第12羽 asphyxia
傾きかけた太陽が、少し波立つ琵琶湖を燃えるようなオレンジに染め上げていた。
本番のときはいつも青一色の景色が全く違って見えて、どこか神秘的にも思える。
「――えー、次に、湖上の飛行禁止区域についてです」
プラットフォームの端に立った大会スタッフが、手元の書類から顔を上げないまま事務的にページをめくった。
トリ娘コンテスト・ディスタンス部門、大会前日。
プラットフォームの下見を兼ねた全体説明会が執り行われていた。本番前にこの10メートルの頂に登れる機会は、これしかない。
あちらの方では、初出場らしき新入生のトリ娘二人組が、おそるおそる下を覗き込んで悲鳴を上げていた。
「えええええ!? ここから飛び降りるんですかぁ!? 無理無理無理無理!」
怯える新人たち。ああ、アタシも最初にこの高さに登ったときはそうだったなぁと懐かしがっていると、
「――お静かに」
ピシャリと、冷徹な圧のこもった声が響いた。
声の主は、『女王』ナスカ。今年度から卒業した先輩たちに代わって生徒会長の座を引き継いだ、今の学園を象徴するエースだ。
「……それに。ディスタンス部門は飛び降りるのではなく、飛び立つものですわ」
「「は、はい……!」」
新人2人は完全に萎縮して押し黙ってしまった。ナスカはスンと顔を正面に戻すと、元のように腕を組み、鋭い視線で琵琶湖の彼方をじっと睨み据えている。
大会スタッフは一つ咳払いをして、再び書類に目を落とした。
「……えー、ここから1キロ先の湖面に、棒が何本も突き立っているのが見えますでしょうか。あれはエリといってたくさんの棒が立ち並んでいる場所です。あそこだけではなく琵琶湖の至るところにありますが、あの中に着水してしまいますと、救助ボートが進入できず非常に危険です。従って、エリの上空、および付近の飛行は禁止とします」
1キロ先。
これまでの大会では、そこまで到達することすら夢のまた夢だったから、まだ関係ないと思って聞き流していた。けれど、今のアタシには現実的な警告としてその存在が迫ってくる。
改めて湖面を眺めると、その先のあちらこちらにもそれらしきものが見える。
広い琵琶湖。一見すれば自由な大空。
でも実際には、人工建造物や湖岸のルールによって通れない場所が張り巡らされている。
「……ルールおよび禁止事項の説明は以上となります。くれぐれも、本番前にここから落ちないように」
スタッフの冗談混じりの締めくくりに、トリ娘たちの間でどっと緊張のほぐれた笑いが起きた。そのまま現地解散となり、それぞれ淡々と桟橋を下りていく。
「ねえ、ノーツ」
後ろから大きな体を小さく屈めて、バートライアが小声で話しかけてきた。
「エリってさ、結局何のためにあんな棒がたくさん立ってるか知ってる?」
「え? そういえば、詳しくは知らないかも……。マエストロは知ってる?」
アタシはバートライア越しに、その後方を歩いていたディフェンディングチャンピオンに声をかけた。
「さあ? 似たようなもので大阪の澪標なら知ってるけど。でも、そういう航路案内というわけでもなさそうよね。……浅瀬の警告か何かじゃないの?」
マエストロが怪訝そうに眉をひそめたところで、
「魞漁の仕掛けですわ」
前を歩いていたナスカ先輩が、足を止めずに端然と言った。
「魚が入ると書いて、魞。障害物にぶつかると、盲目的にそれに沿って泳いでしまうという魚の習性を利用して、柵で作った迷路の行き止まりに追い込む琵琶湖特有の漁法なのですわ」
振り返ったナスカ先輩の横顔は、沈みゆく夕日に照らされて、どこか影を帯びていた。
「一度迷い込めば、自力では決して抜け出せない。ただずっと、終わりが来るまで同じ所をぐるぐると回ることになる場所……」
その声の冷たさに、アタシとバートライアは思わず息を呑んだ。
ただの漁法の説明のはずなのに、まるで彼女自身が、その抜け出せない迷路の中で藻掻いているかのように聞こえたからだ。
「お嬢様」
静寂を破ったのは、桟橋の出口で待機していた白髪白髭の老紳士――日比新太トレーナーの声だった。
常にスーツを纏い、ナスカ先輩を幼少期から支え続ける彼の姿に、先輩は小さく息を吐く。
「分かっていますわ、日比。……それでは皆様、ごきげんよう」
先輩はそれだけ言い残し、執事の後を追うように去っていった。
「……やっぱり、ピリピリしてるね」
バートライアが肩をすくめる。
「無理もないわ」
マエストロが、去っていく女王の背中を冷ややかな、だが確かに闘志を宿した目で見つめていた。
「あの人は『女王』と呼ばれてからここ数大会、自分の記録を一ミリも更新できていないのよ。なるほど、一度迷い込んだら抜け出せない自分だけのエリの中で、あの人はずっとぐるぐる回ってるってことなんだわ」
マエストロの言葉が、アタシの胸に重く突き刺さる。
圧倒的な強者であっても、琵琶湖の魔物に囚われ、精神的な行き詰まりを見せる。一発勝負のこの舞台では、過去の栄光など何の助けにもならないのだ。
「――ま、他人の心配をしてる場合じゃないけどね」
マエストロがわざとらしく自身の美しい翼をかき払った。その仕草一つで、場の重い空気が一気に吹き飛ぶ。
「ナスカ先輩がどこで溺れていようが関係ない。私は明日、ディフェンディングチャンピオンとして連覇を果たすわ」
マエストロの黄金の瞳が、真っ直ぐにアタシを射抜いた。アタシを明確なライバルとして見定めた、ということだ。
「頑張ろう。アタシだって、前回よりももっと飛んで追いついてみせる」
その結果あなたを抜いても悪く思わないでね、と目線に込めて伝える。
フン、とマエストロは満足そうに口元を釣り上げ、そのまま大股で歩き去っていった。
ふと、振り返って琵琶湖を見る。
プラットフォームの向こうに完全に太陽は沈み、世界は深い藍色に塗り替えられようとしていた。
もう、迷いはない。
アタシは、ただ静かに心の奥の炎を灯すのだった。
◆
翌朝の大会は、バートライアの快進撃で始まった。
『只今の、富士川トリ娘スカイスポーツ学園、バートライアさんの記録は――846メートル74でした!』
『バートライア選手! 見事なフライトでした! 現在暫定1位です!』
「やったぁぁぁーーっ!」
湖岸の待機列に設置された大型モニター。そこに、大柄な体を揺らして加賀谷トレーナーと抱き合うバートライアの姿が映し出され、会場は割れんばかりの拍手に包まれる。目標の500メートルを大幅に超え、暫定首位。彼女の弾けるような笑顔が眩しい。
「遂にやったね、バートライア」
「そうね」
アタシが小さく拳を握ると、隣に並んでいたディフェンディングチャンピオンが静かに応じた。
マエストロは前回王者の風格を漂わせ、どっしりと構えている。強めに吹き荒れる大会旗を見上げても、その黄金の瞳に微執な揺らぎすらない。
「何よ」
じっと見るアタシの視線に気づいたマエストロが眉を潜めた。
「いや、なんかマエストロ貫禄ついたなって」
「太ったってこと!?」
「いやそうじゃなくて……なんて言えばいいんだろ。フーシェ先輩とかもそうだけど、一度優勝を経験するとやっぱり世界が変わるのかなって。余裕があるというか」
「余裕なんて無いわよ。ただ、しっかりと準備しておけばあとは成るように成るということが分かった、ってことかもね。風とか天候で大分左右される競技だし」
「なるほどね」
「それを言ったら」
マエストロがウイングノーツの顔を見て続けた。
「アンタだって前回で1キロ超えたんでしょ。もう強豪の仲間入りよ」
「手応えは掴んできたけど、強豪と呼ばれる実感はないなぁ」
アタシが答えた瞬間、場内アナウンスが次のフライトを告げた。
『現在プラットフォーム上は――富士川トリ娘スカイスポーツ学園、ナスカさんです!』
『女王』ナスカ。初めて大会で1キロを突破した選手であり、史上最多5回優勝の紛う事なき強豪。
だけど、プラットフォームの上に立つ彼女の背中は、どこか昨日の魞漁の話をした時のように、暗い影を落としているように見えた。




