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30 ネコカの谷


 夕日の最後の一片が地平の彼方に消えていった。

 オベリスク第7階層はまだ残照の中にある。

 しかし、眼下はすでに墨の海のようだ。

 崖際にちょこんと腰かけたネコカの後ろ姿は、黒っぽくぼんやりしていて、小さかった。


「隣、いいか?」


 俺は返答を聞く前にネコカの横で逆立ちした。

 足を剣のようにピンと伸ばす。


「なんで隣で逆立ちすんのよ? 普通、座らないかしら」


「ウケ狙いだ。スベったか?」


「えっと、……怖かったわ。異常行動すぎて」


「だよな」


 俺は40センチほど距離を開けて隣に腰を下ろした。


「この階層って外壁がないのね」


「マップ中央の大岩が、支柱とボス部屋と上層への階段を兼ねているんだ」


「360度の大パノラマだわ」


「どこ見ても砂漠だがな」


 ネコカは少し背を伸ばして真っ黒な眼下を覗き込んだ。


「あの明かりがヒィロポリス?」


「いや、あれはまた別の町だな。角度的にヒィロポリスは真下だ」


「このゲーム世界に別の町とかあるの?」


「あるんじゃないか。作中でもダンジョン資源を求めて西の大国から帆船が来ていた」


「でも、その国の連中、きっと今は存在しないわ。観測していないものは存在しないのよ」


「近づくと読み込まれて画面に表示される仕様か」


「そうよ。プレイヤーが観測していないものまで動かしていたら負荷が計り知れないもの」


「あの町の灯りも今は簡略化されたただのドットで、俺たちが目をつむっている間は消えているってことか」


「そ。全部偽物よ」


 そういう妄想をリアルでもしたことがある。

 俺は学校から帰ってゲームする。

 その間、クラスメイトはみんな停止しているのだ。

 時間が凍結したような空間で。

 ブラジルなんて存在しない。

 俺は一度も行ったことがないし、行く予定もないからな。

 月も裏側のないハリボテ。

 きっと俺の背中と後頭部も存在しない。

 自分じゃ観測できないから。

 内臓だってそうさ。


「でも、別にいいわ。宇宙のすべてを処理していたら、私の狭い視界まで解像度ダダ下がりでカクカクしちゃうもの」


「俺も部屋が綺麗なら満足派だ。押し入れの中やタンスの裏が汚くてもな」


「嫌なたとえしてんじゃないわよ」


 ネコカはうーんと伸びをして崖から足を投げ出した。


「緑の匂いが肺に気持ちいいわ。焚き火の音も。乱暴な風も。こんな大自然、現実では絶対に味わえないわよね」


 都会っ子ならそうだろう。

 俺はほどよく田舎っ子だ。

 雨の日は網戸にアマガエルが張り付いている。

 でも、バスは20分に1回は来るから、真の田舎民が見たら鼻で笑うだろう。

 ハンパものだと。


 そこからは他愛のない話をして、『オベ4』の話題になった。


「へー、双剣ソケコプター、なくなったのか」


「あんなの物理的に無理よ。双剣を回転させて揚力を得続けるとかね。まあ、少しの間なら飛べるらしいけど」


「無限乱舞ハメは?」


「当然廃止よ」


「《ひねり込み回避斬り》の後隙を《踏み込みダッシュ》でキャンセルして、《舞塵斬》に繋げるコンボは?」


「それもできないのよね。ゲームでも挙動が不自然だったし」


「アレないと乱戦で詰むな」


「でも、《千斬ちぎり舞》にタメがいらなくなったのよ。あれ、妙なタメがあって、使い物にならなかったでしょ」


「そりゃ背後・上下も含めた全方位攻撃で威力も高かったしな。たしか、《魔法切断・中》もついてたし」


「今は上下には届かないわね。でも、《跳躍縦斬り》のモーション中なら縦回転で出せるのよ。敵の魔法に正面から突っ込むの楽しいわよ。千斬ちぎれた魔法の断片が粉々になったステンドグラスみたいでね」


 高揚した声が暗黒の谷間に響いた。

 ハッと我に返り、ネコカは苦笑気味に頬をぽりぽり。

 なんだかんだ言ってゲーム自体は好きなんだろうな、こいつは。


「ネコカって『オベ4』やるタイプじゃないよな」


「似合わないかしら」


「ヤンキーがピアノ弾いてるくらいには」


 少し間が開いて、ため息が聞こえた。


「……私の青春は勉強ばっかりだったの。エリートになりたかったから。根を詰めすぎて成績は頭打ちで、そんなときよ。友達がゲームを教えてくれたの。夢中になったわ。私が知らない世界がそこにあったから」


 優等生が堕落した瞬間である。

 と思った俺の心の声は見事に伝わってしまったらしい。

 魔爪みたいな目で睨まれた。


「ええ、認めるわ。私はゲームが、『オベ4』が大好きよ。すっごく面白いわ。現実を忘れてしまうほどに。だから、怖いのよ。根無し草の気分。わかる?」


「俺、生まれたときから根がない性分でな。根性なし的な意味で」


 そうね、と言われた。

 そうだ、と返す。


「ケンゾーはなんで堕落したの?」


「俺は昇華と呼んでいる。それはともかく、俺がゲームを好きなのはアレだな。平等だからかな」


「平等?」


「ゲームって初期条件がみんな同じだろ。あらゆる機会が均等に分配されている。それでいて単一規格というわけでもなく、プレイヤーの数だけ遊び方がある」


「……」


「そりゃゲームにも才能はあるし、頭のいい奴、要領のいい奴で差はつく。でも、少なくとも、みんな五体満足だ」


 俺は足を組み替えて、右足をさすった。


「生まれたときからこいつはヘソ曲がりで、俺を走らせてくれなかった。駆けていくクラスメイトの背中がだんだん遠くなっていくのを俺はいつも見送るしかなかった」


 俺がアジ寄りの構成を好むのも、今にして思えば現実世界のコンプレックスからかもしれない。


「ふーん。何も考えてない顔して、ちゃんといろいろ考えていたのね」


「ゲーマーは常に思考をフル稼働している。その対象が内向きなだけだ」


 俺はごろんと体を横たえ、夜光石がホタルみたいに輝く天井を見上げた。


「俺はこの世界、好きだよ。大好きなゲームの世界だから」


「私は嫌い。ゲームは好きだけど、それは現実と地続きだから楽しめるのよ。行ったが最期。二度と帰れない遊園地なんてごめんだわ」


「帰らなきゃいけない遊園地のほうがごめんだ」


 このへんは見解の相違だな。


 そこからしばらく風の音だけが聞こえた。

 黒い谷の呼吸だ。

 俺たちを奈落に吸い込もうとしているようにも思えるし、飛行機の音っぽくも聞こえる。

 目を閉じて聴いていると、不意に花の匂いがした。


「……」


「……」


 なんか知らん。

 なんだか知らんが、ネコカが俺に覆いかぶさっていた。

 熱っぽい顔で。

 細い指が伸びてきて、俺の乳首に「の」の字を描く。


「え、やめてくれる?」


「あなた、Lv.300とか言っているけど、結局はただの男の子なんでしょ? あんな作り物女より私のほうがいいわよ。本物だもの」


 ネコカの指が軟体動物みたいに絡んでくる。

 その指が震えていなかったら、このまま雰囲気に呑まれていたかもしれない。


「興ざめだ。柄にもないことするなよ」


 押しのけつつ、俺はネコカを向いてあぐらを組んだ。

 腕も組む。


「ネコカは不安なんだろう。俺がシスターエプロン美少女にうつつを抜かして、ネコカとの約束を反故にするんじゃないかって」


 焚き火に照らされた泣きそうな顔がこくりと頷く。


「普通に考えてみろ、な? わかるだろ? ゲーマーがグランドクエストを反故にするわけないだろ。最後は華麗に全クリするんだ」


「わからないわよ。普通」


「まあ、それもそうだな……」


 だが、ひとつだけ確定的なことがある。


「俺がクリアできなかったゲームなど存在しない。ネコカはいずれ必ず塔のてっぺんにたどり着く」


 俺はにんまり笑って頷いた。


「謎の説得力ね……。経験に基づいてそう」


「基づいていますとも!」


「ふーん。じゃあ、全部私の空回りね」


 ネコカは半べその赤ら顔を膝の間にうずめた。

 目だけ出して睨んでくる。


「攻略対象を不安にさせたあなたが悪いのよ」


 恋愛シミュレーションゲームじゃない。

 攻略対象はどっちかと言えばオベリスクだ。

 と思うが、面倒なので言わない。


「女の子は比べられるのが嫌いなんだから。……いいえ、違うわね。比べられたうえで下に見られるのが嫌いなんだわ」


「似たようなことをチユにも言われた。悪いな。ゲーマーは比較・検証が好きなんだ。最適解もな」


「ケンゾーの最適解って?」


「今んとこネコカを無事ピラミディオンまで送り届けることだ」


 臆面もなく真正面から言い切ると、ネコカはやっと顔を上げてくれた。


「ごめんなさい。私だいぶ最低だったわよね。雰囲気を悪くしている自覚はあるの」


 あれだけ毒をまいて無自覚だったらドン引きしていたところだ。


「ええ、そうよ。全部あなたの言う通り。私はあなたを取られるんじゃないかと思ってチユに辛く当たったの。ただの嫉妬よ」


「おっ」


「なんの『お』よ?」


 いやいや、なんでも。


「私、最低だったわ」


 そうとも言い切れない。

 俺もゲーム時代はNPCとの会話を流し読みしていた。

 連打で会話をパパパパッと進めることもある。

 無駄話の多いNPCにはイラっとするし、しゃべっている最中にブッチとかも珍しくない。

 実際の人間に置き換えると無礼すぎる態度だ。

 殴られても文句は言えないほどに。


 結局、NPCをどう認識するかだと思う。

 本物の人間と見るか、リアルな人形と見るか。

 人間でないものを人間として扱う行為は広範に見られるが、いずれもどこか呪術的だ。

 それが人を模していても、人とは本質的に違う。

 嫉妬なんて単純なものではない。

 ネコカの目にはチユが不気味の谷の住人に見えているのかもしれない。


「明日からちゃんと接するようにするわ。チユはいい子だと思うし」


「相手がいい子であることは、ネコカが塩加減を変える理由にはならないと思う」


 作り物の態度にも不気味の谷はある。

 塩を砂糖味にしたところでおいしいと思う奴はいない。

 素が一番ってことだ。


「明日からもツンツンしたらいい。でも、チユが本気で困っていたら、そっと寄り添ってやれ」


 足跡は見つかったことだし、明日にはおそらくチユパパに追いつける。

 その生死にかかわらず、だ。

 ネコカもその旨、ちゃんと理解しているようだ。


「わかったわ」


 と使命でも抱えたように頷いた。


「でも、ツンデレは得だよな。たまにデレるだけでもてはやされて。たまにいいことをしただけでベタ褒めされるヤンキーみたいだ。ネコカってヤンキーだよな」


「よくわからないんだけど、そのヤンキーって、もしかして、こういう爪で刺してくる連中のことかしら?」


 グサァァッ!!

 とケツをぶっ刺される俺。

 ホニャアアア、とかマヌケな悲鳴が谷間にこだまするのだった。


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