第17羽 Free Bird
ウイングノーツの成し遂げた対岸到達の瞬間は、伴走ボートのカメラを通じて会場の中継モニターへ、そしてナスカの目の前にある小型モニターへと映し出されていた。
「――なんて、娘かしら」
ナスカはモニターの前で、立ちすくんでいた。
無風という最高の条件を差し引いたとしても、ディスタンス部門挑戦わずか4回目で、自分はおろか、まだ雲の上の存在と思っていたソラノセプシーの伝説的な大記録まで塗り替えてしまうなんて。
これを超えることなど、一体誰ができるというのだろう。ましてや、今の自分にそんな偉業を期待する者など――。
「あはっ」
張り詰めた沈黙の中、ナスカの唇から場違いな笑い声が漏れた。
「あはっ、あははっ……アハハハハハハ!」
「――お、お嬢様!?」
いつもなら端ないと厳しく嗜めてくるはずの日比が、あまりの異常事態に狼狽して止めにすら来られない。
「アハハハハハハ!」
声を上げて笑うたび、胸の奥にどす黒く澱んでいた女王の義務が、身体を縛り付けていた重圧の鎖が、音を立てて弾け飛んでいくのをナスカは感じていた。
すべてを背負う必要なんて、最初からなかったのだ。対岸すら、もう超えられた。ならば――。
「ハハハ、……はぁ。……ゴホン。失礼いたしましたわ」
ひとしきり笑い声を響かせたあと、ナスカはいつもの『女王』としての凛とした佇まいに戻った。目を閉じてすっと心の襟を正す。
その瞳が再び開いたとき、そこに宿る光は先ほどまでとは全く違っていた。濁りは消え失せ、底知れない光が揺らめいている。
「日比」
「は、はい」
「ウイングノーツが北の対岸を極めたならば――私は、南の果てへ飛びますわ」
今日、まだ誰も選んでいない、未知の南ルート。
ただノーツの軌跡を追うだけでは、あの輝きは超えられない。最高の凪。最高の条件。ならば、自分だけのルートで、自分の魂が叫ぶ限界まで、ただただ純粋に飛んでみたい。
「さあ、風のスペシャリストの、本当の飛び方をお見せいたしますわ!」
『現在プラットフォーム上は、富士川スカイスポーツ学園、ナスカさんです!』
聞き慣れた場内アナウンスを背に受け、ナスカはプラットフォームの最先端に立った。
ウイングノーツの後に飛んだ実力者たちが、次々と1キロにも満たずに着水していくのを見て、ナスカは確信していた。風の条件が良いからといって、誰もが長く飛べるわけではない。トリ娘コンテストは、それほど甘くないのだ。
だからこそ、面白い。
「ゲート――オープン!!」
審判員の白旗が振られた瞬間、ナスカの翼が激しく脈動した。
「行きますわ! 3、2、1――スタート!!」
弾かれたようにプラットフォームを駆け出し、揚力を受けて空中へと躍り出る。
『さあ、去年の雪辱なるか!? 琵琶湖を知り尽くす美しき女王が今、ゆっくりと滑り出しました!』
ナスカは高度を一切落とすことなく、真っ直ぐに、吸い込まれるような南の空へと突き進んだ。
『お嬢様ぁー! まずは多景島に向かいなされーっ!』
「日比、今からそんなに叫んでいては声が枯れてしまいますわよ」
インカムを叩き割らんばかりの日比の叫びに、クスクスと苦笑を返す。
そういえば、こんな他愛のないやり取りをしながら飛んだことなんて、今まで一度もなかった。
ふと、視線を真横に向ける。
驚いたことに、一羽の白い鳥がナスカと完全に並頭して飛んでいた。
どこまでも蒼い空。
太陽の光を浴びて宝石のように輝く湖面。
右前方に佇む多景島の緑。
これまでは「勝たねばならない」という呪縛に縛られ、周りの景色など見る余裕もなかった。
ましてや、今回飛べなければ引退するという悲壮な覚悟で練習に臨んできたのだ。
それなのに。
飛びながら見る世界が、これほどまでに美しかったなんて。
「おもしろい……、楽しいですわ……!」
内側から湧き上がる圧倒的な多幸感。ナスカの羽ばたきは、まるで音楽を奏でるように滑らかに、どこまでも巡航効率を高めていく。
『ナスカ選手、早くも5キロを通過!』
『お嬢様! 今の高度を保ちなされ!』
「余裕ですわ!」
気がつけば、かつて誰も到達したことのない未知の領域へ。それでもナスカの肉体に、疲労の影は微塵もなかった。
◆
「ノーツ、ノーツ!」
北西の湾から戻るボートでウトウトしていたアタシは、青葉さんに叩き起こされた。
「え……? 青葉さん、何……?」
「ノーツ、これ見て!」
青葉が指差す中継モニターに映っている空撮映像には、飛んでいるナスカ先輩と、その左後方にある大きな島。あんな島、琵琶湖にあったっけ……?
『何という大会でしょう! ナスカ選手、琵琶湖の南方に位置する沖島をも越えて、今、25キロメートルを突破! ウイングノーツ選手の大会新記録を、あっさりと塗り替えました――ッ!!』
……は?
愕然として、アタシの眠気は完全に吹き飛んでいた。
「嘘……、でしょ……?」
自分が到達した対岸24キロという大記録が、別のルートで、これほどまでにのびのびと鮮やかに塗り替えられていくなんて。
「これが……ナスカ先輩の、本当の力……」
天才の覚醒を目の当たりにして、鳥肌が止まらない。
『見えてきた! 画面前方に、琵琶湖の南端――琵琶湖大橋の全貌が見えてまいりました!!』
モニターの中、先輩の目の前には、湖を分断するようにそびえ立つ巨大な人工の橋が迫っていた。
◆
「琵琶湖大橋……あんなに大きかったのですね」
湖上から見上げる大橋は、その大きなスケールでナスカを圧倒した。しかし、中央部のアーチには、大型船が通るための十分な空間が空いている。
(あそこをくぐり抜ければ、私はもっと先へ行ける――!)
呼吸は荒くなってきたが、まだ体力は尽きていない。ナスカがアーチへ向けて進路を変えた、その時だった。
『――大会スタッフです! 橋の下の通過は極めて危険なため、手前で直ちに着水してください!!』
インカムに割り込んできた運営の鋭い制止に、ナスカは目を見開いた。
「聞いていませんわ! 私はまだ飛べます! あそこをくぐり抜ける技術も余力もあると言っていますのよ!」
『万が一の接触事故を考慮し、人工物の周辺飛行は全面禁止です! ルールに従ってください!』
「私ならぶつかりませんわ!」
この幸せなフライトをいつまでも続けていたいのに、なぜ翼を止めなければならないのか。
大橋が目前に迫ってきていた。ナスカは拒絶を叫びながら、やむを得ず左へと舵を切り、大橋に背を向けて大きく旋回を始める。
『お嬢様!? 逆走したら記録が縮まりますぞ!』
「分かっていますわ! でも、私はまだ飛びたいのです! 日比、どうにかして頂戴!」
大きな旋回の中で、ナスカの頭が再び大橋へと向く。くぐりたい。もっと飛びたい。
「どうしてくぐってはいけませんのーっ!!」
『いけませんお嬢様!ワガママを言わずお聞き分けくだされっ!』
日比の、血を吐くような絶叫がインカムに響いた。
『ルールは絶対です! 駄々をこねてはなりません、着水を!!』
「しかし!」
『お嬢様は失格となり、ここまで飛ばれた大記録をすべて無になさるおつもりか――ッ!!!』
その言葉が、ナスカの理性を辛うじて繋ぎ止める。失格になれば、このフライトの輝きそのものが歴史から抹消される。
「……っ、悔しい、ですわ……!!」
ナスカは、名残惜しそうに大橋を一度だけ見つめた後、ついに羽ばたきを止めた。
ゆっくりと高度が下がり、滑るように湖面へホップする。
バシャァッ! と冷たい水が、火照ったナスカの身体を優しく包み込んだ。
悔し涙が溢れる。
けれど、ダイバーに救助され、ボートの上で泣きそうな顔をしている日比の肩越しに琵琶湖大橋の雄大な姿を見たとき、じわじわと、かつてない達成感が胸を満たしていった。
『素晴らしい記録を発表します!――只今の、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ナスカさんの記録は――』
静まり返る会場に、ウグイス嬢の震える声が響く。
『――3万4664メートル10でした! 』
地鳴りのような歓声が琵琶湖を揺らした。
2時間ほど前にウイングノーツによって立てられた新記録を、さらに10キロも突き抜ける異次元の金字塔。
大記録に次ぐ大記録に会場が騒然とする中、人々の視線は最終滑走者、ディフェンディングチャンピオンのマエストロに注がれていた。




