第23羽 Will
はぁ……はぁ……はぁ……
灼熱の部屋の中で、アタシの息遣いと、汗の落ちる音だけが響く。
アタシのトレーニングの定番となった高温加圧室。でも、今回は目的が違った。前回大会で負傷した腕の骨と腱の回復をまずはしないといけない。
手術で折れた骨を繋げた後、ギブス代わりに圧縮テープを何重にも巻いた上から熱と圧をかける。
マエストロも前回大会で実践した、トリ娘の身体だからこそできる独特の治療法。これで十分飛べるレベルまで復活できることは、マエストロが自ら優勝という形で証明してみせた。
ポトン、ポトンと汗が滴り落ちる。
この方法で最速で回復した後は、今まで以上に回数を増やした連日の試験飛行が待っている。繋げた翼をなじませることと、様々な風に対応する経験を積むことの一石二鳥。これが、青葉さんと話した今回の復帰プランだった。
前回大会は最終的に、マエストロが優勝、アタシが2位で、その後にシャイニングスタァ先輩、ナスカ先輩、バートライアと続く結果となった。この上位5人は間違いなく次の大会に出場となる。全員、アタシがよく知る人たち。だからこそ、早く万全の体制で挑みたかった。
――そんなある日のこと。
「「ナスカ先輩が出場辞退っ?!」」
バートライアから聞いた言葉に、アタシとマエストロは口にハンバーグが入っているのも忘れて叫んでしまっていた。
「どういうことなのよ! 前回確かに実力は発揮できてなかったけど、あの先輩どこも怪我してなかったでしょ!」
アタシもマエストロの怒号に頷く。確かに先輩が辞退する理由は思いつかなかった。
「そうなんだけど……」
他人からちょっと聞いただけなのに、と肩をすくめるバートライア。マエストロに詰められてて、ちょっと気の毒になってきた。
「……行くわ」
「は? どこに?」
おもむろに立ち上がったマエストロに問いかける。
「先輩のところよ。昼過ぎは日比トレーナー室でしょ」
◆
「――それで。こんなに大勢で押し掛けてきたというわけですか」
ランチ後の紅茶を優雅に嗜みながら、ナスカ先輩がトレーナー室に来たアタシたちを一瞥した。
「べっ、別に何か怪我されたのか心配したとかそういうわけではなくて」
いつものメンツだけならツンデレ炸裂とか言われそうなセリフで、たじたじになるマエストロ。さすがにクラウドパルもその辺はわきまえてるのでツッコミはしない。
「分かっておりますわ。貴女方とディスタンス部門で競えないのは私も悔しいですわ」
ティーカップをソーサーに置いて溜息をつく先輩。
「端的に言いますと、大会側から部門変更を打診されたのですわ。ディスタンス部門ではなくタイムトライアル部門に出場することが大会への出場条件だと」
「「「え?!」」」
タイムトライアル部門は前々回――アタシが優勝した回から導入された新しい部門で、プラットフォームから1キロ離れたパイロン(三角コーン)を回って帰ってくるまでのタイムを競う競技だ。
気合とスピードが信条のフーシェ先輩がまず参加に名乗りを上げ、ソラノセプシー先輩も大会に招聘されて模範演技的に優勝をしてみせた。
しかし。
「テコ入れ、ですか」
合計2キロを完走できるだけのトリ娘がほとんどいないので、期待したほど盛り上がっていないという話は聞いていた。
「先方の意図も分かりますわ。しかし、私はディスタンス部門で長い距離を飛ぶためにこれまで調整してきました。それをこの直前で、使う技術も筋肉も違う競技をせよといきなり言われてもできませんわ」
先輩の言っていることは身にしみて分かる。自分がコンバートしたときよりもさらに準備期間が短いんだ。
「そもそも。私が目指しているのは常に誰よりも遠くまで飛ぶこと。この1回を飛ぶためだけに私のポリシーを曲げることは私自身が許せませんの」
先輩のことだから、出れば今のままでもゴールはできるだろう。でもそれはその競技にしてはゆっくりとしたスピードでだ。そんな姿を見せるのは絶対にプライドが許さないはずだった。
「と、いうわけですので、私自身のことについては問題ありませんわ。むしろ、私がいない大会が盛り上がるよう、貴女方は貴女方のフライトに集中なさってください」
こうまで言われては、言われたとおり引き下がって頑張るしかない。押し掛けた事を詫びて帰ろうと振り返ったとき、後ろから冷たいプレッシャーを感じた。
「今大会。私は観客席の一番上から貴女方のフライトをじっくりと見させていただきますわ。お忘れなきよう」
無様なフライトをみせたら許さない、ということだ。これはいよいよ準備に気を抜けなくなってきた、とその場の誰もが思った。
◆
――そして、決戦の朝。
午前6時。彦根のプラットフォームは静寂の中に包まれていた。
薄暗いうちから準備を始めていたアタシは、既にプラットフォームの上にスタンバイしている。今大会のトップバッターはアタシなのだ。
「コンディションは最高よ、ノーツ」
伴走ボートに乗る前の青葉さんから、大会スタッフが繋げてくれた中継で連絡が入る。
「風速1.5メートル。弱い追い風。湖面の波もベタ凪に近い。前回までの悪魔のような暴風が嘘みたいね。飛ぶなら今よ」
「はいっ!」
アタシは右腕を軽く回した。
負傷はすっかり治っている。
高温加圧療法で無理やり繋ぎ合わせた右肩が、鋼のように硬く張っているのが分かった。完璧な状態とは言えない。だけど、飛ぶには十分。
「行きます、青葉さん」
「ゲート――オープン!!」
審判員の合図とともに、アタシは翼を大きく広げた。
「3、2、1――ゴーッ!!」
ザッ!!
朝日を受けてキラキラと輝く琵琶湖に向けて、一気に飛び出す。
――バサッ、バサッ、バサッ……!
(軽い……!)
優しい追い風を受けて、翼がスイスイと空気を切っていた。羽ばたくたびに、心地よい風の抵抗が腕に伝わる。
『ウイングノーツ、素晴らしいテイクオフ! 1キロをあっという間に通過!』
『風の流れを考えて南に進路をとるわ。多景島に向かって!』
「多景島のどっちですか?」
『右!』
「了解! ――余裕ですわ!」
右肩の違和感も、今のところ問題ない。琵琶湖大橋まで飛んだときのナスカ先輩のマネをしたくなるくらい、余裕もある。
『さあ、5キロを超えて安定飛行に入ってきた! 戻ってこれるか!』
実況の声が響く。
8キロ、――そして10キロ。
規則正しい羽ばたきの音と、自分の息遣いだけが、世界を満たしていた。
――ハッ、ハッ、ハッ……。
――バサッ、バサッ……。
絶好のフライト。だけど、アタシの五感は警戒を解いていなかった。
静かすぎる。琵琶湖の女神が、こんなにも優しくアタシたちを迎えてくれるはずがない。
風の変化のわずかな兆候も逃さないように神経を常に研ぎ澄ませる。
15キロメートル地点。
――ハァッ、ハァッ、ハァッ……!
汗が目に入り、視界が滲む。追い風とはいえ、15キロを絶え間なく羽ばたき続ける肉体には、確実に疲労が蓄積していた。
特に、高温加圧で強引に繋いだ右肩が、じわじわと嫌な熱を持ち始めている。
『ノーツ、もうすぐ折り返し地点よ』
青葉さんの声が、今までになく重くインカムに響いた。
『そこで旋回してプラットフォームを目指して戻るか……それとも、このまま旋回せずに真っ直ぐ南下して距離を稼ぐか。膨大な体力を消費するから、余裕が無いなら旋回は無謀よ。安全に距離を伸ばすためにそのまま琵琶湖大橋を狙う手もあるわ』
旋回か……ナスカ先輩の記録か……
「……正直、迷ってます」
『ギリギリまで迷っていいわ。判断はアナタに任せる!』
旋回してプラットフォームに帰還すれば、完全往復36キロという前人未到の快挙。
だけど、旋回にこの右肩が耐えられるか? もし旋回中に失速したり痛んだりすれば前回と同じように墜落する。
安全をとって旋回せずに距離を稼ぎ、優勝とナスカ先輩の34.6キロの大会記録を抜くことだけを目指すべきなのか――?
――ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……!
呼吸が荒くなる。
暑い。
長距離飛行に備えて背中に背負ったボトルからチューブで水を飲む。
目の前に迫る、旋回可能エリア。
葛藤が、アタシの脳裏をぐるぐると駆け巡る。
(アタシは……アタシは何のために、あの激痛に耐えたんだ……!?)
逃げるためじゃない。単純に距離を伸ばすためでもない。
あのプラットフォームに自分の翼で戻る目標を達成したいから、無茶をしてでもここまで来たんじゃないのか?
その時だった。
急に、左の頬を撫でる風の強さが変わった。
「青葉さん! 風向きが変わる!」
左――陸側から強い側風が吹き込んできたのだ。湖面の漣が、ザザザッと右へと模様を描き出していく。
『ノーツ! 風が強い! 風上に頭向けていなせる!?』
「りょ」
ファーン!
了解! と応えようとした瞬間にホーンが鳴った。
『折り返しのホーンが鳴ったぞ!旋回可能だ!』
旋回か。直進か。
左からの風に翻弄されているこのときに、決断しなければいけない時が来てしまったんだ。
◆
『ファーン!』
ホーンは、観客席の中継モニターにも流れた。
「――お嬢様ならば、どうされますか?」
観客席の最上段。日傘を捧げながら日比トレーナーが傍らのナスカに問いかけた。
「真っ直ぐ、ですわ。無駄に風に逆らっては落ちるのが早まります。おそらくマエストロも同じ判断をするでしょう」
モニターから一瞬たりとも目を離さずに、女王が答える。
モニターには、横風に翻弄され始めているようにみえるウイングノーツが映っていた。実況席が、観客たちが、彼女の決断を固唾を吞んで見守っている。
『まっすぐ行くのか? プラットフォームを目指すのか? さあ、どうする! どうするウイングノーツ!!』




