第20話 金木犀
「うぁ、大きな金木犀」
中庭に金木犀の匂いが立ち込めている。
この匂いだったのか……
だが、なんだか腑に落ちない。
「いい匂いだね」
相手は先ほどの怯えた態度とは一変、安らかな表情だった。
月明かりに照らされた横顔は、見惚れてしまうほど美しい。
見た目が王子様なの……ずるい。
「なんか、急に力が抜けたから疲れちゃった。助かる」
相手は軽く跳ねるようにして、ベンチに腰を下ろした。
その時、左後頭部に鈍い痛みを感じた。
なんなんだろう……この感じ……前にも……
「どうしたの?」
相手が心配そうに駆け寄ってきた。
「なんでもない、少しふらついただけだから」
「そう。こっちきなよ!風が気持ちいよ!」
僕はベンチに座った。
夜風が、金木犀の香りを巻き込みながら、頬の輪郭をなぞる。
気持ちがいい。
「今日は楽しかったね!」
相手は無邪気に言った。
「僕はそれどころじゃなかったよ!」
「そうなの?」
「そうだよ! たくさんの人の前で似合わないドレスなんて着ちゃってさ! 恥ずかしい!」
「似合ってるよ?」
相手は仮面をとりながら僕の顔を覗き込んだ。
仮面を取ると、さらに美しい顔が顕になっていく。
……やっぱり、ずるい。
「庶民には似合わないの!」
僕は仮面をとりながら言った。
「でも、楽しかった……」
そう言葉にした瞬間、
どこか懐かしい気持ちになった。
「久しぶりに友達とはしゃいだって感じ」
「友達?」
相手は不思議そうな顔で言った。
「え? 僕たち友達じゃないの? 長い付き合いだと思ってたのに」
少しショックだった。
「え! だって初めてだよ“友達”って言ってくれたの」
そうだったっけ?
僕は自分の記憶を辿った。
「言ったことなかったっけ?」
「ないよ!」
相手は不貞腐れているが、口元は少しニヤけていた。
「友達か……」
相手は何かを思い出すように、遠い目をしていた。
「なんでそんな顔するの?」
聞くつもりはなかった。
でも、その悲しそうな目元が、胸の奥をもやっとさせた。
「ん? やっと友達になれたんだなって思って」
相手は笑った。
「……嬉しかっただけ」
違う……
相手の表情は優しかった。
だが、切なかった。
月明かりで目元がきらりと光っている。
——大切なものほど、知らないうちに壊れているものだ。相棒。
脳裏に言葉がよぎった。
誰の言葉だろう——
まるで、今の僕に、忠告をしているようだ。
あなたはどうして、そんなに悲しそうなの?
この言葉を出すこそができなかった。
いや、出してはいけない。
出してしまったら、何かが壊れてしまうような、そんな気がした。
金木犀の香りが、静かに二人の間を流れていく。
その香りは甘いはずなのに、なぜか胸の奥が、少し痛かった。




