第7話 紅蓮の騎士
あの雨の日の馬車の一件以来、ヴェロニカ様が私をお昼時間に誘ってくることはぱったりとなくなった。
どうやら私を自分の都合の良い人形として懐柔することは諦め、別の手段に切り替えたらしい。それでも、廊下や中庭ですれ違ったときには、何事もなかったかのように「あらアリス、ごきげんよう!」と明るい笑顔で声をかけてくるのだ。
彼女が裏で何を考えているのかが全く見えず、私にはそれがかえって不気味で仕方がなかった。
そんな落ち着かない日々のなか、今日の午後は「騎士学科」と、私の所属する「魔導学科」との合同演習授業が行われることになった。
私たちの学科が座学や純粋な魔法の行使を専門とする一方で、騎士学科は魔法を組み込んだ剣術や体術、さらには地形を生かした高度な戦術や騎士道を学んでいる。体つきからして私たちとはまるで違う、未来の国防を担うエリート集団だ。
「これより、両学科合同の陣地取り模擬戦を開始する!」
教官の豪快な声が演習場に響き渡る。
授業の内容は、生徒を二つの組に分けた大規模な模擬戦だった。主に前線で戦うのは騎士学科の生徒たちで、私たち魔導学科はその後ろから魔法で援護を担当する。
それぞれの陣地の最奥に突き立てられた「旗」を奪い取った組が勝利となるルールだ。
組み分けが発表され、私は指定された自陣の後方待機場所へと向かった。
すると、同じ組になった魔導学科の女子生徒たちが、わざと私に聞こえるような声で嫌味を言い始めた。
「はぁ、平民と同じ組になるなんて最悪。おまけに向こうの組にはレオン様がいるんでしょう?もう負け確定じゃない」
「ちょっと、そんなこと言って、ヴェロニカ様にチクられたらどうするのよ?」
「別に直接いじめてるわけじゃないし大丈夫よ。だいたい、あの平民、最近ヴェロニカ様とお昼を一緒に食べてないみたいじゃない。御用済みになったんでしょうね。こんなことで文句言われたら、今度はこっちから倍返ししてやるわ」
くすくすと意地の悪い笑い声が鼓膜を震わせる。以前の私なら、ただ俯いて嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかっただろう。
けれど――あの独善的な公爵令嬢と真正面からぶつかり合った今の私は、以前の私とは違っていた。
私は振り返り、彼女たちの目を真っ直ぐに見据えた。
「心配しなくても、ヴェロニカ様には何も言いませんよ。そんなくだらないお喋りをしていないで、模擬戦に集中してください」
「はあっ!?平民の分際で生意気なこと言って――!」
女子生徒が顔を真っ赤にして掴みかかろうとした瞬間、空に開始の合図の魔導花火が打ち上がった。
同時に、前線からは地響きのような雄叫びと、激しい風を切る音が響き渡る。怒号と衝突音が演習場を支配し、もう私にかまっている余裕などなくなったようだった。
戦況は一瞬で動いた。前線では木製の剣や槍が激しく打ち合う音が聞こえる。生徒たち全員にはあらかじめ負傷を防ぐ「防護魔法」が付与されているとはいえ、まともに衝撃を食らえば大怪我は免れない。
「おい!後ろの魔導学科!援護はどうした!早く遮蔽を出せ!」
前線の騎士学科の男子生徒から悲痛な叫び声があがる。
しかし、魔導学科の生徒たちは日頃の怠惰が祟り、実戦となるとろくに魔法を発動できない者ばかりだった。怯えながら放たれた小さな火球や風の弾は、敵の騎士学科の木剣によっていとも簡単に叩き落とされていく。
「ハッハー!ぬるい、ぬるすぎるぜ!魔導学科ってのは、まともに魔法も使えねぇお子様しかいねぇのか!」
前線で味方の盾を次々と叩き割り、圧倒的な力で突っ込んでくる一人の男がいた。
燃えるような鮮やかな赤髪。制服の上からでも一目でわかる、限界まで鍛え上げられた強靭な肉体。その長身から繰り出される容赦のない一撃一撃が、こちらの防衛線を瞬く間に壊滅させていく。
「レ、レオン様だ!こっちに向かって突っ込んでくるぞ!」
「ひぇっ、かなうわけねぇ!」
味方の男子生徒たちは武器を放り出して散り散りに逃げ出していく。先ほどまで私に文句を言っていた女子生徒たちにいたっては、恐怖で足をすくませるどころか、「レオン様、格好いい……!」と敵であるはずの彼を黄色い声で応援し始める始末だった。
(情けない……。私、今までこんな人たちに怯えて、ビクビクしながら過ごしていたの?)
ヴェロニカ様という本物の怪物と対峙したことで、自分でも気づかないうちにずいぶん度胸がついてしまったらしい。そう思うと、少し複雑な気持ちになった。
けれど、私のすぐ後ろには自陣の旗がある。これを奪われたら私たちの負けだ。
相手は騎士団長の息子であり、学園最強と名高いレオン・バルツァー様。平民の私が敵うはずのない相手だ。それでも――模擬戦といえど、簡単に負けることだけは、どうしても嫌だった。
「そこまでにしてください!」
私は前へ飛び出し、手にした杖を突き出して光魔法の詠唱を紡いだ。私の魔力に応じるように、レオン様の目の前に強固な「光の障壁」が出現する。
「おおっ!?」
突如現れた光の壁に、レオン様が足を止めた。彼は容赦なく木剣を振り下ろしたが、鈍い衝撃音と共に剣は障壁に弾き返された。レオン様は獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべ、赤い前髪の隙間から私を睨み据えた。
「光魔法か。へぇ……もしかしてお前が、噂の特待生ってやつか」
「この先へは、行かせません」
「面白い!俺の全力と、お前の魔法――どっちが強いか勝負しようぜ!」
レオン様が短く息を吐くと、彼の身体から爆発的な魔力が膨れ上がった。「身体強化」の魔法だ。その威圧感だけで押し潰されそうになるのを必死に耐えながら、私は障壁の維持と強化に全神経を集中させた。
「行くぜぇ!」
レオン様が地を蹴り、光の障壁に向かって大上段から木剣を振り下ろそうとした、まさにその瞬間だった。
ドンッ、と、私の背中に強い衝撃が走った。
「えっ!?」
予想外の方向からの衝撃に、私の思考が一瞬停止する。慌てて視線だけで後ろを振り返ると、そこには私を睨みつける、さっきの魔導学科の女子生徒の姿があった。
彼女の手元からは、風魔法「エアバレット」の淡い緑色の残滓が立ち上っている。味方からの、完全な故意の背信行為だった。
威力自体は防護魔法のおかげで微々たるものだったが、不意の一撃によって私の意識の集中が完全に途切れてしまった。
パリィン!!と音を立てて、レオン様の目の前にあった光の障壁が完全に消滅する。
さらに、背中を強く押されたような衝撃のせいで、私はバランスを崩し、前方に大きくよろめいてしまった。最悪なことに、それはレオン様が全力で木剣を振り下ろす、その軌道の上だった。
障壁が消え、そこへ無防備に飛び出してきた私を見て、レオン様の目が見開かれる。しかし、身体強化を乗せた全力の一撃は、あまりの勢いに今さら軌道を変えることなど不可能だった。
防護魔法がかかっているとはいえ、この威力をまともに喰らえば骨折どころでは済まない。最悪の場合、死に至る可能性さえ頭をよぎる。
駄目だ!私は恐怖に耐えかねて、ぎゅっと目を瞑った。
ガツンッ!!と、激しい肉体同士の衝突音が響いた。
しかし、想像していたような鋭い痛みは来ない。代わりに感じたのは、ずしりとした重みと、土の匂い。そして、不思議な温かさだった。
「う、ううん……」
おそるおそる目を開けると、ぶつかって地面に倒れたにしては、後頭部や体が痛まないことに気づいた。
気がつけば、私はレオン様の逞しい腕の中にすっぽりと収まっていた。彼は私の頭と背中に素早く手を回し、地面の衝撃から私を庇うようにして抱きしめてくれていたのだ。
レオン様は慌てて剣を手放したらしく、木剣は少し離れた場所に転がっている。
「……っと、すまねぇ。大丈夫か?」
至近距離から、低く掠れた声が降ってきた。
目の前には、整いすぎているほど精巧なレオン様の顔があった。男らしい切れ長の目と、間近で感じる熱い吐息に、私は一瞬だけ頭がぼーっとなってしまう。けれど、すぐに状況を理解して真っ赤になりながら叫んだ。
「だ、大丈夫です!平気です!」
「本当に大丈夫か?頭、打ってねぇな?」
心配そうに眉をひそめながらも、レオン様は私の後ろに回していた手を離し、素早く起き上がった。そして、少し怒ったような口調で言った。
「お前、急に魔法を解いて前に出るなんて危ねぇだろ!あのまま俺が剣を振り下ろしてたら、怪我どころじゃ済まなかったんだぞ!」
レオン様の視線からは死角になっていたため、彼はあの女子生徒が後ろから私を撃ったことには気づいていないようだった。後ろを振り返ってみたが、私を撃った女子生徒は、騒ぎになる前にいつの間にかその場から逃げ出していた。
味方の裏切りを告げ口するのも惨めで、私はただ頭を下げるしかなかった。
「……すみません」
言い訳をせず、そのまま立ち上がろうとした、そのとき。
「っ……痛っ!」
右の足首にズキリと激しい痛みが走り、私はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまった。どうやら倒れ込んだ拍子に、足首をひねってしまったらしい。
「ひねったのか?……ちっ、じゃあ模擬戦は棄権だな」
レオン様は短く舌打ちをすると、次の瞬間、信じられない行動に出た。
私の膝裏と背中に腕を回し、まるで羽毛でも扱うかのように、軽々と私を「お姫様抱っこ」の体勢で持ち上げたのだ。
「ええっ!?レ、レオン様!?何を……っ」
突然視界が高くなり、私はパニックになって暴れそうになる。
「動くな、危ねぇだろ。歩けねぇんだから、医務室まで連れてってやるよ。元はといえば、俺の勢いが止まらなかったせいだしな」
「いえ!でも、この状態で行くのはその……!」
周りを見れば、遠くから見ていた生徒たちが全員、口をあんぐりと開けてこちらを凝視している。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
「気にするな。本当は模擬戦で最後まで戦って勝ちたかったが、勝負はお預けだ。ほら、行くぞ」
レオン様は全く悪びれる様子もなく、大股で医務室へと歩き出してしまった。
(そういう意味で気にしてるんじゃないんですけれどー!!)
私は心の中で大声で叫びながら、ただ彼の胸元に顔を埋めて隠すことしかできなかった。
レオン・バルツァー。騎士団長の息子であり、圧倒的な武を誇る彼。
恥ずかしさで震えながら、私はふと、あの馬車の中での会話を思い出していた。
『ユリアン以外にも、ゲームに出てくる攻略対象の男の子たちを全部教えてあげるから――』
間違いない。彼もまた、ヴェロニカ様の言う「攻略対象」の一人なのだろう。まさかこんな形で接触することになるなんて。腕の中から伝わってくる彼の速い鼓動を聞きながら、この何とも言えない気持ちに不安を感じていた。




