第27羽 カントリー・ロード
「はい、ノーツ! あったげえうちに食って!」
「うわぁ! バァちゃんの煮物! 最高!」
「焼き魚もあっからね、青葉さん。遠慮無ぐ食って」
「あ、はい。ありがとうございます。頂いてます」
大会後の疲労と不調の回復のため、青葉さんの勧めでアタシたちは地元の宮城県岩沼市へと帰郷していた。
実家のちゃぶ台を囲んで、青葉さんも一緒にバァちゃんの手料理を頬張っている。
テレビからはバラエティ番組の呑気な音が流れ、近所のおじさんやおばさんが「ノーツ、2位でも十分すごいぞ!」「また美味いもん食わせっからな!」と次々に野菜や果物を差し入れにやってくる。
「青葉さん、本当に今回もここで合宿で良かったんですか? 近くの角田飛行場以外は特にトレーニング設備も何もないのに……」
「いいのよ」
お茶をすすりながら、青葉さんが優しく微笑む。
「今のアナタに必要なのは、ハードなトレーニングじゃないの。今まで詰め込むように色々な技術習得や特訓をしてきたから、ここで一旦立ち止まって体幹含めた全体のバランスを見直すのよ。この前の大会での飛行の不安定さ。あれは、筋肉バランスなどで重心が崩れていた可能性が高いわ」
なるほど。
確かに技術習得を急ぐあまり、鍛える場所が偏ってた可能性は高い。なんとなく翼の生えた腕を曲げて確認する。
「ついでに精神面ね。ライバルとの切磋琢磨が続いているけど、『なぜ飛ぶのか』という自分の原点を改めて思い出してもらうのも今後の成長に必要だから」
原点。
アタシを育ててくれた、温かい人たちと、大好きなこの街。
食後、アタシと青葉さんは車で阿武隈川の河口――鳥の海公園へとドライブに出かけた。
冷たい潮風が、羽毛の生えたアタシの腕を心地よく撫でていく。
キラキラと日光を反射する穏やかな海。上空では、ウミネコたちが気持ちよさそうに風に乗って優雅に舞っていた。
(アタシは……この風が好きだ。この街の、みんなの笑顔を見たくて、アタシは飛んでいるんだ)
上手く飛べなかったことによる焦りは、いつの間にか消え去っていた。
翼を軽く広げて、潮風を抱きしめる。
次はもっと上手く飛べる。この温かい故郷に、また胸を張って『ただいま』と言えるように。
何もかもが穏やかで、愛おしい日常。
しばらくの間、アタシは水平線をずっと眺めていた。
◆
海沿いの工業団地の北側にある住宅街。その路地を入ったところに航空神社がある。
古くから空の安全を祈願するために建てられたこの神社は、地元の空港関係者や飛行機乗りたちの心の拠り所。そして――アタシの実家でもある。
日が傾きかけた頃に、その鳥居をくぐって家に帰った。
「ただいまー、バァちゃん」
「おや、おめかい。もう少しゆっくりしてくるどばかり思ってだ」
バァちゃんは袴姿で境内の落ち葉を掃いているところだった。宮司とはいっても小さな神社なので、普段は一人でなんでもやっている。
「今日の夕飯さ商店街行くんだっけ?」
「んだ。商店街のみんなも、おめだづが帰ってくるの手ぐすね引いで待ってだんだがらね」
沿岸の商店街は小さな街だけど、みんなアタシをまるで自分の娘か孫みたいに可愛がってくれている。その商店街の憩いの場の一つが、老舗の定食屋『笹九』だ。
「おう、ノーツ! 待ってたぞ!」
店に入ると、店主である笹木のおじさんが豪快な笑顔で迎えてくれた。ラーメン屋の沢城のおじさんや、他の何人かも既に集まっている。
テーブルの上にドカンと並べられたのは、アタシが幼い頃から好きだった笹九特製『特大唐揚げとかぼちゃの天ぷら定食』。
「うわあぁぁぁ……! これこれ、これだよ!」
大ぶりの鶏肉を秘伝のタレに漬け込んで丸めてジューシーに揚げた山盛りの唐揚げ。そして、地元産の甘いかぼちゃのサクサク天ぷら。
口いっぱいに唐揚げを頬張ると、肉汁と一緒に幸せが一気に広がっていく。
「んむ! 美味しい……っ! やっぱり笹九の唐揚げが一番だよ!」
「あはは、ノーツは本当に美味しそうに食べるわね」
青葉さんも目を細めて、もう一つの名物である鶏天ぷらを美味しそうに口へ運んでいる。
「そういや青葉さん、次の大会はいつなんだい?」
沢城のおじさんが汗を拭きながら、店内の古いテレビを指差した。
「ノーツが琵琶湖で36キロ飛んだ時もさ、商店街みんなでここに集まって大騒ぎしたんだ。次はいつ応援すればいい?」
「次は再来月です、沢城さん」
青葉さんが背筋を伸ばし、力強い声で応えた。
「次こそはマエストロやナスカを超えて、ウイングノーツがまた完全優勝を果たしますよ。またこの店で見ていてください」
「おう、当たり前だ! 大ジョッキ用意して待ってるからな!」
おじさんの豪快な笑い声が、温かい湯気の中に響き渡る。
バァちゃんがいて、笹木さんや沢城さんがいて、商店街のみんながいる。
この温かい街と、どこまでも青く広がる岩沼の空。これこそがアタシの原点であり、この人たちの笑顔が見たくて飛ぶ。これが、「なぜ飛ぶのか」という問いに対するアタシの唯一無二の答えなんだって、改めて実感したのだった。
◆
美しい海岸線には穏やかな白波が打ち寄せ、遠くでは仙台空港を離陸した旅客機が、青い空へと向かって静かに高度を上げていく。
角田飛行場や海岸線を使った自主トレーニングは順調だった。
岩沼のタフな海風の中で羽ばたき続けることで、風のわずかな変化を肌で捉える感覚が戻ってきていた。
「よし、今日のデータは完璧ね。これで今回の合宿メニューはすべて終了よ。明日、富士川へ戻りましょう」
「やったぁ! じゃあ最後に沢城さんのところのスタミナラーメン食べてから帰ろう! あ、でも笹九の鶏天も捨てがたい」
どちらを食べてから帰ろうか、いやむしろ両方などと悩んでいるうちに、神社に帰ってきていた。
社務所の前に着いたところで、ふと海の方を振り返る。
なぜだろう。首筋の産毛が、琵琶湖のどんな風を察知した時よりも、見たことのない激しさでゾクゾクと逆立つのを感じた。
神社の周りの木々から鳥が一斉に飛び立つ。
「……風が、止まった?」
そう、呟いた瞬間だった。
直後、大地の底から、かつて聴いたこともないようなおぞましい地鳴りが響き渡る。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッッッ!!
「きゃあぁぁぁーーーっ!?」
立っていられない。地面が激流のように上下左右に激しくのたうち回り、境内の石灯籠が音を立てて倒れて目の前で真っ二つに叩き割れた。
「ノーツ! 低い姿勢をとって!!」
青葉さんが叫びながら、アタシの身体を強く抱きすくめる。
ガシャァァァン!! と、商店街の方からも建物のガラスが割れる凄まじい音が響いてくる。
「バァちゃん! バァちゃんっ!」
社務所の中に向かって叫ぶけど、返事はない。まだ揺れているので立って見に行くこともできない。
揺れは数分間にもわたって世界を破壊し尽くすかのように続き、そして、不気味な静寂と共に一度収まった。
「はっ、ハァ、ハァ……、な、何だったの……この地震……」
アタシは土埃に塗れた顔を上げ、恐怖に震える声で呟く。
その視線の先。
さっきまで穏やかだった岩沼の美しい海岸線、その太平洋の水平線が、黒く、そして高く盛り上がり始めているのを、アタシはまだ知らなかった。




