36 反省点
毒刃がネコカの血脈を断つ寸前、チユの体が差し込まれた。
その豊かな胸の中心に銀色の刃が入っていった。
ネコカが目を見開く。
俺も声に至らない声で叫んでいた。
自分が刺された気分だった。
赤い吐瀉物が口の奥まで這い上がってくる錯覚があり、心臓が、全身が一気に冷たくなる。
ゴブリンの恍惚とした笑みがスローモーションで見えていた。
ぱきん、と。
予想外の音がして、俺は我に返る。
チユの胸の中央――ちょうど谷間のあたりに振り下ろされた短剣。
それが中ほどで折れていた。
刃先がくるくると宙を舞い、銀の輪と放物線を描く。
俺は真剣白刃取りという言葉と、乳圧という言葉を思い出していた。
でも、違う。
黒を基調とした修道服のどこにも裂け目はない。
もちろん、血も。
代わりに、チユの胸元には妙なものが浮かんでいた。
六角形を敷き詰めた半透明のタイル。
結界だ。
俺が受動付詩を組み込んで付与していたものが、今発動したのだ。
ドッと力が抜ける。
「きゃ……!」
「んぐ!」
ネコカとチユが折り重なるように倒れ、間延びした時間間隔が1倍速に戻される。
跳躍していたゴブリンの足が再び地を掴むより早く、
「――破ァッ!」
ガンケンの節くれだった指が槍となってゴブリンの喉を突いた。
《モンク》の武技《秘孔貫き・破》――。
体内を循環する生体エネルギーを逆流させ、肉体を内側から爆破する技。
青ゴブは熟柿みたいに砕けて草間に転がった。
「大丈夫か、チユ! ネコカ!」
すべてが終わってからモブキャラみたいに駆けつける俺の、なんたる情けなさ。
幸いにして二人は無事。
俺は盛大な安堵のブレスを吐き出して周辺の草を波打たせた。
「ケンゾーさんの結界魔法に救われました! よよよ、よかったれフ……!」
テンパってカミカミだが、チユはあどけない笑みを見せてくれた。
「悪い。俺の油断だ」
草むらや物陰に伏せ、冒険者が近づくと飛び出してくるゴブリン。
通称、伏せリン――。
ほぼすべての階層に出没する。
歯医者の看板みたいな頻度で本当によく出る。
常ならば、絶対見逃さない。
どうやら少し浮かれていたらしい。
反省だ。
思えば、ネコカはずっと警告していた。
『これはゲームではないの。現実なのよ』と。
正直、目が覚めた気分だ。
俺はゲーム感覚でこの世界をプレイしていた。
現実をゲームのように生きていた。
死んだら、死ぬ。
セーブ地点はない。
ナイフ1本で人生が終了する世界。
それはもはやゲームではなく、リアルだ。
初めて重みをもって理解できた気がする。
ネコカか、チユか……。
どちらかが死んでいたかもしれない。
愚にもつかない俺の油断と現実認識のせいで。
「……」
とまあ、俺は猛省会をしていたわけだが、ネコカもチユも俺を責めるようなことはせず、じゃあ何をしているかと言うと、二人で見つめ合っていた。
「その、……お礼を言わせてちょうだい、チユ。あなたが身を挺して守ってくれたおかげで命拾いしたわ。助けてくれてありがとう」
ネコカが素直にお礼を言った。
沖縄に雪が積もっているくらい珍妙な光景だ。
「でも、無茶はだめよ。それもヒーラー役が飛び出すなんて。いくら結界があるからって」
「あってもなくても関係ないです。わたしのわがままのせいでネコカさんが傷つくなんて許せませんから」
「……あなた、立派ね」
胸の話かな、と思った。
シリアスなシーンを茶化したがるのは俺の数多ある欠点のひとつだ。
ロクでもねえ。
ネコカはすくっと立ち上がり、チユの手を引いた。
なんだか梅雨でも明けたようなカラッとした面持ちだ。
「いいわ、チユ。あなただけは特別に人間と認めてあげる」
ずっと毒属性のしゅうとめみたいな接し方をしていたネコカが、チユを認めた。
これは一見すると、二人の関係が好転かつ前進したようにも見える。
が、チユは青ざめていた。
愕然としていた。
「人間と、認める……。え、そこからですか」
裏を返せば、そもそも人間として見られていなかったというわけだ。
どんなお小言も笑顔で聞き流す嫁も、さすがにこれには口をパクパクさせて凍りつくしかない。
そう、この猫耳トメは好転も前進もしない。
ただ毒属性から氷属性にコンバートしただけなのだ。
女同士のいびつな関係を見ているのは、素人プレイヤーのボス戦を見ているよりハラハラする。
俺は青ゴブの亡骸に十字を切っているガンケンのところに避難することにした。
こっちはこっちで頭から血をかぶり、人喰い岩の妖怪みたいなおっかなさがある。
「モンクって殺生を禁じていなかったか?」
「禁じておりまする」
ガンケンはあっさり認めた。
だが、禁忌を犯した罪の色は微塵も見られない。
「古今東西の聖職者らがなぜ独身であることを是とするか、ケンゾー殿にはわかりますかな?」
ガンケンは不器用にもニィッと笑った。
「しばしば娘可愛さゆえに道を誤るからです。ご覧のようにね」
恥じ入るでもなく、むしろ、誇らしげに握った拳が濡れたルビーのように紅々と光る。
そこには、ある種の神が宿っている気がした。
拝んでもいいかも、と思うくらいには。
「模範的な破戒僧だな」
「お褒めいただき光栄である」
さて、と俺は平手を打って傾聴を促す。
聞け、者ども。
「帰るまでが遠足だぞ。つまり、帰らなければずっと楽しい遠足だ。この勢いで第10階層のフロアボスをノシに行くか!」
「面白いボケね。さあ、帰りましょう」
「待て、伏せリンがいると危ない。総プレイ時間8000時間を誇る俺のノウハウを披露するときがきたな」
俺は小川で濡らした人差し指を空に立てた。
風向き、ヨシ!
「詠詩開始《全域/持続》終詩。――《燎原紅野》」
俺の手のひらからこぼれ落ちた赤いしずくが一瞬のうちに大火になった。
武田騎馬隊みたいな勢いで風下全域に波及していく。
緑の水平線が赤に塗り替わった。
「ちょっと何やってんのよ!?」
「赤い枯葉剤、まいてる」
「なんでよ!?」
「隠れる場所をなくせば伏せリンできないだろ?」
「そんなベトナム戦争みたいなことしなくても……」
「甘い。甘いよ、ネコカは。万が一をゼロにするのが腕の見せ所だろ」
「見せられたのは狂気だけよ……」
もうドン引きだった。
別にいいさ。
誰も死なないなら、それで。
赤から黒に変わった不毛の大地に俺たちは踏み出したのだった。




