(8)おかえり
「なすび先生、おはようございます!」
私の姿を見るなり、先生は驚いた顔で廊下から走ってきた。
「佐久間! もう平気なのか!?」
「おかげさまで! なすびが電話したから無事戻ってきましたー!」
敬礼のポーズを取りながら私が笑ってみれば、先生は釣られるようにケラケラ笑って、私の頭を乱暴に撫でた。
「よくやった。頑張ったな。クラスのみんなも待ってるぞ!」
「はーい!」
私は後ろを振り返った。そして、潰れた上履きの踵を伸ばしながらけんけんで追いついてきた朝川に手招きした。
「ほら早く。マフィン腐っちゃう!」
「もう腐ってるんじゃない?」
「いいから! ちんすこうも腐っちゃう!」
言いながら手提げに入れたお菓子の箱を軽く振ると、先生がぎろりと私を見た。
「校内にお菓子を持ち込むな!」
「いいじゃん先生! 無礼講ってやつ!」
「まさか教室で飲み会でもするつもりか?」
「あれ、もしかして意味違った? じゃあ最後の晩餐で」
「それも違う!」
名簿で頭を叩かれて、ぺしん、と小気味良い音がした。額から離れていくボードをむっと睨みつけていると、視界の端で先生が深々とため息をついた。
「まぁ、今日だけだからな」
「さすがなすび!」
「なすびって言うな」
「まぁまぁ、細かいことで怒ると禿げるよ? 後で先生にもお土産あげるから」
そう言って妖艶に笑って、ふと私は思い出した。
「そうだ。尾北も呼んでいい?」
「誰だ? 別のクラスのやつか?」
「違うよ。新しいお友達! いわゆる戦友ってやつ!」
「ああ、その人なら来てるぞ」
「え?」
学校なのに?
私は振り返って、リノリウムの廊下の先を見つめた。
尾北はそこに立っていた。座った姿しか見たことがないから、背が高い尾北に私はどきりとした。
「尾北! 久しぶりじゃん!」
「ああ。一日ぶりだな」
黒い服を着た尾北は、なぜか朝日を浴びても黒いままだった。彼の周りだけが薄暗い気がする。
私は先生に尾北を紹介するべく、満面の笑顔で後ろを向いた。
「あれ」
誰もいなかった。廊下も迷彩画のように輪郭が薄い。光に溶けているようだ。
尾北を見る。彼の周りだけが夜だ。はっきりと景色が見える。
気づいた瞬間、カメラのピントが合うように徐々に物の輪郭が明瞭になっていく。
気づけば私は新幹線の中だった。
「──あ」
病的な白に囲まれて、私はひどい吐き気に襲われた。
足から力が抜けて、床に太ももが触れた。
夏なのに刺すように冷たかった。
私の腕は、爛れていない。喉の奥にも焼けつくような痛みはない。自分の体が元通りになっているのが無性に怖かった。
虚ろに瞳を動かすと、網膜に焼き付いたピクトグラムが視界を駆け抜ける。新幹線の四角い窓には濃密な夜が張り付いていた。
「……尾北」
「おかえり」
遮るように尾北が言う。
「日付変わったぞ」
一瞬、言われた意味が理解できなかった。
数秒かけて、私はやっと新幹線を降りる間際の約束だと思い至った。
最後の電話の声は、きっと。
「覚えてくれてたんだ」
私は顔に熱が集まるのを感じながらはにかんだ。尾北は穏やかに微笑み返して、私のそばに歩いてきてくれる。
「俺はてっきり、君から電話が来ると思っていた」
「えへへ、私もそのつもりだった」
私は笑いながら立とうとしたが、やっぱり立てなかった。見かねた尾北が大きな手を差し出してくる。その動作の一つ一つが優しくて、どうしようもないぐらいくすぐったかった。
私は硬い皮膚に手を重ねるや、尾北に力強く引っ張られて驚いた。
「うわ! あはは! 全然力入れてないのに立てちゃった!」
「君が軽いからな」
尾北の手は冷たかった。
私はまた怖くなったが、その手を強く握りしめたままおちゃらけた。
「私、五十キロあるよ。米俵と同じぐらいある」
「軽すぎる。夕飯は食べたのか?」
「お母さんみたいなこと言うね」
「俺はそんな歳じゃない」
私はケラケラ笑って、でも笑い続けていられなかった。
さっき見た先生も朝川も、夢だった。
どうせなら学校で一日を終えて、家に帰って、家族に尾北を紹介すればよかった。そうすれば目が覚めるのももう少し後だったかもしれない。マフィンも食べたかった。ちんすこうも食べてみたかった。本物のお母さんの豚の角煮を食べたかった。
下瞼が熱くなって、ぶわりと視界が潤んだ。
笑わないと。朝川に心配をかけないために、ずっと明るく振舞ってきた。尾北にもそれができないわけがない。そうじゃないと私らしくない。
なのに、頬を持ち上げると余計に涙が止まらなくなった。
私は仕方なく、ぶさいくな顔で尾北を見上げた。
「尾北。広島どうだった?」
「いいところだった」
「どんなところが?」
「教授みたいな質問の仕方をするなぁ」
鼻声になった私に、尾北は変わらず接してくれる。私はセーラー服の袖で乱暴に目元をぬぐって、吹っ切るように大声で言った。
「じゃあ、今日から私が教授になる!」
「こんな若い教授は初めてみたよ」
優しい声で、尾北の親指が私の目元を拭った。たったそれだけで、ぎゅっと胸の辺りが締め付けられる。こんな感覚は尾北が初めてだった。新幹線で会った時から、なんだかこの人がずっと好きだった。吊り橋効果でも構わない。もっと一緒に話をしてみたかった。
私はいっぱいの幸せを噛み締めながら、握ったままの尾北の手を、自分の頬にあてがった。
尾北が息を呑む気配がする。
彼だけは夢じゃなく、本物だ。
私は彼の冷たい手のひらに擦り寄りながら、小さく囁いた。
「ねぇ、終点って、どうだった?」
「この体制のまま聞くのか」
「いいじゃん。誰も見てないよ」
「本当に君は、とんでもない子だよ」
するりと尾北の手が抜ける。
私は頬に残った冷たさを指先でなぞりながら、頭一つ上にある尾北の顔を見上げた。
目が合う。
窓際で見た時と同じように、尾北の瞳はキラキラしていた。その目尻がゆっくりと和らいで、私をまっすぐ見つめる。
薄い唇が、そっと言葉を紡いだ。
「また会えた時に話そう」
「……ずっと一緒じゃないの?」
てっきり自分を迎えに来てくれたのかと思っていたのに。
尾北は私の期待とは裏腹に、大きく一歩後ろへ下がった。
「君は先に行くんだよ」
追いかけようとしたのに、毅然とした低い声にさえぎられて動けなくなってしまった。行き場を失った手を彷徨わせながら、私は尾北の太い首元を見つめた。
「私、これからどこに行くの?」
一拍置いて、尾北は目を伏せた。
「大丈夫。俺も後で追いつくよ」
『──まもなく、終点』
不吉なアナウンスを聞いて、私は一緒に行こうと言えなかった。尾北は何もかも分かっているかのように、柔和な笑みのまま静かに私に手を振った。
「いってらっしゃい」
突然甲高いブレーキ音が響き渡り、私だけが慣性に従って後ろへ引っ張られる。
「尾北!」
尾北は、激しい揺れの中でも微動だにしていなかった。私だけがありえない速度で後ろへ吹っ飛んでいく。壁があるはずの場所を通り過ぎても、私の背中はどこにもぶつからないまま果てもなく引っ張られていく。
尾北は白い車内に取り残されたまま、暗闇の中に遠のいて、点になって、消えた。




