(7)捕食
23時45分。
テレビの音量を大きくして、面白くもないニュースを延々と流し続けなければ狂ってしまいそうだ。小さな音が部屋の隅から聞こえてしまったら、何もかも終わる。
私たちはお風呂に入る気分にもなれず、ずっと床で向かい合ったまま鏡を握りしめていた。朝川の大きな小判型の手鏡と、地元の駅員さんからもらった小さな鏡が二つ。いつでも外に出て逃げられるように、ホテルの人には悪いけれど運動靴をはかせてもらっている。
その時が来たら、鏡を向ける。
何度も頭の中で呟いて、鏡を強く握りしめる。
夜明けまであと5時間。眠っていればあっという間の時間が、とてつもなく長い。
不意に、スカートのポケットに入れていたスマホが震えた。私は悲鳴をあげそうになりながら、スマホの画面を確認する。
非通知だ。
「出る?」
私が迷うと、朝川は大きくかぶりを振った。
「無視しよう」
「でも……お父さんかもしれない」
「家族の電話には出ちゃダメだよ」
「……うん」
しばらくすると画面から文字が消え、数秒ロック画面を写した後に暗くなった。
しかし、また数秒後に電話がかかってくる。
辛抱強く流れ続ける着信音を聴いていると、私は恐怖とは全く別の感情が沸き上がっていくのを感じた。
私は親指を赤いボタンの上で彷徨わせながら、おずおずと顔を上げた。
「朝川……」
外の声が聞きたかった。相手が誰であっても、今この現実を忘れられるなら何でもいい。
朝川は私の目を見て黙り込むと、私の手からスマホを掬い取った。
「もしもし」
じっと沈黙が続いた後、ぼそぼそと男性の声がした。
朝川は驚いたように私を見て、嬉しそうに笑った。
「はい。今代わります」
そうして何の説明もなしに差し出されたスマホを、私は躊躇いがちに受け取った。
「も、もしもし」
『佐久間。元気か?』
「……先生?」
一瞬誰だか分からなかった。担任の声を電話越しに聞くのは初めてで、知らない男の人かと思った。
『元気ないな。ちゃんと食べたのか? ホテルには着いたか? 大阪楽しんでるかー?』
私は唾を飲み込むと、じわりと熱くなる目を閉じながら大声で言った。
「楽しんでるに決まってるじゃん。なすびは? 今日も残業なの?」
『毎日残業に決まってるだろ。お前らのテストの採点まだなんだよ』
「それって三日前のテストでしょ? 明日返却のくせにサボりすぎー」
私は笑いながら通話をスピーカーに切り替えた。それからスマホを自分と朝川の間に来るように床の上に置き、部屋のマットの上に寝そべった。
「なすびも今からこっちに来なよ。たこ焼き美味しかったよ」
『修学旅行で散々行ったよ。あ、そうそう、あそこの店行ったか? グリコの近くの』
「行った行った! 店員さんが一個オマケしてくれた!」
『はー? 俺はほぼ毎年行ってるのに一回もしてもらえなかったぞ!』
「だって先生愛想悪いじゃん」
『でも授業は楽しいだろ』
「全然?」
『可愛くないな!』
軽く怒った先生の声が懐かしくて、私は朝川と一緒に声を上げて笑った。授業中にからかったら、先生は大体こんな風に声を荒げて、ファイルや名簿で頭を叩いてくる。今も先生が目の前にいたら叩かれていたかもしれない。それを見て笑った生徒も、軒並み叩かれるのが恒例だった。
学校は今頃真っ暗だろう。唯一職員室から明かりが漏れていて、デスクに向き合う白衣の先生の姿がありありと想像できた。
「先生……」
『なんだ?』
優しい声がする。
夜に忘れ物を取りに行ったとき、私は暗い廊下から職員室の中を覗き込んだことがある。あの時も先生は仕方なさそうに笑って、私を缶コーヒーと一緒に出迎えてくれた。
あの日から先生は、私の一番大好きな先生だ。
「先生、寂しい」
すんなりと出てきてしまった本音は、先生にぶつけるには少し重かったかもしれない。それでも先生はちゃんと返事をしてくれた。
『お前の大好きな朝川がいるだろ』
「うん。でもやっぱり学校に行きたい」
電話越しに息をのむ気配がした。それから震えるような吐息がして、やけにはきはきした先生の声がした。
『今年の十月。今度はみんな一緒だ』
「……うん」
修学旅行の初日は京都、そのあとは大阪へ。帰りに奈良の鹿を見て、みんなで帰る。自分と同じ制服を着た生徒が、あの新幹線を埋め尽くすと思うとなんだかおかしかった。
『……そろそろ切るぞ。頑張れよ、佐久間』
「うん。ねぇ先生」
『うん?』
「ありがとね」
『おう。……帰ってこいよ。またな』
声が途切れて数秒、まだ通話ボタンは動いている。耳を済ませれば先生の声がまた聞こえてきそうだ。
私は震える指先で通話を終わらせた。
真っ暗になった画面にホテルの天井が映り込む。私はスマホを回収すると、時間を確認した。
もう少しで日付が変わる。
ぎゅっとスマホを握りしめながら、私は覚悟を決めて朝川へ言った。
「朝川。始発で帰ろう」
「お土産はいいの?」
「あんなの通販で買える」
「身も蓋もない」
そう言いながらも朝川は笑っていた。帰れたらいくらでもちんすこうを買えばいい。先生にも小雛にも、両親にも大量に送り付けるのだ。私のバイト代も使い切ってやろう。
また着信音がした。私は特に警戒もせずに画面を覗き込んだ。
『不明』
「またなすびかな?」
「かもね」
私と朝川は顔を見合わせて、スピーカーのままボタンを押してみた。
激しいサイレンの音が響き渡る。
部屋が震えるほどの大音量で私は腰を抜かした。朝川は蒼白になってスピーカーを消し、同時にスマホの音量も一気に下げた。だが通話ボタンだけはどんなに連打しても消えてくれない。
「な、なに?」
両手を耳から離しながら恐る恐るスマホに近づく。音量が下がってもなお、それは不穏なサイレンの音をかき鳴らし、徐々に画面の裏側から迫ってきている。
なんの根拠もないのに、私はスマホから巨大な何かが飛び出してくるような予感がした。
ふいに、座り込んだ私のスカートの裾から黒い煙が立ち上った。
スカートだけではない、部屋のいたるところから、埃のようなぼろ布がずるずると地面を這って私の目の前に集まっていく。球状に圧縮されていくぼろ布の表面には無数の顔が浮かんでいた。
球体から不定形の手足が伸びた。風船の中に閉じ込められているみたいに、ぐるぐると四肢が蠢いている。
やがてそれは胴体を作って、おぼつかなく私のスカートの上に立った。
頭が大きく膨らんだ。
私の貌。
笑っている。
私の腹をよじ登ってくる。セーラー服の襟に足を引っ掛けて、顔が近づいてくる。
鏡。
黒。
口が開いた。
「佐久間!」
ぐんと後ろから腕を掴まれた。
立ち上がった瞬間、黒人形が上着から転げ落ちて激しく床に叩きつけられる。強く後ろへ押し込まれた私は、尻餅を突きながら前を見上げた。
朝川の黒いスカートが翻り、大きな手鏡がきらりと光った。
黒人形は鏡を見てぼろぼろと風化しながら崩れ始める。このままいけば、朝の時のように消えてくれるはずだ。まだ手足が動いて私に向かってくるけれど、いつかは消えるはず。
だが、いつまで経っても黒人形は動きを止めない。鏡を向けているにも関わらず体の崩壊も止まった。
チリトリは。
ホウキで掃かなきゃ。
鏡を向けて。
「立って! 立ってッ!」
朝川に乱暴に腕を引っ張られ、関節が鋭く痛みを発した。
私はヘナヘナと腰が抜けたまま、朝川に何度も引っ張られる。鏡で倒さない、いや、倒せなかったのだ。立ち向かおうとしていた意識が、徐々に逃げる方向へシフトしていく。
朝川が重いドアを蹴飛ばし、凄まじい音が響き渡った。
広い廊下から、エレベーターの前へ。
ボタンを連打するが、エレベーターの数字はのんびりと移動している。この階に到着するのはまだまだ先になる。
すぐに朝川は私の手を掴み直して走った。
廊下が暗くなった。
黒人形がぼたぼたと天井から降ってくる。
視界の端を巨大な黒い腕が横切った。私は潰れそうな心臓を無理やり膨らませて、必死に息を吸った。
私は長い悪夢を見ているだけだ。黒人形に捕まって初めて目が覚めるのだ。自分の部屋を出たら両親が朝食の準備をしていて、学校に行って、そうしたらまた変わらない毎日に戻れるんだ。
背後から伸びた黒い腕が、弾丸のように私の肩を叩いた。衝撃で呼吸が飛ぶ。夢ならここで覚める。明日の朝になっている。
息が苦しい。足に力を込めなければ走れない。夢だったら、こんなに思い通りに体を動かせない。私はただの女子高生で、運動も得意じゃない。そんな私がこんな目に遭うわけがない。アニメやドラマの主人公じゃないのに。
主人公じゃないのなら死んでしまう。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
声がした。
私の口が勝手に動いている。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 許してください許して! お母さん! 助けて! 誰か助けて!」
廊下に並ぶドアは全て沈黙している。人の気配もない。
朝川の白いセーラー服だけが私の前で暗い廊下を走っていた。
非常口の蛍光緑をくぐり抜ける。
ドアを閉める余裕はない。
二人で逡巡してすぐ、薄暗い非常階段を駆け降りた。
私の網膜に焼き付いた非常口のピクトグラムが視界を駆け抜けた。私はそれを追いかけるように後ろを見ようとする。
「早く!」
朝川が甲高く叫んだ。
すぐに前を向く。
後ろを見てはいけない。もうあと数センチで捕まれるかも。頭を握りつぶされるかも。嫌な想像をしてしまって、背筋から汗が噴き出した。
不意に踊り場の階段が目に入る。そこには巨大な鏡が壁に貼り付けられていて、駆け降りる私たちの姿が写っていた。
そして、私の背後で巨大な黒い壁が迫り来るのも見えてしまった。壁の中にはみっちりと、私と同じ顔が蟻の群れのように蠢いていた。
「いや、いやぁ!」
私は手に握っていた鏡を思い切り背後へ投げつけた。
だが、ネームプレートに入る程度の小さな鏡では全く怯んでくれなかった。むしろ、投げるために伸ばした私の腕は黒い壁に掴まれてしまった。
ぐんっ! と全身を引き止められた。
朝川と繋いだ腕が大きく軋み、私の身体が綱引き状態になる。
私の喉から悲鳴が迸った。
朝川が聞いたこともない声で叫んでいる。彼女は木を揺らす猿みたいに暴れて、手鏡を何度も黒い壁に突きつけている。だけど黒い壁は全く動じず、みるみる私を飲み込んでいく。
壁の中に消えた私の腕から、今まで感じたことのない激痛が走った。腕が食べられている。消化液をかけられて、溶けた指がほかの指とくっつきながら小さくなっていく。
万力のように締め上げてくる黒人形は、朝川ごと私を数メートル上まで持ち上げた。
私の片腕に朝川の全体重がのし掛かる。朝川のネイルが深々と私の皮膚を抉って、腕が千切れそうだった。
私は涙と鼻水にまみれながら、彼女の痛みに強く応えた。
握り合った手が血で濡れて滑る。
だが、腕が耐え切れなくなる前に、黒い手が朝川まで絡め取った。
このままでは彼女まで。
朝川の顔に一瞬怯えが過ぎる。しかしいつまでも腕を離そうとしない。そうしている間に、みるみる私たちは黒い腕に包まれていく。
私は、自分でも信じられないほど全身が震えていた。痛すぎて意識が朦朧として、冷や汗が止まらない。なのに腹の底が煮え繰り返って、目の前が真っ赤になって仕方なかった。
だから、彼女の腕に唾を吐きかけた。
「!?」
一瞬だけ朝川の腕が緩む。私はその瞬間、強引に彼女の手を振り解いた。
一メートルほど浮かび上がっていた朝川は、足首を変な方向へ曲げながら階段を転がり落ちていった。
すぐに起き上がった朝川は、遥か上の私を見上げて怒鳴っていた。
その声を聞く暇もなく、私の頭は黒い腕の波に巻き込まれた。
口や鼻から、ぼろ布の塊が雪崩れ込んでくる。顔に張り付いた黒人形を引き剥がそうとしても、元から顔の一部だったみたいに一ミリも剥がれなかった。どんなに息をしようと喉を動かしても何も吐き出せない。
空気を残したままの肺の中に機械的に埃っぽいものが押し込まれていく。肋の下で鋭い痛みがして、急に頭がぼんやりした。
こめかみで血管が暴れている。頭が痛い。首の後ろが痺れる。皮膚が溶ける。
だんだん感覚が混ざり合って、どこが痛いか分からなくなる。
目の前が暗い。
水底のような音に呑まれる。
沈んでいく。
電子音がした。
誰かが電話に出ている。
『あいつが──時も──が鳴っていた』
知っている声なのに、知らない人の声かと思った。
つい数時間前も、似たようなことを思った気がする。
『こ──は電話で──いるんだ。だから──も──死──』
『──俺が連れて行く』
水っぽい何かが割れる音がして、瞼の裏が赤くなった。




