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第13羽 火種

『現在プラットフォーム上は――富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ナスカさんです!』


 自分の名前が場内アナウンスでコールされる。


 ……ついに、来てしまいましたわ。


 ナスカは青白く透き通った自慢の翼を小さく羽ばたかせ、息を吐いた。


 大会初の1キロ超え。

 ディスタンス部門初の連覇。

 最多5回優勝。


 頭をよぎる過去の栄光。

 けれど、それらはすべて、今のナスカにとっては重すぎる足枷でしかなかった。


(今、この瞬間、私《わたくし》は飛ばなければならない。名門としての我が家と、日本でのトリ娘の地位を確立した母と、生まれてからずっと支えてきてくれた日比《じい》の名にかけて)


「ゲート、オープン!」


 スタッフがナスカから離れると、目の前に立った審判員がバッと白旗を上げた。青白く透き通った翼を少し振って、息を吐く。


「行きますわ! 3、2、1……スタート!」


 プラットフォームを駆け抜け、足を蹴り出す。10メートルの高さから琵琶湖の空へと身を躍らせた。


 ぐっと胸に当たる空気の圧。だが、何かがおかしい。風が、踊っている。右から、左から、気まぐれな突風がナスカの翼を激しく叩いた。


 はっ、はっ、はっ、はっ――。


 羽ばたきのペースを上げる。けれど、うまく進まない。


 ……いつからだろうか。この琵琶湖の空が、色を失ったのは。


 5回目の優勝と2度目の連覇を達成した後、誰からともなくナスカのことを『女王《クイーン》』と呼ぶようになった。

――正直、それはそれで悪い気はしなかった。伝統あるトリ娘の名家として、その称号はナスカにとって呼ばれて然るべきものだったから。


 しかし、周囲からの期待が膨らむほどに、ナスカの空には見えない柵――エリ(・・)がせり上がってきた。それは、一度迷い込めば、二度と出られない行き止まりの迷路。


(私は、どこで間違えましたの……? ソラノセプシー先輩のように、あの対岸へ行くはずだったのに!)


 はぁ、……はぁ、……はぁ、……はぁ!


「お嬢様っ!」

 インカムから響いた日比の悲痛な叫び。

 気付いた時には、目の前に湖面が迫っていた。横風に煽られて、翼が完全に失速している。


「くっ……どうしてですの、私の何が――ッ!!」

 無念の叫びは声にならずに、視界が容赦なく水に覆われる。


 ゴボボボボ……。


 泡立つ水の中で、ナスカは濁った光を見上げていた。


『只今の、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ナスカさんの記録は――692メートル51でした』


 救助ボートに引き揚げられたナスカの耳に、非情なアナウンスが届く。会場からは落胆とも驚きともつかない、重苦しいどよめきが漏れていた。


「お嬢様……」

「何も言わないで、日比《じい》」


 ナスカは濡れた髪のまま、ぼうっと空を見上げた。本当に、私の何が足りなかったのか。


 ボートはナスカの気持ちとは関係なく、風を切って応援席正面の船着き場に向かっていく。


 その間も、競技は淡々と進んでいった。アナウンスを聞いている限りでは何人か飛んでいるが、強い風の影響でフーシェ以外はナスカの飛距離すら超えることはできてないようだ。


『――現在プラットフォーム上は、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんです』


 ボートの小型モニターが告げたその名前を聞いて、ナスカは体を起こして画面に目を移した。


 ウイングノーツ。


 確かシャイニングスタァの新しいルームメートで、何大会か前に湖岸で会ったことがある。その時はあまり印象に残らなかったが、今画面に映っている姿は精悍で、当時の姿とは比べものにならないほど引き締まっている。


『さあ、前回いきなりブレイクしたトリ娘の登場です。ウイングノーツ!』

『これまでは結果が出せずにいましたが、前回大会で1700メートルを超える記録を出してますね』

『果たして自身の記録を塗り替えることができるか! 注目しましょう!』


 ゲートオープンの合図とともに、ウイングノーツがプラットフォームから飛び立つのが、湖上のボートからでもはっきりと目視できた。


「――彼女、南を目指しているのね」

 ナスカが呟く。


「お嬢様をはじめ、先ほどまでのトリ娘たちが風に流されたのを見て、あえてルートを変えたのでしょう」

 傍らの執事が答えた。


 モニターの中のウイングノーツは、横風に激しく揺さぶられている。明らかに限界を超えた負荷が彼女の身体にかかっていた。あまりにも苦しい、泥臭いフライト。


 でも、次の瞬間、ボートの望遠カメラが捉えたウイングノーツの表情に、ナスカは息を呑んだ。


「――笑っている?」


 食いしばった歯の隙間から、ウイングノーツは確かに、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべていた。


 苦痛に歪みながらも、その瞳は歓喜に燃えている。まるで、立ちはだかるようなこの暴風を、心の底から楽しんでいるかのように。


「飛んでいることが……楽しい……?」

 ナスカはその言葉を口にした瞬間、ハッとした。


 自分はいつの間にか、記録という名のエリ(・・)に囚われ、飛ぶ楽しさを忘れていたのだ。


『まだああぁぁぁぁぁっっ!!』


 モニターの中では、ウイングノーツが突風を喰らい、大きく体勢を崩しながらも狂ったように翼を羽ばたかせる姿が映し出されている。ナスカは、いつしかそれを食い入るように見つめていた。



 ◆



 時間は少し遡る。


「う、ぐううぅぅぅっ!!」

 強烈な横風が、アタシの右翼を容赦なくへし折らんばかりに叩きつけた。


 プラットフォームを飛び出してしばらく飛んだ地点。徐々に琵琶湖の風が暴れ始めてきている。それでも、不思議と頭は冷えて冷静な自分に気付いていた。


(そこっ……!!)


 風が一瞬弱まった瞬間を見逃さずに体勢を立て直す。まだ完璧では無いが、以前よりは風の乗りこなし方が分かってきたような気がする。


 とはいえ、負荷の連続で筋肉は悲鳴を上げ、乳酸が両肩を焼き焦がす。限界なんて、とっくに超えていた。


 だけど、信じられないくらい楽しい。


 ナスカ先輩や他のトリ娘たちを落とした琵琶湖の魔の風が、今のアタシには、乗りこなすべき暴れ馬に見えた。


(もっと、もっと先へ……! マエストロ、ソラノセプシー先輩が待つ領域へ!!)


 ガガッ、と翼がきしむ音がした。


 1キロ地点を通過。


「高度7メートル! 少し下げて!」

 青葉さんからの無線で、湖面がやけに遠くなったことに気付く。強風に乗った勢いで上に押し上げられてしまったんだろう。


 羽ばたきながら高度を落とすと、青葉さんからのOKサインが見える。


 安心して前を向いた直後だった。


 突然体が右に大きく傾く。左からの突然の強い陸風。


「しまっ――」


 一瞬で浮力を奪われ、視界が急速に傾く。湖面が目の前に迫る。


「まだああぁぁぁぁぁっっ!!」


 叫びながら、アタシは残ったすべての力を両翼に込めて、狂ったように空気を掻いた。


 バシャアアアンッ!!!


 激しい衝撃とともに、アタシの世界は冷たい水と白い泡に包まれた。


「ぷはっ……! はぁ、はぁ、はぁっ!」

 水面に顔を出し、すぐに駆けつけてくれた救助ボートに引き揚げられる。


 ボートの上で待っていた青葉トレーナーが、アタシの体にバスタオルをかけて無言で手を握りしめた。その感触から、ようやく両腕がしびれて動かしにくくなっていることに気付く。


 ボートのスピーカーから、ウグイス嬢の公式アナウンスが響き渡った。


『只今の、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんの記録は――』


 青葉さんと無言で視線を交わす。


『――1290メートル79でした!』


 その瞬間、会場のスタンドから地鳴りのような歓声が沸き起こるのが、湖の上まで聞こえてきた。


『誰もが苦しむこの風の中、暫定首位のフーシェに続いて2位に躍り出ましたウイングノーツ!』


 前回の自己ベストには届かなかったし、ナスカ先輩の前に飛んだフーシェ先輩にも追いつけなかった。それでも、この最悪のコンディションの中で、現時点で暫定2位を叩き出したのだ。


「お疲れ様、ノーツ!」


 青葉さんが満面の笑みで、力なくボートに投げ出していた手に優しくタッチをしてくれた。


「風がこれだけ荒れる中で、1キロ超えは奇跡よ。本当に、よく飛びきったわ!」


「ありがと、青葉さん。でも……」

 アタシは、モニターを見つめた。


 そこには、最終フライトのためにプラットフォームの頂に立つ、黄金のディフェンディングチャンピオンの姿がある。


「まだ、あの娘《こ》が残ってる」


 そしてそこからの彼女のフライトは、まさに圧巻の一言だった。


 風の向きが踊るように変わる最悪の空域。マエストロは、その空域の全ての風をいなしながら素早く脱出し、流麗な軌道を描いて見せた。


 彼女の記録は――驚異の、6.2キロ。

 圧倒的な強さでの、大会連覇。


 そして――。


『第3位、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ウイングノーツ選手!』


 夕暮れの表彰式。

 メインスタンドの前に設置された表彰台。その3番目の高さのステップに、アタシは立っていた。


 観客席からは、宮城の地元の人たちや、学園の仲間たちの凄まじい大歓声が聞こえてくる。その視線と歓声は、もはやアタシが一発屋の新人ではなく、名実ともに実力者であることを認めていた。


 もらったトロフィーと賞状を掲げて歓声に応える。


 まだだ。もっと上へ。もっと遠くへ。


 アタシは受賞の喜びで笑いながらも、さらなる空への渇望が湧き出てくるのを抑えられなかった。

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