第30羽 ソシテミンナノ
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ」
必死に翼を羽ばたかせる。
無線も位置把握も復活したとはいえ、1周旋回してようやく4キロメートル地点を過ぎたところ。これから折り返し地点までまだ16キロもある。正直気が遠くなりそうだけど、前に進めるようになったんだ。進むしかない。
「風を……風を拾わないと……っ!」
大きな旋回を経て、今のアタシの五感はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。両腕の千切れそうな疲労も、肺の焼けるような熱さも、すべてが生きて飛んでいるという強烈な実感となって脳を支配している。
ブォッ!
正面――北西から吹いていた風が不意に右からの突風に変わって翼を叩いた。
体がぐらりと左に傾きかけるけど、アタシは歯を食いしばり、背筋のすべてを動員して羽ばたく。身体の向きを風の方向に入れ込み、いなして進む体勢に入った。
海風に揉まれたあの岩沼の海岸線を思い出せ。海沿いに、強い横風をいなして飛んだあの感覚。
6キロ……そして8キロ。
まるでアタシを試しているかのように、さらに少しずつ強くなっていく北風。いなして飛ぶにもさらに力が必要になってくる。
それでも、なんとか飛行ルートを維持して飛び続けた。
『今、10キロを通過したーっ! 先ほどプラットフォームに向けて戻ってきそうな姿を見たときに、誰がここまで飛ぶと予想できたでしょうか!?』
前方にかすかに竹生島が見えてくると、風はさらに強く、不規則にアタシを襲うようになってきた。
『ノーツ! 流され始めてる!』
「押されてる……わかってる……っ! でも、負けるわけにはいかないっ……!!」
風に煽られ、進路を何度も流されそうになる。けれど、アタシはそのたびに力技で身体を北西に向けたコースへと戻した。
既に、腕と肩に限界が近づいてきているのが分かる。でも、簡単に諦めるわけにはいかない。
『ノーツ! 少し高度下がったけど大丈夫?!』
「大っ、丈っ、夫でっ、すっ」
答える自分の声が、どうしても途切れ途切れになる。それはそうだ。だってかれこれ1時間以上もこうして飛び続けているのだから。
バサッ、バサッ、バサッ。
前へ、前へ。
1秒でも長く、1メートルでも遠くへ。
『今、17キロを超えたー!』
「ハァッ! ハァッ! ハァッ! ハァッ!」
肺が苦しい。吐く息に微かに鉄の味がした。二の腕から先の感覚が無くなっていることに今さら気付く。ほぼ惰性で羽ばたいているような感じだ。
右を見ると、竹生島が近づいてくる。初優勝したときと同じ状況。でも、あのときよりも体力は壊滅的に足りない。
『ノーツ! 18キロ超えたわよ!』
青葉さんからの声を聞いたのと同時に、
「うああああぁぁぁあっ!」
左腕に雷でも通ったかのような激痛が走った。
肩の付け根から二の腕、腕先に至るまで、すべての筋肉が裏返ったかのような痛み。
「アッ――あ、あぁっ、左腕がっ……!!」
攣った。顔が痛みで激しく歪む。
それでも、アタシの翼はピッチを刻んで羽ばたき続けている。
『ノーツ、上げてっ!!』
青葉さんの言葉に気付くと目の前に水面が迫っていた。右足の爪先が、少し水に触れる。
いつか感じた、琵琶湖に引きずり込まれる、あの感覚。
同時に、濁流に飲み込まれる家と車が脳裏に浮かんで、弾ける。
「アアァァァァァァァアアァァァァァ――ッ!!」
絶叫が、琵琶湖の水面を揺らす。
――これ以上、飲み込まれてたまるか!
痛む左腕を、まるで自分のものではないかのように振り回し、琵琶湖から脱出する。
骨が砕けてもいい。筋肉が爆発してもいい。ここで墜ちることだけは、アタシの魂が絶対に許さなかった。
郷里の、あの泥まみれになった岩沼の街。
神社の瓦礫の前で、静かに祈っていたバァちゃんの姿。
アタシにつきっきりで、泥を掻き出し、アタシの背中を支え続けてくれた青葉さん。
アタシの飛ぶところが見たいと笑った沢城さんと笹木さん。
戻ったアタシを温かく迎えてくれた仲間とライバルたち。
その全てが、今アタシを動かす燃料だった。
「アァァ……アァァァァうごけぇぇぇ!!!」
もう感覚の無い翼を無理矢理羽ばたかせる。
「アタシは……っ! ウイングノーツだろっ!!」
自らを呪うように、奮い立たせるように、アタシは狂ったように叫んだ。
何度も何度も、足の先が水面に触れる。そのたびに水しぶきが上がり、体力を吸い取られる。
着水して止まりそうになるのを、アタシはただ執念だけで堪え、翼を動かし続けた。
アタシは、何度でも何度でも、あの泥の中から這い上がって進むしかない鳥だ。
「……ッ!」
限界は、唐突に訪れた。
右の腕も攣ったのだ。
激痛で脂汗が垂れる。羽ばたいてはいるものの、もう力は入らない。
少しずつ、少しずつ下がっていく身体。それでも、限界まで足掻いてやる。せめて、折り返し地点まで。
「青葉さん、……いま……何、キロ……?」
無線で距離を問いかけようとした――その瞬間。
バシャァァァァァァンッッッ!!!
視界が、水と泡で埋まった。
そして琵琶湖が、全力を出しきったアタシの身体を優しく冷たく包み込んでいったのだった。
◆
「ノーツ!! ノーツ!!」
朦朧とした意識の中で、青葉さんの声が聞こえる。口に当たっているのは酸素マスクだろうか。両腕を動かそうにも力が入らない。でも折れてはいなさそうなので少しホッとする。
だんだん思考がはっきりしてきたので、アタシはゆっくりと目を開けた。
見上げた空は、さっきまでの曇天が嘘のように晴れ渡り、眩しい太陽がアタシの顔を照らしていた。
「……アタシ……」
「ノーツ!」
太陽を遮って、青葉さんが顔を覗かせた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃな姿を隠そうともしていない。
「こんなボロボロになるまで飛んで……。よくやったわ。ありがとう」
「青葉さん……」
抱き起こしてもらって、結果発表を待つ。
『素晴らしい記録が出ています。只今の、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんの記録は――1万8687メートル12でした』
『これは素晴らしい記録! そして参考記録にはなりますが、通算の飛行距離は35キロを超えていました!』
「……っ」
それでも、アタシはまだ力の入りきらない拳でボートの床を叩いていた。
通算距離なんか慰めにならない。むしろ、悔しさが増すだけだった。
もっと上手く飛べたはずなのに。大旋回なんかせずに飛んでいれば、岩沼や東北のみんなを元気づけられる記録が出せたはずなのに。
「クソォォォ!! ……まだ……まだ飛びたかった……っ!!」
悔し涙が、まだ濡れてるユニフォームを伝って流れる。
「アナタは十分飛んだ! 気持ちのこもったフライトだった! よくやったのよ!」
青葉さんが泣きながらアタシの肩を揺らす。
「それでも……っ!」
そんな簡単に自分を許せなかったのだ。
ボートは、あたしと青葉さんを乗せて真っ直ぐにプラットフォームに帰っていった。
◆
『――、マエストロさんの記録は、8182メートル80でした』
暫定1位として実況席の前で待機するアタシの耳に、最終滑走のマエストロの結果が流れてきた。
『この瞬間、トリ娘コンテスト・ディスタンス部門の優勝は――ウイングノーツ選手に決定いたしましたーーッ!!』
地鳴りのような大歓声が、琵琶湖の全域から湧き上がる。
「やった……やったよ! ノーツ!」
クラウドパルが駆け寄ってきた。
それでも、アタシはまだ完全に喜ぶ気にはなれない。
「ノーツ」
すると、青葉さんが涙を拭いながら自分の携帯電話をアタシに差し出してきた。画面は通話状態になっている。
「――もしもし?」
青葉さんから携帯を受け取って電話に出た。
『ノーツ、ノーツゥ……』
「バァちゃん……」
バァちゃんの声。バァちゃんが、泣きながらアタシの名前を繰り返し呼んでいる。多分、それ以上言葉にならないんだろう。
それでも、その裏に言いたいことが全部詰まっている気がして、アタシも泣けてきた。
『おめが今泣いでるのは、本気でやっだがらだ』
初めて琵琶湖で飛んだ後のバァちゃんとの会話を思い出す。うん。アタシは本気で、全力で飛びきったよ。
『――あー、もしもし? ノーツ、きこえるけ? 俺だ、沢城だ』
「沢城のおじさん!?」
急にバァちゃんの声が聞こえなくなったと思ったら、おじさんの声になって少し驚く。
「バァちゃんは!?」
『だめだぁ、マサさん泣き崩れちゃって。でも、オメェは本当によくやってくれた』
「ありがとう」
『バカ、ありがとうはこっちのセリフだ。ぐるぐる回ったって、ちょっとくらい後ろに進んだって、諦めずに頑張ろう、前に進もうって、オメェの飛びざまが教えてくれた。
ありがとう。勇気をくれて本当にありがとう。コレで俺たちも頑張れる』
最後は言葉になってなかった。あー今度は沢城さんが、なんて声が電話の向こうから聞こえてくる。
アタシの目にも涙があふれていた。
青葉さんも頷いている。
届いたんだ。アタシが、岩沼の、いや宮城の、東北のみんなに届けたかったこと。
そして、ようやく笑顔で拳を挙げることができたんだ。
今までみんなの応援を受けてたアタシが、恩返しできたって。
アタシが飛ぶことで、みんなの力になれたんだって。




