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012:空城の八角籠(上)

 採血会場から戻った後、季雨は午前中に受け取った軍訓服を広げて試着する。問題がないことを確認すると、すぐに夕食の準備に取りかかった。


 しばらくして、簡単なトマトと卵の炒め物丼が食卓に運ばれた。


 食事の最中、彼のスマホが一度震える。


 リズからのメッセージだ。


「季雨、問題が起きた」


 このメッセージを目にして、季雨は即座に警戒を強め、素早く二通目に目をやった。


「留学生宿舎に戻る途中であの騒々しいオレンジ髪の女に出くわした。今、彼女に引っ張られて部屋にお邪魔しているんだが、後で私の部屋にも来ると言っている」


 ……璃見真理がリズの部屋に行く?


「君の部屋に、正体がバレそうなものが堂々と置いてあったりするのか?」と季雨は返信した。

「ない。だがパイロットスーツとレーザー銃はスーツケースに詰めて、ベッドの下に押し込んである」

「知ってるよ。でも璃見真理は遊びに来るだけで、捜査に来るわけじゃないんだから、君の私物を勝手に漁ったりはしないだろ?」

「だが彼女、『友達の部屋に初めて行ったら、真っ先にやるべきことは友達のエロ本探しよ』と言って、今も私を連れて颯音のエロ本を探している!」


 ???


 季雨は素早く文字を打ち込んだ。「でも君のスーツケースには鍵がかかってるんだろ? たとえ璃見真理に見つけられたとしても、君が鍵を開けなきゃいいだけじゃないか?」

「それじゃ中にエロ本が入ってるって認めるようなものだ! 私の部屋のドアの暗証番号は1107。オレンジ髪の女の部屋でしばらく時間を稼ぐから、その隙にスーツケースをどこか別の場所へ移してくれ。お願い!」


 ……そんなわけで、リズの頼みにより、季雨は留学生宿舎一号棟の玄関前にやってきたのだった。


 留学生宿舎は男女でエリア分けされておらず、異性が特定のエリアに入ることは禁止されていない。ただ異性の同室居住だけが禁止されているため、季雨もリズの部屋の前まで来ることができたのだ。


「1107……」


 女の子の部屋に足を踏み入れ、後ろめたい気持ちでいっぱいの季雨は、ベランダに干されたリズのストッキングやパンツを慌ただしく一瞥しただけだった。机の上に広げられた軍事雑誌にも過剰な関心は払わなかったし、リズがベッドの上に放り出したブラジャーにも関心を払わなかった。衣装棚の中のビキニ水着にも、当然関心など払わなかった!


 ベッドの下からリズの言っていたスーツケースを取り出すと、季雨はすぐさま留学生宿舎を後にし、箱を自宅へと持ち帰った。


「明日、僕の家に取りに来てくれ」


 リズにその一通のメッセージを送信した後、彼は早々にベッドに入って眠りについた。


 彼は二つの事柄を検証しに行くつもりだったのだ。


 ……

 日光を感じ取り、すでに「意識体」の状態となった季雨は目を開けた。


 空城の存在に慣れて以来、彼にはずっと抱いている疑問があった。


 空城が現実の上海の何らかの投影であるならば、潜入捜査に利用できるのではないだろうか?


 現実では、特定の場所に潜入すれば監視カメラに捉えられてしまうが、空城の中であれば警報が作動したところで誰も咎めはしない。理論上は防犯扉や金庫を遠慮なくこじ開け、欲しい情報を手に入れることができるはずだ。


 そして空城における破壊は現実にフィードバックされることがないため、音もなく情報を取得できる。


 意識体は服を着込み、自宅の工具箱から金槌などの道具を持ち出すと、リズのスーツケースを破壊した。


 検証すべき第一の事柄——あの「紙袋怪人」がリズに与えた情報を確認すること。


 スーツケースを開けると、最も目立つ物品はリズのパイロットスーツだった。


 パイロットスーツを手で触ってみるとラテックスのような質感だったが、ツルツルとしたラバースーツの類ではない。現実のボディスーツのように着る前から一定の形状を保っているわけでもなく、パイロットスーツは布地のようにダボダボとしていた。アニメによれば、スーツを着用した後に排気ボタンを押すことで、ダボついたスーツを体に密着させることができるらしい。


 どのような排気設計がこれほど完璧で効率的なのか想像もつかなかったが、季雨としてはむしろ何らかの伸縮性のあるゴム機構のように思えた。しかしそれでも、彼はスーツから何も読み解くことができず、着ることもできないため、スーツを脇へと放り投げた。


 次はレーザー銃だ。SF感に満ちたこの道具には、今なお現実の銃器デザインの面影が見受けられた。レシーバーの後端には、残量表示の画面も付いている。季雨は銃器の安全装置らしきスイッチを試しに切り替えてから、部屋の電気スタンドに狙いを定めて引き金を引いた。


「ピュッ」


 何らかのエネルギーが集束する微かな音の後、電気スタンドには直径一センチほどの小さな穴が穿たれていた。


 レーザー銃の電池残量は約5%減っていた。


 ふむ、レーザー銃の使い方はあっさりとマスターできたが、何の役にも立たない。空城には敵はおらず、現実に戻ればスーツケースをリズに返さなければならないため、レーザー銃を使う機会はないのだ。


 スーツケースの中には靴を含む一式の衣類も入っており、微かな良い香りを漂わせていた。おそらく紙袋怪人がリズにパイロットスーツを着替えさせるために用意した応急用の変装服だろう。リズが一時的に着用した後、洗濯して再びスーツケースに戻しておいたらしい。


 服にはQRコードや製造番号など追跡可能なものは一切存在しなかった。季雨はタグに記されたブランド名と服のデザインを簡単に記憶しておくにとどめた。このようなありふれた服には同系統の商品がごまんと存在するため、購入者を逆引きで特定するのは極めて困難だ。


 最後に、スーツケースの中にあった一枚の紙。


「初心者向けチュートリアル……現実onlineへようこそ。本チュートリアルは、あなたが置かれた状況を理解し、上海で生き残る術を身につけることを目的としています……」


 紙に書かれた内容は現実世界に対する解説であり、ある意味で確かに「初心者向けチュートリアル」に間違いなかった。季雨はその中から、初めて目にする情報を一つ得た。


「上海から離れてはならない。本来現実に属さないあらゆるものは、上海を離れた瞬間に灰燼と化して消滅する……はは、僕は『本来現実に属する物体』に含まれるのだろうか?」


 上海は広大だ。一生離れなくても何ら支障はない。


 スーツケース内のすべての物品を調べ終えたが、リズが以前口にしていた「一式の身分証明書類」は見当たらなかった。おそらく別の場所に保管してあるのだろう。


 スーツケースの仕切りまで一通り確認し終え、季雨は今夜の第一の検証を完了した。


「それから……第二の検証だ」


 屋外用の靴を履いて外へ出ると、彼は血液検体の保管場所を探すべく復興島へと向かった。


 璃見真理から聞いた噂にせよ、沈彰から感じ取った違和感にせよ、いずれも「採血の目的は単なる健康診断にとどまらない」と季雨に告げていた。


 なぜ血液検体を人力で運搬する必要があったのか? なぜ採血会場に刑事がいたのか? なぜ血液検体は検査機関に送られず、一括して復興島へと運ばれたのか?


 数々の疑問から、彼は自ら確かめに行くことを決意したのだ。どうせ空城の中で当てもなくぶらつくだけなら、探索の目標を見つけたほうがマシというものだ。


 ……

 海安路橋を渡って復興島に到着したばかりの時点で、季雨はすでに微かな血の匂いを察知していた。


「どういうことだ? 復興島に屠殺場なんてないはずだが?」


 臭気から判断するに、これらの血の匂いは相当に新鮮で、硫化物やアミン類などの悪臭成分は少ない。


 血の匂いが漂ってくる廃工場エリアへと向かって歩を進めると、彼はすぐに匂いの発生源を突き止めた。


 一棟の廃棄された三階建ての建造物。


 二階から上は、この建造物の壁面と床一面に鮮血が塗りたくられており、まるでホラー映画に出てくる惨状のようだった。もしこの時、空城が昼間でなかったら、季雨も足を踏み入れて探索する気にはなれなかっただろう。


 一台の送風機が窓に向けて設置されており、まるで部屋の中の血の匂いを故意に外部へ撒き散らそうとしているかのようだった。


「なんだこれ?」


 三階の光景も二階と同様であり、現場の惨状に気分を害した季雨は、階段を急いで駆け上がって屋上へと向かった。


 屋上には数台の大型工業用冷凍庫が据え付けられており、冷凍庫を開けると、整然と並べられた大量の血液検体が彼の目の前に現れた。


「ここが『血液検体保管場所』なのか? だが一体なぜ……」


 まさか当局が邪悪な儀式でも執り行っているとでもいうのだろうか?


 運搬車の事故、人力での搬送、復興島への集積、血液検体の撒き散らし、匂いの拡散……


 点と点がつながらない……


「ヴオオオオ——!!!」


 !


 海安路橋の方角から、耳を劈くような極めて高周波の機械的な破砕音が轟いた。金属を電動鋸で引き裂くような咆哮だ。鼓膜を金槌で力任せにぶち叩かれたかのように、凄まじい音圧に季雨は即座に両耳を塞いだ。


 意識体だけに聞こえる音ではなく、眠りについている本体でさえ、一発ごとの「パン」や「ドカン」という爆発音を聞き分けられないほどの高周波の炸裂音を感じ取っていた。


 凄まじい騒音が二秒ほど持続し、空城が再び静寂を取り戻した時、季雨は突如として鼓膜を直撃した大音量による混乱の只中に取り残されていた。


「ど……どうなってる? 地震か?」


 耳鳴りと刺すような痛みのせいで、彼は一時的に耳が聞こえなくなっていた。混乱から立ち直ると、彼はすぐさま海安路橋の橋面へと視線を向けた。


 橋面は無傷であり、何らの異常も見られなかった。


 現実にいる本体にも音が聞こえたことを考えると、おそらく現実で何かが起きたのだろう。しかし、空城の光景は自分が眠りについた時点で現実とは切り離されているため、空城の中からは海安路橋で実際に何が起きたのかを確かめることはできない。


「目を覚ますべきか……いや、待て!」


 海安路橋の上には何の異常も見当たらなかったものの、橋の下を流れる復興島運河の中に、彼は水中で泳ぐ一人の人影をかすかに捉えた。


「空城の中に生きている人間なんているはずがないのに……」


 季雨は目を細め、運河の中を泳ぐその人影の輪郭を見定めようとした。


 復興島運河からこの建造物までの距離は約五百メートルほどあったが、晴天で視界が良好だったため、季雨はその人影の輪郭を見分けることができた。


 ボロボロのマント、頭上の角状の突起、そして明らかに現代の服装には属さない異世界風の装い……


「あれは……レイラ?」


『罪印狩り』の四番目のBOSS、色欲の印持者レイラ。


 季雨は夏休み中にこの大ヒットアクションRPGをクリアしており、レイラの容姿を鮮明に記憶していた。現実へやってきた二次元キャラであるリズの例を考えれば、あるいはレイラもまた同様に現実へとやってきた二次元キャラなのかもしれない。


 だが、なぜ彼女がこんな場所にいるのか? しかも見るからに満身創痍の様子で?


「ヒュ——ドン——」


 ロケット推進器の噴射音に似た音が耳元に届いた。


 水中を泳ぐその人影はそこで動作を止め、水中でしばし躊躇した後、進路を変えて復興島の方角へと泳ぎ出した。


 レイラは川の水の中を喘ぎながら東岸に向かって泳いでいく。突如として、彼女は猛然と深潜し、水面の下へと姿を消した。


 数秒後、彼女は再び水面へと浮上し、東岸に向かって泳ぎ続けた。


「何かの攻撃を回避してるのか?」


 あたかも一人芝居を演じているかのようなレイラを眺めながら、季雨は思考を巡らせた。


 空城の中に他の人間の姿は見えず、兵器や攻撃の軌跡も一切目には映らない。だがレイラの動作から察するに、彼女が何らかの脅威に対処していることは明白だった。


 レイラの振る舞いは空城の中にいる者のそれではなく、むしろ現実が空城の中に投影された何らかの現象のように思えた。他の静止した物体と同じ性質を持ち、唯一の違いはレイラが動き回っている点だけだ。


「当局が彼女を追っているのか?」


 それなら先ほどの恐ろしい音の説明がつく。おそらく何らかの重火力の砲撃音だったのだろう。


 そして血液検体、人力での搬送、匂いの拡散……


 レイラの色欲の印は「素材」を介して生物や兵器を創り出すことができる。一万人以上の血液検体は、彼女にとって抗いがたい巨大な誘惑のはずだ。


「つまり血液検体は囮か? 当局は血液検体でレイラを誘い出し、復興島で伏兵を置いて待ち伏せしていたというわけか?」


 水中のレイラの影が刻一刻と近づいてくる。季雨には彼女の右腕が何らかの暗赤色の物質によって代替されているのが見えた。


 色欲の印の能力……己の血液を用いて臨時の肉体部位を創り出すこと。


 レイラの投影がついに東岸の縁に到達し、彼女は水面を突き破って跳び出し、岸辺へと転がり出た。


 そして——


 彼女の姿が突如として消え去った。


「?」


 季雨は一瞬あっけにとられ、素早く周囲を走査した。空城の中で動く物体がレイラ一人しかいなかったおかげで、彼はすぐにレイラを再び見つけることができた。


「位置交換……嫉妬の印か?」


 ゲーム内におけるレイラの第二段階は嫉妬の印持者を喰らい、七回の「位置交換」のチャンスを獲得する。現状から察するに、彼女はすでに第二段階の状態にあるようだ。


 だが、彼女は一体誰と位置を交換したのだろうか?


 季雨がレイラが本来上陸した位置に視線を向けると、そこには誰もいなかった。


「現実の他の人間は見えない……レイラの一方的な移動しか捉えられないんだな」


 季雨の目には、四方八方に逃げ惑うレイラの姿がどこか妙に滑稽に映った。彼は完全に推測に頼ることでしか、現実で何が起きているのかを判断できなかった。


 遮蔽物の陰に身を潜めたレイラの手に、突如として一丁の小銃が現れた。


「今度は武器を奪ったのか? 嫉妬の印の交換には、武器を交換する能力まであるのか?」


 彼女は銃口を特定の方向へ向けたものの、銃火は上がらなかった。現実で引き金を引いていないのか、それとも空城が発砲現象を投影していないのかは定かではない。


「滑稽ではあるが、見ものだな」


 レイラが小銃を投げ捨て、建造物の内部へと転がり込むのを眺めながら、季雨は高みの見物を決め込んで、静かにその戦闘を観察した。


「1、2、3、4、5……」


 五回の交換能力を行使したレイラは、ついに季雨のいる建造物の下まで突破してきた。しかし狙撃銃によって撃ち抜かれたらしく、彼女は力なく血だまりの中に倒れ伏した。


「残る交換のチャンスはあと二回か、大逆転できるかな?」季雨は屋上から身を乗り出し、レイラを観察した。


 血だまりの中に倒れたレイラは、力なく顔を上げ、建造物内に自分が位置を交換できるような生物が存在するかどうかを必死で確認しようとした。


 一階、二階、三階——そして、季雨が彼女の瞳孔の中で突如として輝いた嫉妬の印をはっきりと捉えた、その瞬間……


「!」

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