第24羽 約束の場所へ
(……あ!)
強い風の吹いてくる左の方を向いた瞬間、直感がゾクッと背筋を駆け抜けた。
『ノーツ! 流されないように……』
「青葉さんっ!」
青葉さんの言葉を遮って、自分の直感を整理する。
「左にっ! 旋回しますっ!」
『何ですって?!』
この横風に向かうように曲がれば、それは向かい風になり揚力を生む手助けになる。うまく乗れれば体力を最小限に抑えたまま、自然な力で旋回できる。
この風は――アタシの邪魔をする横槍じゃない。風が、アタシに「帰ってこい」と言っている!
『……左旋回ね、了解』
「よし! 折り返すよッ!」
アタシは左の翼を少し傾けた。
そして、左から押し寄せる側風の波頭に、右翼を乗せるように向きを変える。
風に逆らうんじゃない。風に乗るように、そのエネルギーを旋回する力へと変換する。
左に見えていた沖島が、少しずつ視界の右に動いていく。
『流されているわ! このままでは左翼が失速してスパイラルする!』
「大丈夫!」
そう、大丈夫。左の翼は向かい風になった風を掴んでいる。この手応えがある限り、失速はしない。むしろ、その風を手で握って回るように、一気に身体の向きを変えた。
『き、綺麗に回ったぁぁぁーーっ!! ウイングノーツ、見事な判断と風読みで18キロ地点での旋回を完了!! 復路、プラットフォームへの帰還コースへと突入しました!』
実況の狂喜乱舞する絶叫が、琵琶湖の空に響き渡る。
アタシは、汗で濡れた顔でニッと笑ってみせた。
(待っててよ、みんな……! 今度こそ、絶対に帰ってみせる!!)
――バサッ! バサッ!
力強い羽ばたきの音とともに、アタシは自らが描いた帰還の航路を、まっすぐに突き進んでいった。
『今20キロを通過! 』
はぁっ、はぁっ、はぁっ。
自分で息が荒くなっているのが分かる。
汗が容赦なく目に入ってチクチクと刺している。それを瞬きだけで追い払いながら、ただひたすら翼を羽ばたかせ続けていた。
「――ッッ!」
突然左翼に電気が走った。攣ったんだ。右翼を無意識にかばっていたせいかもしれない。
でも、ここで休むわけにはいかない。
『ノーツ、ピッチが落ちてるわ! 追い風になってるからスピードは出てるけど、少し身体の向きを変えていなすように進んで!』
きらきらと光る湖面に目を凝らして、さざ波が描く模様を目印に斜めに飛ぶように体勢を変える。
少しだけ楽になった気がした。
ふと目を上げると、近くを鳥が飛んでいるのが目に入った。
ほぼアタシと同じ飛び方で同じ方向に飛んでいる。ここはこの飛び方で間違いなさそうだ。鳥先生に心の中でお礼を言って、チューブから水分を補給した。
『さあ、ウイングノーツ! 今25キロを超えた! プラットフォームまであと11キロ!』
――バサッ! バサッ! バサッ!
そのうち、攣った両腕の痛みが引いてきた。麻痺しているのか、治ったのかはもはや分からない。もう、風を読むような集中力も切れ始めてきた。
『ノーツ! 自己ベストを超えたわ! 29キロよ!』
インカムから響く青葉さんの声が、酷く遠く聞こえる。
水平線の彼方。モザイクがかかったような景色の向こうに、ホテルレイクビューと、その右手に米粒のように小さく光る鉄骨の構造物が見えた。
「プラット……フォーム……」
帰ってきた。あそこが、アタシたちの出発点。あそこに、アタシを待つみんながいる。
何か、安心感のような、ホッとした気分に一瞬包まれる。あとちょっとだ。
――でも、その瞬間。突然、斜め横から滑り込んできた風がアタシの身体を下に押しつけた。
目の前に迫るのは湖面。
アタシの頭の中に、走馬灯のようにあの日の光景が鮮烈に蘇った。
2万8628メートル。初めて優勝を掴んで喜んだ瞬間に見た、あのプラットフォームの影。
『もっと、飛べたはずなんだ……っ! あの時、アタシがもっと風を上手くいなしていれば……っ!』
――アタシは、同じ過ちを二度も繰り返すつもりか。いや、繰り返さない!
「まだ、終わって、ない……っ!」
自分の奥歯を強く噛み締めて。力の限り尾翼を捻って羽ばたく。
「う、おおおおおぉぉぉぉーーッ!!」
なんとか水面ギリギリのところで推進力を取り戻して水平飛行に移る。でも、もう湖面までの距離感が掴めない。
『高度! もう少し保って!』
青葉さんの悲鳴じみた指示を頼りに尾翼を捻って少し羽ばたきを強くする。
耳の奥で、ドクドクと心音が爆音で鳴り響いていた。酸素が足りない。肺が、ひび割れた砂漠のように乾いて悲鳴を上げている。
なんとか一息つこうと口を動かしてチューブを加える。それでも、水は出てこなかった。もう飲み尽くしちゃったんだ。
「みんなが! 待ってるんだ! あと少しもってよ!」
体も、水も。
何度かチューブを思いっきり吸う。口に転がり込んできた数滴の貴重な水を体に取り込んで前を向いた。
「あとは根性っ!」
小さかったプラットフォームが少しずつ少しずつ大きくなっていく。それだけを道しるべに無心で翼を羽ばたかせた。
『ノーツ!!』
『ウイングノーツ! あげろあげろ~!! 』
青葉さんの声と、同乗してる萩原レポーターの声を頼りに高度を保つ。
そのうちに、今度は右の翼が攣った。
まるでアタシの意思とは関係ないかのように翼が羽ばたいている。いつの間にか、そんなふうに客観的に自分を見ている自分に気付いた。
『ノーツ! ナスカの大会記録を超えたわ! 大会新記録よ!!』
もう、
青葉さんが何を言っているのか、
聞こえない。
◆
『ウイングノーツ選手、33キロメートルを通過! ついにこちらからも肉眼で彼女を捉えられる位置まで戻ってきました!!』
観客席で応援していた人たちが、誰一人として席に座っていない。全員が身を乗り出して、はるか湖面の彼方を見つめていた。
「おい、あれ……見ろよ! なんか見えないか!?」
「どこだよ、何も見えねえよ!」
「いや、あの水平線のところ、なんかゆらゆらした影が動いてる! あれがウイングノーツノーツじゃないか!?」
「バカ言え、あれはただの波の照り返しだろ! ……あ、待って! その少し上!」
一人の観客が指差した先。
きらめく夏の太陽の光を浴びて、陽炎の向こうから、1本の短い白い線が、水面スレスレを滑るように近づいてくるのが見えた。
「ほんとうだ……! 本当に戻ってきた……!」
「嘘でしょ!!」
ざわざわとした地鳴りのようなざわめきが、観客席全体に伝わって爆発的な歓声へと変わる。
総立ちになって手拍子が始まるのを、一番上からナスカはじっと眺めていた。
「ウイングノーツノーツ! いけぇぇぇぇーーーっ!!」
「戻ってこい、ウイングノーツ!!」
『さあ、見えてきた、見えてきた! ウイングノーツが、彦根プラットフォームの目の前まで帰ってきた! 36キロ地点を越え、ホーンが鳴ればゴールです!』
実況のアナウンスが、興奮のあまり裏返る。
その声を聴きながら、ナスカは、ぽつりと信じられないといった様子で呟いた。
「……トリ娘コンテストに、ゴールなんて概念は無かったはずですのに……」
そうだ。
この大会は、どれだけ遠くへ飛んで墜ちるかを競う、文字通り片道飛行の祭典だったはずなのだ。
それなのに、あの怪物は今、歴史と共にその概念すらも塗り替えようとしている。
「ならば私は……」
このフライトをどう超えるか。
そんな考えを頭に巡らせようとした直後、ナスカは唇を強く噛み締めた。そもそも、自分は今大会出場できないことに思い至ったのだ。
この瞬間を見ることしか出来ない、抗うことさえ出来ない自分がもどかしくて、ナスカは翼をもう片方の手で握りしめる。
白い線だったモノは、いつしかウイングノーツの形になって目の前に迫ってこようとしていた。
◆
はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ。
少しずつ大きくなっていくプラットフォームを見ながら、ただひたすら、感覚の無くなった両翼を動かす。
『………! ………!』
遠く聞こえる青葉さんの声よりも、自分の苦しい息遣いが大きく鼓膜に響いている。
やがて、プラットフォームの上に赤い何かが見えるようになった。アタシのユニフォームと同じ、クラウドパルと春風さんが着てくれた赤いTシャツ。
その赤が、アタシに残った最後の力に火をつけた。
「アアアァァァァァーーーッッッ!!!」
言葉にならない雄叫びをあげて、全ての気力を振り絞る。
あとちょっと。
もうちょっと。
だんだん、赤いものが人影に見えてきて、それがアタシをさらに奮い立たせる。
ひたすら、両腕を動かして空を駆る。
ファーーーーン!
突然、今日2度目のホーンが響いた。
『ゴールよ! ノーツ!』
今度の青葉さんの声だけははっきり聞こえた。
……良かった。ゴールしたんだ。
羽ばたきをやめて、翼を水平にして滑空体勢に入る。
そのまま、目の前の水面に飛び込んだ。
………………
………
だんだんと身体に染みこんでくる水の感触に包まれながら、水面に顔を出す。
救助に引き上げられると、目を真っ赤にした青葉さんに迎えられた。
「ノーツ……よくやってくれたわ、最高よ……っ! ありがとう!」
「ハハハ……なんか嬉しいよりも先に、ホッとしてます。最後まで飛べたって。……あと、身体動かないです。もう無理」
青葉さんの介助に甘えてボートの上に座らせてもらう。ボートは、プラットフォームのすぐ下に近づきつつあった。
『見事な帰還! ウイングノーツ! 琵琶湖往復達成で3万6000メートルの大会新記録です!』
割れんばかりの拍手が聞こえる。
総立ちの観客席の一番上では白い日傘が揺れている。
プラットフォームの上には、スカイスポーツ学園の他の生徒も上がって応援していたらしい。その先頭で、引きちぎれるばかりに大きく手を振っているのはパルちゃんだった。
その後ろにはマエストロの姿も見える。
「ノーツぅ~! おかえり~!」
おかえり。
その言葉が、みんなのところに還ってきたんだという実感を、涙と一緒に湧き出させた。
そしてついに。ナスカ先輩とマエストロの記録を超えた新記録を達成したんだ。その喜びも、遅れて溢れ出してくる。
「やったよ~! アタシ、還ってきたよ~!」
今出せる精一杯の声で、アタシを迎えてくれたみんなに喜びを伝える。
みんなが待っていたプラットフォーム。そこは、幾重にも組み上げたパイプが日の光と湖面の照り返しを受けて、キラキラ輝いているように見えた。
おかえりの拍手が、鳴り止まない。




