第五章 灰の夜
第五章 灰の夜
あの日を境に、俺は変わった。
いや、正確に言えば、俺の中にあったものが姿を変えたのだ。恐怖や絶望が消えたわけではない。それらは今も、俺の体の奥に澱のように沈んでいる。だが、その澱の上に、俺は新しい何かを積み上げ始めていた。観察、記憶、そして計画。
作業場で隣に立つ初老の男──彼は自分を「88番」とだけ名乗った──との会話は、それから少しずつ増えていった。看守の目を盗み、短い言葉のやり取りを重ねる中で、俺は施設の内情を、断片的にではあるが理解していった。
「この施設は、年に一度、外部の監査が入る。」88番はある日、そう囁いた。「表向きは『適正な運営がされているか』を確認するためのものだ。だが実際は、書類上のつじつまを合わせるだけの茶番らしい。」
「監査官は、施設の内側で本当に何が行われているか、知らないのか。」
「知らないふりをしてるだけかもな。あるいは、本当に知らないのか。俺にも分からん。」
その話を聞いて、俺の中である考えが芽生えた。もしその監査官に、この施設の実態を直接伝えることができれば──あるいは、その場で騒ぎを起こし、外部の目をこの施設に引き寄せることができれば。
「監査はいつ来る。」
「次は、確か来月の頭だと聞いている。」
一ヶ月。短いようで長い時間だった。だが、俺にはそれだけの猶予があるということでもあった。
その日から、俺は少しずつ、監査の日程、施設の警備体制、看守の交代時間、監視カメラの死角についての情報を集め始めた。88番は多くを語らなかったが、彼なりのやり方で、俺に必要な断片を渡してくれた。時には、配膳係の女性が、看守の巡回ルートについてのちょっとした噂話をこぼしてくれることもあった。
俺はそれらの情報を、頭の中だけで整理した。紙に書き残すことはできない。見つかれば、それだけで俺の計画は水泡に帰す。
夜、部屋にひとりでいるとき、俺はよく、あの規則の書かれた紙のことを思い出した。「一石四鳥」という言葉を、施設長は誇らしげに口にしていた。罰則と報酬、そして少子化対策。国家はそのすべてを、俺たちの体と尊厳を犠牲にすることで実現しようとしていた。
──それを、誰かに知らせなければならない。
俺のしたことは、償われるべき罪だ。それは今も変わらない。だが、償いという名の下に、また別の人間の尊厳を踏みにじる制度があっていいはずがない。俺がここで見て、味わったことを、俺の中だけに閉じ込めておくわけにはいかない。
「……お前、本気か。」
ある晩、88番が小さな声で尋ねてきた。
「本気だ。」俺は答えた。「一人じゃ無理かもしれない。でも、やらなきゃ何も変わらない。」
88番はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「……分かった。俺にできることは、多くない。だが、情報を集めることぐらいはできる。」
その夜、俺は初めて、灰色の絶望の中に、小さな光が灯るのを感じた。まだ何も成し遂げてはいない。だが、俺はもう、ただ耐えるだけの存在ではなくなっていた。




