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第21羽 嵐の中で輝いて

 その日の琵琶湖の女神は、アタシたちトリ娘に大きな牙をむいた。


 1番手のマエストロが、強風に流されて右に右にと進まされていく。


『マエストロ! 岸に近づきすぎてるから左に!』

「やってるわよ!」


 行雲《いくも》トレーナーとマエストロの切迫したやりとりが無線越しに聞こえてくる。


 ――彼女の目の前には岸壁が迫っていた。


『高度下げて! 水に落ちないと危ない!』

「ダメ!風が邪魔して!……キャアアァァーッ!」


 バキバキバキッと音がして、マエストロが岸壁の上の地面に突っ込んだのが見えた。


 観客を含めた何十人もが、落下地点に向けて湖岸を駆け出していくのが見える。アタシも駆け出しそうになるのをグッとこらえた。自分が行ったところでどうなるわけでもない。それよりも、彼女の二の舞にならないように、この風に勝つことが大事だった。


 他のみんなも同じ気持ちではあったんだろう。


 それでも、マエストロの後に飛んだ人たちは、みんな強風に煽られて沈んでいった。シャイニングスタァ先輩も、バートライアも、300メートル付近で見えない手に叩きつけられたかのように落ちてしまったのだ。


 久しぶりのフライトになったクラウドパルも、100メートルあたりで義翼が折れて着水。それでも、この逆境の中で過去最高記録を出せたことが嬉しかったのか、水上で手を振る余裕が見えたのが救いだった。


「マエストロ、さっき救急車で運ばれたわ。足を骨折して顔などに怪我したみたいけど、命に別条ないって」

 併走ボートに向かう青葉さんからの情報で、少し気が楽になる。


『現在プラットフォーム上は、富士川スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんです』


 あとは自分の番だ。


 プラットフォームに立つと、確かに少し先に風の変化点があるのが分かった。

 そこまでは追い風、そして波の境界の少し手前で左からの風に変わるようだ。改めて風読みのトレーニングが役に立っているのが分かる。

 あとは、それをどう乗りこなせるか。


「ゲート――オープン!!」

 白い旗が翻る。


「3、2、1――ゴーッ!!」

 アタシは叫んでプラットフォームを蹴り出した。


「ぐっ………?!」

 宙に浮いた瞬間、後ろからの風がアタシの高度を下げようと押しつぶしてきた。これがスタァ先輩たちがやられた風か。


 水面ギリギリまで押しやられるが、なんとか持ちこたえて水平飛行にうつる。


 ……あと少しの我慢。

 水面に着かないように気を付けながら進んで、風の境界を待つ。


(――ここだ!)


 左からの風に切り替わった瞬間に翼をのせ、一気に浮上する。


『ナイス、ノーツ! 風が強くて右に流されがちだから、体の向きをあわせていなしながら北西に進んで!』


「了解! 目標、竹生島《ちくぶじま》!」


 青葉さんからの指示で、飛び方がはっきりする。アタシは目の前の風を乗りこなすことに集中するだけだ。


『乙女の情報を出すのはちょっとはばかれますが、ウイングノーツ選手は今大会最軽量。それが強風をものともせずに突き進んでいきます! 今6キロ通過!』


 見える。


 先にある風の切れ目、次に来る風の向き。


 それでも、わかってはいても、横から吹いてくる強い風をいなしながら飛ぶのは神経と体力をかなり削られた。


「うぉっ?!」

 ブォッと突然強く襲ってくる左から風を、まともに受けないように斜めにいなしつつ、進行方向を維持する。


 だんだんと、おぼろげだった竹生島が右前方に大きく見えてきた。


『今、15キロを通過! もう竹生島は目の前だ!』

『15キロを通過したわ! 島の方向に吸い込む風に飲み込まれないで!』


 実況のアナウンスを受けて、青葉さんからの檄が飛ぶ。


「前の分析の時に竹生島の引っ張りとか言ってたヤツですね! 了解!」


 さっきからの左からの強い風はそれだったのか。

 前からの風と左からの風が代わる代わる襲ってくるのを懸命に凌ぎながら前に進む。


 ファーン!


 やがて、対岸に着水したときと同じ音のホーンが鳴った。18キロ地点、折り返しの合図だ。


 すでにここまで全力で羽ばたき続けているアタシの両腕は、乳酸で焼け付くように熱い。だけど折り返しができる新ルールでは、ここからが本当の勝負だ。


『ノーツ、気を引き締めて! 旋回中は高度を保ちつつ、スパイラルしないように少しずつ旋回するのよ!』


 青葉さんの警告がインカムに鋭く突き刺さる。


 トリ娘に限らず飛行機が曲がるときには、旋回の内側にある翼と外側にある翼で、受ける風の速度に差が生まれてしまう。そのときに内側の翼の速度が極端に落ちると、揚力を失って落ちてしまうのだ。このとき錐もみしながら落ちるのでスパイラルと呼ばれているらしい。


 風は相変わらず左から来ている。なら、左に向かって回れば、その風を向かい風にして揚力を稼ぎながら回れるはず。


「いきます! 青葉さん!」

 叫びながらも冷静に、身体を少しずつ左に傾ける。


 羽ばたきは少し強めに。


 下を見て湖面との距離も気にしながらゆっくりと回っていく。


 汗か冷や汗か分からない液体が流れる中、アタシの頭の方位磁石が南東を向いたことを知らせた。


『ま、回ったァァァーーーッ!! ウイングノーツ選手、初めての旋回成功! さぁあとはプラットフォームに戻ってくるだけだ!』


 伴走ボートの上で、青葉さんがガッツポーズをしているのが見える。


 アタシは、焼け付く肺を震わせながらフッ! と気を吐いた。


(必ず、プラットフォームまで戻ってみせる!)



 ◆



 折り返してからの復路は、凄まじい追い風となった。


 スピードはあがっているものの、前からの空気の流れが弱まるのでアタシは往路以上に懸命に羽ばたかないといけなかった。


『ウイングノーツ! 順調に20キロを超えてきました!』


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。


 そんな言うほど順調じゃない。半ば朦朧としてくる意識の中で、ゴクリとつばを飲む。


 その瞬間、ガガガガッ! と全身の骨が軋むような激しい衝撃が襲った。


 視界がガクリと傾き、波立つ湖面が眼前に迫る。高度が、3メートルから1メートルへと一気に落ちた。


「まだだ! 耐えろぉぉーっ!」


 アタシは千切れんばかりに翼を振り抜いた。

 尾翼も最大限に捻ってピッチを上げる。脇腹の筋肉が、引きちぎれそうなほどに悲鳴を上げた。


『よーし! よく残した!』

 青葉さんからの通信で、なんとか湖面スレスレの高度で水平を維持できたことを知る。


 だけど、安心したその直後だった。


「がっっ?!」

 ピキィッ、とアタシの左の腕にシビレが走る。


 極限の強風の中で風をいなし続けたアタシの腕の筋肉が、ついに限界を迎えたのだ。


『どうしたの、ノーツ!?』

「ひ、左翼が……攣《つ》ったかも」

『え?! 飛べるの?!』

「いける……ところまで」


 左翼の感覚が無くなってきているが、それでも翼は一定のピッチを刻んで羽ばたいていた。

 体に染みこんだ動き。

 こればかりは日頃のトレーニングに感謝するしかない。


 右後方。


 次は右真横から。


 強さと向きを変えながら襲いかかる風に、あるときは乗っかり、あるときはいなし、動かせる場所をフル稼働して立ち向かう。


 まだ。まだだ。アタシはもっと風を乗りこなしてみせるんだ。


『ノーツ! 25キロを超えたわ! 対岸記録を超えて自己ベスト更新よ!』

 青葉さんの声も少し遠く聞こえる。


 すでに体力の限界などとっくに超えていた。


 視界は白く霞み、翼を動かす背筋の感覚は麻痺して何も感じない。口の中には、鉄の味が広がっている。


 風はずっと追い風。徐々に高度が落ちているのは分かるが、もう上昇できるだけの力はどこにも残ってなかった。


「風……風が欲しい……」


 ほんの少しでいい。アタシが少し上がれるだけの揚力を作る、向かい風が欲しい。


 追い風は相変わらずアタシを湖面に叩きつけようと背後からおそってくる。


 でも、その追い風のおかげでアタシ自身の進むスピードは上がっているから、アタシがプラットフォームに着くのが早いか、落ちるのが早いかの勝負だ。


 みんなが、アタシが戻ってくるのを待ってる。


「風を……もう一度アタシが乗る風を!」


 叫んだ瞬間に、別の筋肉が悲鳴を上げた。


 ザザザザザザッー。


 次の瞬間、アタシの身体は琵琶湖の中へとゆっくり沈み込んでいったのだった。



 ◆



 ボートの中継モニターから、ウグイス嬢の震えるアナウンスが響き渡る。


『素晴らしい、大フライトの記録を発表します。富士川スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんの記録は』


 青葉さんにボート引き上げられて、もう1ミリも体を動かせないアタシは、静かにその発表を待つ。


『――2万8628メートル43! 暫定、1位です!!!』

『わぁぁぁぁーーーっっ!!!』


 無線越しに、観客席からの地鳴りのような大歓声が聞こえた。

 ここまで直接聞こえるはずも無いが、なんとなく彦根の方向に顔を向ける。


「……っ、う、ううう……っ!」


 目から涙が溢れた。でもこれは、嬉し涙なんかじゃない。


 ホテルレイクビュー彦根。


 初めてトリコンに参加したときに最初の目標だと言われていた、プラットフォームそばのランドマークの姿がこの位置から――アタシが着水した位置から見えたのだ。


「もっと……、もっと飛べたはずなんだ……っ! あとちょっとで、プラットフォームに着いたのに……!」


 ここまで来れた喜びよりも悔しさで泣きじゃくるアタシを、青葉さんが受け止めて、抱きしめてくれていた。



 ◆



『さあ最終滑走、女王《クイーン》ナスカが今ゆっくりと飛び出しました! とてつもない安定感! プラットフォームの高さそのままに飛んでいきます!』


 ナスカ先輩のフライトが始まったのは、アタシがボートでプラットフォームに戻った直後だった。暫定1位はまだアタシ。もう優勝はアタシと先輩のどちらかに絞られていた。


『はっ、はっ、はっ、はっ……』


 3キロを過ぎたあたり。体力を消耗した様子でナスカ先輩の呼吸は荒くなっていた。


『はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ』

『お嬢様! 高度が下がっていってます! 上げてくだされ!』


『追い風で! 翼が重いのよ! 何なんですのこれは!』


 既に何十キロも飛んできたかのような疲労を見せた先輩は、そのまま浮上できずに、湖面につまずいたような形で着水してしまった。


『只今の、スカイスポーツ学園、ナスカ選手の記録は――5451メートル12でした』


『この結果優勝は! ウイングノーツ選手! 琵琶湖の風を見事乗りこなして初優勝の栄冠を勝ち取りましたーっ!』


「青葉さん!」

「ノーツ!」

「やった~っ!」


 青葉さんとクラウドパルが両脇から抱きついてくる。


 アタシも笑顔で応えて両腕を挙げた。


 モニターの向こうでは、呆然とした表情のナスカ先輩が、ボートに引き上げられて座っている。


「『nauts(ノーツ)』は、古代ギリシア語から『船乗り』を意味する言葉だとか。さながら今日の彼女は『風(・)の船乗り』でしたな」

 アタシたちの歓喜の輪をモニターで見ながら、日比トレーナーがナスカ先輩の横で呟いた。


「風(・)? 」

 聞き咎めて先輩が傍らの執事を向く。


「アレは、『風(・)乗り』なんて生優しいものではなかったですわ」


 自身に襲いかかった風を思い出したのか、ナスカ先輩は身震いして言った。


「Gale(ゲイル)――あの娘は、まさに烈風《ゲイル》を乗りこなしたのです」

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