第16羽 History Maker
「行きますっ!!」
喉の奥から絞り出した叫び。
「3、2、1――ゴーッ!!」
フルスロットルで羽ばたきを始めて、ドンとプラットフォームを蹴り出す。
重力からの解放。身体を前方へと投げ出すようにして、空中へ飛び出した。
――いける!
足を後ろへ真っ直ぐに伸ばし、毎日プールやグラウンドで幾千回と繰り返してきたリカンベントの体勢になる。
グッと翼の表面を捉える、目に見えない空気の壁。でも、今のアタシならそれすら力に変えられるはず。
アタシの体は、ベタ凪の琵琶湖の上を滑るように加速していった。
『完璧よ、ノーツ! 高度、姿勢、ともに最高!』
インカムから飛び込んできた青葉さんの弾んだ声に、胸の内でガッツポーズをする。
「はい! 最高の気分です!」
バサッ、バサッ、バサッ、バサッ――。
風を刻む羽ばたきの音だけが、耳元で心地よく響く。
今日の琵琶湖は、嘘のように優しい。いつもの荒々しさが消え、ただ一面の巨大な鏡となってトリ娘の挑戦を受け入れている。
あとは、この新スタイルに今の自分の体力がどこまでついてこれるか、それだけの戦いだ。
『――ウイングノーツ、早くも2キロメートルを通過ァーッ!! 自身の持つパーソナルベストを軽々と更新、現在暫定トップだーッ!』
実況の声が、おそらくボートのスピーカーを経由してインカムへと滑り込んできている。
驚くほど、身体が軽い。
これは空気抵抗を減らしたリカンベントスタイルの効果なのか、ベタ凪の効果なのか、もしくはその両方か。
羽ばたくつらさはある。それでも、まるで自分が翼そのものになって風の隙間に融けていくような感覚だった。
まだまだ、いける。
もっと遠くへ。
◆
その頃、スタート地点であるプラットフォームとその桟橋周辺は、異様な静寂に包まれていた。
『――信じられない! ウイングノーツ、今、8キロメートルを突破ァーッ!!』
実況の絶叫だけが響き渡る中、出番を待つ後続のトリ娘たちは、誰もが言葉を失って湖面を見つめていた。ウイングノーツのフライトがあまりにも長すぎるため、競技進行が完全にストップしているのだ。
「ノーツ……行け……ッ! 頑張れぇーッ!!」
クラウドパルが、メガホンも持たずに琵琶湖に向かって声を張り上げていた。届かないと分かっていても、胸の奥から湧き上がる衝動を抑えきれない。隣に立つ新人トレーナーの春風も、信じられないものを見る目で戦況を追っている。
桟橋の手前で最終フライトの順番を待つマエストロは、ストレッチの手を止めて湖畔の大型モニターに映し出されるノーツの空撮映像を、じっと見つめていた。
そして、プラットフォームの上。
腕を組み、微動だにせず実況に聞き入っているのはナスカだった。日比トレーナーが慌ただしくスマホで外部の気象データをやり取りしているが、ナスカの瞳は、ただ一点、湖の彼方へと消えた青白い軌跡だけを凝視している。
その表情には、かつての焦燥の色はない。まっすぐに、どこか覚悟を決めたような眼差しで水平線を見つめていた。
◆
バサッ、バサッ、バサッ、バサッ。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――。
もう、自分の意志で翼を動かしている感覚はない。肉体が勝手にピッチを刻み、風を捉え、推進力を生み出している。
思い出すのは、かつて生まれ故郷の岩沼から、仙台の学校までひたすら走り続けていた頃の、泥臭くも純粋な記憶。ひたすら真っ直ぐな県道を淡々と走るあの感覚に似ている。あの時も、ただただ前へ進むことだけが、自分の世界のすべてだった。
『ノーツ! 歴代2位の記録を超えたわ! 高度を維持して、そのまま、そのまま行くのよ!!』
青葉さんの絶叫が、耳の奥で遠く響く。
距離の数値なんて、もうどうでもよかった。達成感すら湧かない。ただ、目の前の景色が、もっと見たい。この翼で、行けるところまで行ってみたい。
バサッ、バサッ、バサッ、バサッ。
そのうち、霞む水平線の先に、おぼろげに島影が見えるようになってきた。
――竹生島だ。
かつて、ソラノセプシー先輩だけが到達したマイルストーン。
アタシはただ無心に、その島影を網膜の真ん中に固定し、翼を動かし続けた。
『さあ、歴史の扉が開くぞ! もうすぐ15キロメートルだ――ッ!!』
眼前に、竹生島の荒々しい岩肌と緑が巨大な質量となって迫る。
アタシは、肺を焼くような熱い息をグッと飲み込んだ。少し鉄の味がする。
『ノーツ! まだいける!?』
「青葉、さん――」
カサカサの唇から、かすれた声を絞り出す。
「アタシ、このまま……『対岸』へ行きます」
『――ッ!!』
「対岸に……あの対岸に、着水します!!」
言葉にした瞬間、全身の細胞が再起動したような衝撃が走った。翼に最後の、そして最大の力が宿る。
『……よーし! やんなさいノーツ! 歴史を、全部ひっくり返しちゃえ!!』
インカムの向こう、青葉さんの声が明らかに涙で震えていた。
はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!
竹生島を左手へと追い抜いた瞬間、目の前に広がったのは、緑で覆われた未知の陸地だった。琵琶湖最北端の、湾状の地形。
その感動もあっという間に置き去りにして、アタシはひたすら翼を動かした。
はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!
陸地に沿うように、進路を少し北へと向ける。
もう何も考えることができない。いや、考えることを放棄して、ひたすら前に進むことだけをしていた。
沿岸沿いの道路を走る自動車が見える。キャンプ場らしきテントと人影もあった。
『対岸の皆さんは驚いているかもしれない! 突如として現れたあの未確認飛行物体は何だ!? あれは鳥か!? 飛行機か!? ――いいえ、トリ娘です!!』
興奮した実況の叫びが青葉さんのインカムを経由して伝わってくる。
『ウイングノーツが! 対岸へ、今、やってまいりました!!』
『ノーツ! あと100メートルだって!』
青葉さんの声と同時に、白い旗を激しく振るオフィシャルの救助ボートが視界に飛び込んできた。これ以上飛ぶと陸地にぶつかるという判断だ。
『ノーツ、着水命令よ! ピッチを落としてゆっくり降りて!』
「降ります!」
アタシはそれだけを応えて、翼の羽ばたきをそっと止めた。
――滑るように、湖面へ。
水面と身体を完全に水平に保ったまま、滑り込むように琵琶湖の胸へと飛び込む。
冷たい水が身体を包み込み、水飛沫とともに、完全なる静寂が訪れた。
プハッ……! と、顔を水面に出す。
荒い呼吸が、静かな湖面に響いた。
目に入った水で視界が歪んでいるが、それを拭う力も無い。
やがて、はっきりしてきた視界が、近づいてくる救助ダイバーたちを捉えた。その向こう、伴走ボートの上で両手で顔を覆って泣き崩れている青葉さんの姿が見える。
その背景には、夢にまで見た、青々とした対岸の山々と民家。
「あ……、あはは……」
視界が、こんどは涙でぐしゃぐしゃに歪んでいく。
アタシは、ダイバーたちに抱えられながら残されたすべての力を振り絞って、右腕を高く天へと突き上げた。
『――素晴らしい記録を発表いたします』
青葉さんの待つボートへと引き上げられたアタシの耳に、震えるウグイス嬢のアナウンスが届いた。
アタシの身体にバスタオルを巻き付けていた青葉さんも、中継モニターの前で息を呑んで動きを止めている。
会場の誰もが、その瞬間を待ち構えていた。
『――只今の、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんの記録は――』
――――
『――2万4823メートル01でした!』
『大会新記録ッ!! ソラノセプシーの伝説を塗り替える、大新記録の誕生です!』
「ノーツ、ノーツゥゥゥ――ッ!!」
「青葉さんっ……!!」
アタシたちはどちらからともなく、激しく抱き合っていた。
ただただ、嬉しかった。
特訓の苦しみも、パルから託された想いも、地元の女の子との約束も、すべてがここに結実したんだ。
「ありがとう……!!」
満面の笑顔で、琵琶湖の広い空に向かって叫ぶ。
岩沼のバァちゃんへ。商店街のみんなへ。
青葉さん、ガル先輩、支えてくれたすべての仲間たちへ。そして、何より、地獄のような特訓を生き延びて、ここまで翼を動かし続けた自分自身へ。
アタシは、もう一度拳を天高く掲げた。
ボートの無線スピーカーから、実況の咆哮が響き渡る。
『このトリ娘に――琵琶湖は狭すぎたァァァーーーッ!!』
◆
……後になって思う。
このときのアタシのフライトは、始まりでしかなかったんだ、って。




