35 影の陰
「これは、人域を超えた魔法……」
静寂を取り戻した草原に低音ボイスが響く。
ガンケンはしばし立ち尽くして、黒ずんだクレーターに小川の水が流れ込むのを見つめていた。
「ケンゾー殿、貴殿はまさか……」
何かに気づいた様子で俺を見、しかし、すぐに眼瞼を緩める。
「いや、貴殿の人となりを私はすでに存じている。いまさら、その出自で見方を変えることなどない」
意味深な発言だった。
雰囲気もシリアス。
しかし、テラテラと光る坊主頭が夏の海みたいにまぶしくて、俺は口元が怪しくなっていた。
「いやはや、恐れ入った」
とガンケンは夏の海を掻く。
「あの悪名高きアンドスキアスを一撃のもとに葬り去るとは。まるで神話の戦いよな。ムノウという噂は本当らしい」
褒めているのだろうけど、ごめん。
悪口にしか聞こえないわ……。
「ケンゾーさん、お怪我はありませんでしたか?」
半べそのチユが駆けてきて俺の手を取る。
取られた手は上下する胸のそばに運ばれ、少し息の上がったチユの、紅潮した顔が間近に見える。
その後ろに熊みたいな坊主が屹立していなければ、俺は表情をだらしなくしていたに違いない。
「この通り、怪我なんてない」
ハッキリ言って、低層域のモンスターに俺のHPバーを削り切る力はない。
秒間1%の再生能力がすべてをなかったことにしてしまう。
「あっ」
と俺は叫ぶ。
すかさずネコカが睨んでくる。
「なんの『あ』よ?」
「あ、ヤッベ。素材の剥ぎ取りできねえ、の『あ』だ」
クレーターの底に黒焦げのパンくずみたいなのが散らばっている。
アンドスキアス……だったもの。
面影?
もちろん、絶無よ。
「雷で急加熱されて、全身の水分が水蒸気爆発を起こしたのね。あれじゃ《剥取師》のスキルでも毛1本剥ぎ取れないわ」
「剥取師って無能なんだな」
「無能はあなたよ、名実ともにね」
「いや、ホントまったくもってその通りだ」
カンストしていて経験値も入らないし、素材もドロップアイテムもなし。
成果ゼロ。
終わってる。
それでも、こういう空回りがゲームの醍醐味なんだ。
俺が楽しかったから、ヨシってことにしよう。
「復活する頃にもう一回来るか。リスポーン・キルってマナー違反だっけ?」
「階層主はマナーとか気にしないはずよ。むしろ、歓迎してくれるんじゃないの。力で」
「それもそうだな。つか、復活した個体って俺のこと憶えているんだろうか。学習して強くなっていく仕組み、キボンヌ」
「そんなハタ迷惑な仕組み、いらないわ」
最大の脅威が炭になったこともあって、ネコカは安堵した様子だ。
客が帰った後の猫って感じ。
そういえば、ネコカの現在のレベルは37。
この第8階層の攻略推奨レベルは「階層数×5」で40。
ネコカにとっては少し背伸びした領域だ。
俺に言わせりゃ50階層以下なんて子供用ビニールプールみたいなものだ。
だが、ネコカには爪先立ちしないと息ができない競泳用プール。
俺は素直に陳謝することにした。
「いまさらだが、すまん。気が回らなくて。ネコカの安全圏を超過していたな」
「別にいいわ。どうせ、レベルの5倍理論が通じるのは60階層までだもの。それに安全な場所なんてどこにもないのよ。地球だってそうだわ。あのティラノサウルスでさえ絶滅した」
「ティラノサウルスには上の階層で会えるぞ。火を吐く奴にな。氷を吐くのもいる」
「まあ、おっかない!」
ネコカはひとしきり笑ってから俺から距離を取った。
湖に張った薄氷の上をそっと歩くように、少しずつ。
「私は第100階層を踏破するの。こんなところで怯えていられない。アンドスキアスにも挑んでおくべきだったわ。私、ビビったのよ。自分に負けたの」
「勇敢な奴と臆病な奴がいるのは生存戦略を多様にして生き残るためだ。ネコカはネコカらしく生き残ればいい」
「仲間一人に危険を押しつけて後ろで傍観するのは私らしい生存戦略じゃないの。次は私もあなたと戦うわ。内心ビビり倒しつつも勇敢に振る舞うのが私って人間なの!」
薄い胸を表彰状みたいに誇って、ネコカはニカッと笑った。
彼女らしいと思った。
「じゃ、次のボス戦は一緒に、――っ」
俺は言いかけた言葉を止め、目をしばたたかせた。
ネコカの影が動いた気がした。
草原に落ちた猫耳のシルエットがぬるりと。
「ネコカさん……!!」
チユが突然駆け出した。
悲鳴じみた声だった。
「ぬかったッ!」
とガンケンの胴間声が怖いぐらいに響く。
子供の頃に観た、ドラマの一場面を思い出す。
危ない、と誰かが叫び、けたたましいブレーキ音。
どん、という音。
楽しい日常が突然終わりを告げる――。
今、なぜそんなことを思い出したのだろう。
チユとガンケンが血相変えてネコカに駆け寄る。
俺はまだ何が起きているのか理解できていなかった。
なぜ二人が慌てて動き出したのか、わからない。
カサリ、と小さな音。
草の陰、ネコカの影から何か跳び出した。
青肌単角の魔物――。
小猿のような手の先で、銀の短剣がぬらりと光った。
それがゴブリンであること。
刃に毒が塗られていること。
血走った目がネコカの首筋を凝視していること。
弾けた朝露も、跳ねたバッタの羽ばたきも、その翅の薄さも、俺の動体視力をもってすれば静止画に見えた。
でも、体が動かなかった。
虚を突かれ、動揺。
ぁ、とか情けない声をこぼすだけで、何もできなかった。
毒剣はネコカの首に正確に振り下ろされた。




