側に、確かな空気の手応えを感じる。体が持ち上げられ、視界に空が見えた。
(浮いた……!)
歓喜が脳内を駆け抜けた、その直後だった。
翼を支えていたはずの重厚な空気の圧が、フッと消えた。まるで、踏みしめていた地面が突然消えたような、不気味なまでの軽さ。
「しまっ……!?」
――失速。
気付いたときには遅かった。体が揺れ、左に傾きながら落ちていく。
勢い余って、体を引き起こし過ぎたんだ。その結果、翼の上の空気の流れが剥離してしまった。こうなったら立て直すのは不可能に等しい。
「諦める、かぁぁああっ!」
羽ばたいてはいけないから翼と尾羽を限界まで捻り、少しでも長く飛ぼうと落ちる勢いに逆らう。しかし、旋回して落ち始めた体の勢いは止まらない。
「あああああぁぁぁっ!」
傾いていた左翼の先端が水に触れた瞬間、そこがグッと湖に捕まえられたような感覚があった。体が振り回されるように回転して湖面の上に叩きつけられる。
ゴボゴボゴボっ。
泡を吐きながらも、アタシはなんとか水面に這い出した。
駆けつけたライフセーバーのボートに引き上げられて、びしょ濡れの体のまま、茫然とプラットフォームを見上げる。
あまりにも、一瞬だった。
憧れていた舞台。そこにアタシがいられたのは、わずか数秒間だけだった。
『只今の、ウイングノーツさんの記録は、44メートル41でした』
幾重にも組み上げたパイプで作られたその舞台は、自分が数十秒前まで登っていた物と同じとは思えないほど、巨大で、高くて、重々しく見える。
「ごめん……」
思わず出たその言葉は、誰に向けてのものだったのか。
バァちゃんか。青葉さんか。それとも過去の自分か。
顔から滴り落ちる雫が、止まない。




