005:paradoxへようこそ
初めて家に帰った後、季雨は家の中の配置を一通り確認し、戸籍簿や合格通知書などの重要物品を改めて整理して置き直した。
自分にはこの家の記憶がないとはいえ、生活障害を抱えた記憶喪失の障害者のようには生きたくなかった。幸い、大学四年間を生活するのに十分な貯金があり、毎月一定の手当てもある。だから季雨は生活の苦難をあまり味わいたくなかった。
「過去の人生の埋め合わせ」と「リズ事件の風頭を避ける」という考えのもと、彼はノートパソコン、PS5、そして大量のスナックと冷たい飲み物を購入し、しっかりと引きこもりの夏休みを過ごす準備をした。
しかし、生活常識の欠如による結果は致命的かもしれない……彼が昼夜を問わず一週間ゲームを続けた直後、突然のめまいが季雨のゲーム進行を中断させた。
「……まずい、これは死の気配だ」
倒れた季雨は脳内から眩暈の原因を検索した。
「普通の人間の生活とはどんなものだ?」彼はパソコンのaiにそう尋ねた。
「普通の人間は朝八時から九時に起き、タンパク質豊富な朝食を食べてから仕事に行くべきです。昼食は炭水化物を補給し、午後は熱中症に注意し、夕食も同様に栄養豊富に。煙草は吸わず、酒も少量に留める。夜十一時に寝て、八時間の睡眠を確保する。就寝前に温かい牛乳を一杯飲み、それから二十分の軽い運動で体を温めてから寝る。赤子のように、疲労とストレスを決して翌日に持ち越さない」
「……これが普通の人間か?」
aiの返答は某悪役の自己紹介にとても似ていたが、季雨はそれでも自分の失神の原因を見つけた。スナックと冷たい飲み物だけでは長期的な生存を維持できないのだ。
「まともなものを食べないと……」
もがきながら地面から起き上がり、季雨は部屋のドアを開けた。階下へ降り、時運苑を離れ、彼は街で飲食店を探した。
台風の影響はとうに過ぎ去り、うるさい蝉の鳴き声と刺すような日差しが再び上海を支配していた。行き交う人々で混雑する雑踏の中、季雨は少し立ち往生していた。
「何を食べる?」
「そうだね、何を食べる?」
「?」
ショートパンツのJKセーラー服を着たオレンジ色の髪の少女が、季雨の肩に手を置き、彼の先ほどの独り言に合わせた。
「えっと、どちらさま?」季雨は振り返る。
陽光あふれる笑顔が彼の視界を占領し、少女は彼の肩に置いた指で、振り向いた彼の頬をつついた。
「あそこにラーメン屋があるよ。カップル入店で、ラーメン買って一杯無料」
少女のもう一方の手が指す方向を追って、季雨は十字路のあのラーメン屋を見た。
「いや、なぜラーメン屋にカップルイベントがあるんだ? それに、なぜ僕なんだ?」
「だって君は、私が最初に見つけた『まさに食事を探している食客』だからね。カップルイベントなんて普通だよ。店は売上促進のためなら、どんな触れ込みでも見つけるんだから」
「ラーメン……」季雨は頭を掻く。夕食にも良さそうだし、自分はまだラーメンを食べたことがない。
引っ張ってきた食客が揺らぎ始めたのを見て、オレンジ髪の少女はさらに畳みかける。
「うう~、かっこいい彼氏が一緒じゃないと、女の子が一人でラーメンなんて食べないんだよ。淑女じゃないし~。それにそれに、君が一緒に来てくれるなら、おごらせないでいいよ。割り勘にしよう?」
「元々奢ってもらう前提だったのか!」
目の前のオレンジ髪の少女を見て、季雨は彼女に調子を狂わされた。
美人局? だが、こんな街中で人を引っ張って飯に行く「美人局」があるか?
オレンジ髪の少女は季雨をいじらしそうに見つめる。同じオレンジ色の大きな瞳には涙が光り、季雨が少しでも断れば泣き出すかのようだ。
まるで酷い彼氏に捨てられた健気な彼女のような構図に……通行人の視線がすでにこちらに向いている気がする。
「OKOK、一緒に食べに行くよ、これでいいだろ」
季雨は降参し、彼女を足元から頭まで評価した。染めたオレンジのボブヘアと、わざわざ着けたオレンジのカラコン。何かのコスプレをしているように見えるが、一週間サブカルチャーを詰め込んだ季雨には、彼女がどのキャラのコスプレか全く分からなかった。もしこれが彼女自身のキャラデザインだとしたら、実に個性的だ。その表情の明るい、あるいは大雑把で電波系の精巧な顔立ちと合わさって、リズにも負けない紙片人の美女だ。
彼女が彼氏と喧嘩して、わざと彼氏を怒らせるために、道端の適当な男を捕まえて恋人のふりをしているのでなければいいのだが。
「やったー!」
季雨が同意するのを聞き、オレンジ髪の少女は歓声を上げ、そして季雨が反応する間もなく、本当に恋人のように彼の腕を組んでラーメン屋へ歩き出した。
どうか飯を食っている時に男が飛び出してきて僕を殴りませんように……小彼女のようにぴったりと寄り添うオレンジ髪の少女を見て、季雨はそう思った。
三十メートルの柔らかさと女の子の匂いの口福を堪能した後、二人はラーメン屋に座り、カップルセットを注文した。
オレンジ髪の少女がべったりとしているおかげで、店も疑うことなく、「キスして」の検証もなく、季雨は逆に気楽さと一抹の残念を感じた。
「私の名前は璃見真理」
少女は微笑みながら彼を見て、自己紹介をした。店内の照明の下、少女の半面は影に隠れている。
これは意味深な笑みだ。微笑んではいるが、その目は鋭さに満ち、まるで季雨の魂を探るかのようだ。
季雨はこの、先ほどの電波な表現とは全く異なる表情から、慎重さ、戯れ、喜び……そして一抹の残念を読み取ることができた。要約するなら、神秘。
自己紹介一つで、「私はキラ」みたいに……それに、なぜ日本人の名前なんだ?
内心でオレンジ髪の少女の芝居が多すぎると突っ込みながら、季雨も自己紹介を返した。
「僕はL、いや……あの、僕は李風」
「李風」璃見真理はうなずく。「李君と呼ばせてもらっていい? どう見ても同い年くらいだし、上海理工大学の学生?」
「はい、九月に新学期が始まれば、僕は大学一年生です」
「おお、それは奇遇だね。私も大学一年生。ただ早めに上海理工に来て、最近はお店を開いて絶賛生計を立ててるところなんだ。李くんは? なぜ早く上理に来たの? 寮を早めに申請した? それとも家が学校の周り?」
「家が周りにあります」
「へえ、もっと奇遇じゃない!私が住んでいるところも上理にとても近い。食べ終わったら、私の家に来る興味ある?」
「美人局?」季雨は思わず。
「え——ひどい、警戒心が強すぎるよぉ。可愛い女の子が家に招待したら美人局なの? それじゃ童貞を卒業できないよ、童貞君」
「いや、最初の相手がそんな人なら、やっぱり遠慮させてもらうよ。初対面の男性と飯を一回食べただけで家に連れて帰りたい女性なんて、病気が怖い。普通の女性はみんなスローペースで、慎み深くて、傷つくのを恐れて、試すのが好きで、態度を重視して、誠意を求めて、安全感がなくて、家と車と38.8万元の結納金がないと触れないんだ」
「君、男なのに私より女権主義者じゃん……ああ、ただ人を家に連れて行きたい職業病が出ただけだよ」
「職業病?」
どんな職業病が人を家に連れて行きたくなるんだ? 季雨はますます彼女の家に行ってはいけない気がした。
「ペッペッ、職業病じゃないよ」璃見真理は気まずそうに顔を覆う。「普段住んでいるところが、私が開いている店の二階なんだ。人を家に連れて行きたいって言ったのは、店に座りに来てほしいって意味だよ。私はいい子だよ」
「えっと、君の開いている店は何?」
「カフェ、バー、昼カフェ夜酒。店名は『paradox』。どう? 食べ終わったら一杯飲みに来る興味ある? 私が手ずからカクテルを作ってあげる」
「やっぱり食べ終わってからにしよう」
二人のしばらくの気まずい雑談を経て、二杯の日式豚骨ラーメンが運ばれてきた。
丼が運ばれてきた時、乳白色のスープの表面には細かい油の粒が浮かび、溶けたクリームのように濃厚だった。チャーシューは薄く透けるように切られ、端には炙った焦げ茶色の部分が巻き上がっている。味玉は半分に割られ、オレンジ黄色の黄身はまだ流心の状態で、震えながら麺とスープの間に嵌まっている。刻み葱は鮮やかな緑、木耳は黒く脆く、そして一片の海苔が丼の縁に斜めに差し込まれ、湯気に燻されて少し柔らかくなっている。
初めてラーメンを見た季雨は、やはり食欲をそそられ、会話を止めて食べ始めた。
彼はまずスープを一口飲んだ。
濃い。重さを感じるほど濃厚で、豚骨を何時間煮込んだのか分からないような粘稠なコク。舌の上に微小な粒状感を感じる。塩辛さと旨味の後に一抹の甘みが広がり、続いてあの特有の——どう言えばいいか、人によっては臭いと感じるが、今熱々と喉に流し込む時は、ある種の癖になる重厚さとしか感じない。
箸で麺を持ち上げると、わずかに縮れた細麺がスープを纏い、口に吸い込むと弾力がある。歯で噛み切った瞬間、麺の芯に微かなコシが残っている。麺とスープが口の中で混ざり合い、濃湯が麺に絡み、一口ごとに重なるスープの重さと麺の噛み応え。
チャーシューを口に入れると、ほとんど噛む必要がなく、肉は舌の上でほどけた。炙りの焦香と煮込みの塩甘さが混ざり、肥瘦の層が一塊ずつはっきりと区別できる。味玉の白身は滑らかで、黄身は半凝固のペースト状。味は塩味の醤油をベースに、卵そのものの甘さが包まれている。
季雨が半分食べた頃には額に汗がにじみ始め、唇は油だらけだったが、箸が止まらなかった。
「これは僕の人生で食べた中で一番美味しいものだ」
季雨は、街で璃見真理の誘いに乗ったのは本当に賢明だったと思った。ラーメンってこんなに美味しいのか?
「はは、大げさすぎだよ」
二十分後、二人は満足して椅子にもたれ、消化を促した。
「どう? paradoxに来ない?」璃見真理が再び尋ねる。
こんな美味しいものを食べさせてくれた人は、きっと悪人ではない。季雨は満足してうなずいた。
璃見真理は座席から跳ね起き、バネを踏んだかのように素早い動作だった。
「じゃあ行こう行こう、空がまだ完全に暗くならないうちに、私が案内するよ」
彼女は再び自然に、ラーメンから解放されたばかりの腕を組み、まるで友達と百回も歩いたかのように慣れていた。
ラーメン屋の入り口の自動ドアが背後で閉まり、冷気が真夏の夕暮れの熱波に一口で飲み込まれた。空の色はすでに白く輝く橙赤から深青へ移行していた。街灯はまだ点いておらず、街面の明るくも暗くもない曖昧な光は、時間が半空中に吊るされたような感覚を人に与える。
「遠い?」
「歩いて二十分かな。五角場大学路のあたり、創智天地に入って、割と見つけやすいよ」
璃見真理は腕を離して並んで歩くに変え、歩幅は跳ねるように軽やかで、オレンジのボブヘアがリズムに合わせて揺れ、髪の毛がそよ風に浮かぶ。彼女は両手を背中に回し、少し上を向いて空を見た。
「そういえば李君、君は上海に長くいないように見えるね」
「どうして?」
「なんていうか——そう、何を見ても新鮮に感じる感じ。さっきラーメンを食べた時の君の表情、本当に大げさで、初めてラーメンを食べたみたいだった」
季雨は答えなかった。確かに初めてラーメンを食べたのだが、正直に言うわけにはいかない。
「それに、君の話し方にも上海訛りがない。標準語がアナウンサー科みたいに標準的」
「両親が地元の人じゃないからかもしれない」
「あ——移民の二世か、それなら納得」
璃見真理は追及を続けず、むしろ話題を別のところへ逸らした。
「じゃあ、五角場を知ってる? 楊浦区の繁華街だよ。食べ歩きの通りで、夜は特に賑やか。paradoxは大学路に入って少し行ったところ、目立たないけど、商売はまあまあいいんだ」
彼女は話しながら指で空中にルートを描き始め、まるで外地の観光客に地図を描いているようだった。
「ここから歩いて行って、信号を渡って左に曲がって、それから——」
「直接連れて行ってくれればいいじゃないか」
「それもそうだね」
璃見真理はへへっと笑い、歩調を速めた。
五角場に着くと、人通りは明らかに多くなり、創智天地広場を抜けると大学路だ。この一帯は夕方になると特に賑やかで、沿道の小さな飲食店やカフェがテーブルと椅子を外に運び始め、オープンテラスで食事や雑談をする人々が歩道の半分を占めている。空気には焼き肉の煙、フライドチキンの香り、そしてどこの店か分からない音楽が混ざり、騒がしいが嫌な感じではない。
「着いた着いた、あの店だよ」
璃見真理は十字路の角にある小さな建物を指差した。
それは三階建ての建物で、二本の歩行者天国の交わる角に挟まれ、外壁には濃茶色のレンガが貼られ、角の部分は浅灰色の石材で縁取られている。全体として、昭和時代に建てられてそのまま残っている洋館のような印象だ。一階の通りに面した二面にはそれぞれ扉があり、交差点に正対する面の壁には細長いガラス窓が二つ嵌まっている。銅製のドアノブは磨かれて光り、ドア枠の上には鉄細工の壁灯が下がり、毛ガラスの傘が街灯を小さくして壁に掛けたようだ。
ドアの横の壁には派手な看板はなく、レンガの面に銅板が一枚嵌め込まれ、そこにセリフ体で「paradox」と刻まれている。文字は大きくなく、注意して見なければ部屋番号と間違えるだろう。
全体的な印象は、東京の路地裏にある、大きな看板を出さず、常連の口コミだけで見つけられる隠れ家のようだ。
「これが君の店?」
「そうだよ。一階が商売、二階が私の住むところ。通勤距離ゼロ、完璧でしょ?」
璃見真理はドアを押し開けた。
「いらっしゃいませ、paradoxへ」
冷気とほのかな木の香りが押し寄せる。
バーの空間全体は広くはなく、目測で四、五十平米ほどだが、天井高は十分だ。内部の明るい照明のせいで、雰囲気は外よりも神秘的ではなく、客が店内で読書する需要も考慮されているように感じる。
バーカウンターが空間の主役で、左側の壁に沿って延び、天板にはロックグラスと脚付きグラスが整然と伏せて並んでいる。カウンターの後ろは天井まで届くガラスの酒棚で、上の瓶は色の濃淡順に並んでいる。深琥珀色のウイスキー、透明なウォッカとジン、浅金色のリキュール——暗い光の中で、まるで光る壁のようだ。
右側は二組のボックスソファで、濃茶色の木の床と合わさって洋風カフェの質感がある。いくつかのウイスキーグラスがテーブルに伏せて置かれている。隅には壁際の立て書棚もあり、上には本や雑誌が散らばっている。壁には余計な装飾はなく、白黒の建築写真が二枚掛けられ、どこかのヨーロッパの都市の街角のようだ。一番奥の角には細い階段が二階へ通じており、階段口にはベルベットの紐が張られ、小さな木札に「STAFF ONLY」と書かれている。
BGMはとても軽く、ある種のピアノジャズで、音量は会話を邪魔しない程度に低く、しかし静かすぎない。
これはごく標準的な、あの日ドラマや探偵アニメに出てくるようなバーだ。
主人公がここに座ると、向かいに何かしらのキーNPCが現れて情報を流し始める——そんな——
「待てよ、僕がここに来るきっかけ自体、NPCの導きみたいだったな」季雨はそう思った。
「どこでも座って、カウンター? それともボックス?」
璃見真理はカウンターの後ろに回り、下から黒いエプロンを出して着けた。
その時、カウンターの一番奥から声が聞こえた。
「璃見さん、こんばんは。本日の客流量はゼロ、在庫棚卸は完了、異常なし」
声は平坦で、明瞭で、起伏がなく、Siriが教科書を読むようだ。
季雨が声のする方を見ると、カウンターの端に——人? ロボット? が立っている。
ロボットと言うのは、その外見が確かに正常な人間とは思えないからだ。一メートル七十センチほどの身長、銀灰色の外殻、頭部には五官がなく、淡い青い光を放つスクリーンが顔の代わりで、スクリーンには今、二つの簡単な円点と上向きの弧線が表示され、顔文字の笑顔のようだ。体は流線型の金属外殻で、四肢の関節には明らかな機械構造が見える。指はかなり柔軟なようで、今ちょうどトレイを持って酒棚にグラスを置いている。
誰も返事をしないのを見て、ロボットは報告を繰り返した。
「本日の営業時間帯の客流量はゼロ。コーヒー豆の在庫残り約4.2キロ、酒類在庫は異常なし、氷は補充済み。なお、二階ベランダのポトスには水をやりました」
「ああ、月曜日、今夜は私が客をもてなすから、奥で休んでていいよ」
「了解」
「月曜日」と呼ばれたロボットはトレイを置き、スクリーンの弧線は水平な直線に変わった——不機嫌の意味だろうか? しかし一秒止まっただけで、振り返って奥の作業室へ歩いていった。
「あれは……?」
「月曜日。うちの常駐バーテンダー兼ウェイター。正式名称は『全自動多機能飲食補助端末Mk-Ⅰ型』だけど、月曜日って呼ぶ方が口に馴染むから」
「カクテルを作って、皿を運んで、在庫を棚卸して、掃除して。基本的に店で人手が要らない仕事は全部できる。でも今日は君が私の客だから、私が手ずからやる。活躍の場は与えないよ」
璃見真理は片手をカウンターにつき、もう一方の手で季雨を招いた。
「座って座って、立ってないで。視察に来たわけじゃないんだから」
「中国のロボットはもう日常サービスに参加できるほど進歩してるのか? サイバーパンクの世界に来たのかと思った」
小さな冗談を言った後、季雨はカウンター前の高い椅子に座った。
「ロボットの日常サービスを実現するのは君が思うほど複雑じゃないよ。ここはアフターライフでもないし。酒に詳しい? さあ、何が飲みたい?」
「|ジャッキー・ウェルズ《Jackie Welles》」
「はは、そんなにサイバーパンクが好きなら、いいよ」
璃見真理は軽く笑いながら言い、振り返って酒棚から必要な瓶や缶を取る。
「ウォッカ、氷、ライムジュース、ジンジャービール……」
酒液は彼女の手の中で美しい弧を描き、氷はウイスキーグラスの中でチリンチリンと鳴る。
「ああ、一番大事なのは……愛をもう少し。この一杯はとても爽やかな味だよ」
彼女はカクテルの上で指を鳴らし、そしてこの酒を季雨の前に押し出した。
実は季雨は一度も酒を飲んだことがなかったが、来てしまったからには——
彼はそっと一口含んだ。アルコールの味は好きではなかったが、飲み下した感覚もそれほど受け入れ難くはなかった。
「少し辛くて、少し酸っぱい。でもとても美味しい」
「ウォッカは少なめにしたよ。君、見るからに酒に強くなさそうだから」
冷たいグラスを握り、季雨は尋ねた。
「璃見さん、君は日本人?」
「うん、日本の留学生だよ。でも上海生まれだし、ずっと上海の学校に通ってたから、日本に住んでた期間は通算しても二年もないんだ。だから……自分が日本人だって胸を張って言えるかは微妙なところだけどね」
「ご両親は?」
「え~、もうそんなに早く私の両親に会いたいの? うん、私の両親は今年任期が終わって帰国したから、私一人だけ上海に残ってるんだ」
「任期?」
「あ、両親は外交官なんだ。彼らは日本に帰ったから、私も総領事官邸を出て、ここに小さなビルを借りて住んでるの」
なるほど、高官の子弟か……
「そうか、それも大変だね……それで、今日最初に僕に絡んできたのはなぜ?」
「最初に言ったじゃん。君は当時唯一はっきりと『まさに食事を探している食客』だったんだよ。どうしても別の理由を探すなら、うん、認めるよ。君はかっこいい。ナンパしたかったの」
季雨は思わず崩れそうになった。
「ほら、そうじゃなきゃ、女の子が知らない男を家に連れて行くわけないでしょ。やっぱり少しは下心があるんだよ。君、信じられない顔してるけど、まさか女性にナンパされたの初めて?」
季雨はうなずいた。「確かに初めてナンパされた」
璃見真理は奇妙な笑みを浮かべ、季雨の耳元に頭を寄せ、話す時の唇の風が季雨の耳をくすぐった。
「じゃあ、私たちはお互いの『は・じ・め・て』を交換したんだね~」
「そんなに煽るの?」季雨は急に後ろに反った。「僕は知り合ったばかりの人とそんなことはしないよ。変なことしないで」
「ははは、純情童貞君は本当に……上海の悪いお姉さんはたくさんいるんだからさ、もっと耐性をつけとかないと、いつか私においしく食べられちゃうよ~」
「ちっ」
ほろ酔いの状態と璃見真理の時折の下ネタの中で、季雨は心地よく一杯の「ジャッキー・ウェルズ」を飲み干した。もう一杯と言ったが、璃見真理は「アルコール初心者は飲み過ぎちゃ駄目。今夜は本当にここに泊まらせるわけにはいかないよ」という理由で彼の要求を断った。
規則的なげっぷの中で、季雨と璃見真理はQQを交換した。
「これからもよく来てね」
季雨がドアを押して出る時、璃見真理はそう言い、季雨も微笑みで応えた。
バーの外には、上海の夜の狂乱が始まりつつあった。このナイトシティのネオンが夜空を色とりどりに染め上げ、サイバーパンクな人々がサービス業の中で昼間の仕事で溜まった疲労を癒やしている。そんな中、初めてアルコールに触れたばかりのほろ酔いのシルエットがひとつ、一週間前までは自分の物ではなかった我が家へと、千鳥足で帰路につくのだった。
❤️、✨,please.




