第4話 違和感
温室でヴェロニカ様と一緒に薬草を採って薬作りをした、その翌朝のこと。
いつものようにビクビクしながら登校した私は、校舎の入り口で、信じられない光景に出くわした。
ヴェロニカ様が、私を見つけるなりドレスの裾を揺らして親しげに駆け寄ってきたのだ。
「おはよう、アリス。今日も本当にいい天気ね」
「ヴ、ヴェロニカ様……!お、おはようございます……!」
あまりの距離の詰め方に、私は恐縮しながらもなんとか挨拶を返す。すると、ヴェロニカ様は困ったように小さく笑った。
「ふふ、そんなに怖がらないで。これからは仲良くしましょう?」
数日前にお弁当を叩き落とした人と同一人物とは、到底思えないほど穏やかな声だった。
何か恐ろしい裏があるのではないか、とどうしても勘繰ってしまうけれど、ここで下手に拒絶して公爵令嬢の機嫌を損ねてしまえば、それこそ次はどんな酷い目に遭うか分からない。私は小さく「……はい、わかりました」と頷くしかなかった。
そこから教室に着くまで、私はヴェロニカ様と並んで廊下を歩く羽目になった。すれ違う男子生徒も女子生徒も、まるで太陽が西から昇ったのを見たかのような目をして、驚愕の表情で私たちを凝視している。
私の教室の前に着くと、クラスの違うヴェロニカ様は「じゃあ、またね」とひらひらと手を振り、自分の教室へと向かっていった。
(昨日はただの気まぐれだと思っていたけれど……ヴェロニカ様は、本当に変わってしまったの……?)
教室に入ると、案の定、昨日の温室での出来事や今朝の噂がすでに広がっているようで、私を見る周囲の視線にヒソヒソとした話し声が混じっていた。
けれど、理不尽に土をかけられるよりは、遠巻きに噂される方が何百倍もマシだ。私はそのまま席に座り、授業に集中することにした。
そのまま誰も私に嫌がらせをしてくることなく時間は過ぎ、お昼休みのチャイムが鳴った。
さっさとご飯を済ませて、いつものように図書室でユリアン様との時間を楽しもう。そう思って弁当箱を抱えて教室を出た瞬間――目の前に、ヴェロニカ様がいた。
「あ、アリス。今日はお昼、一緒に行きましょう?」
本当は、図書室に行きたい。ユリアン様とあの居心地のいい会話を楽しみたい。けれど、公爵令嬢からの誘いを平民の私が断れるはずもなかった。私は内心の落胆を隠しながら、小さく頷くしかなかった。
こうして私は、ヴェロニカ様、そして彼女の取り巻きのパメラさんとミレイユさんという二人の令嬢と共に、学園の食堂へと連行されたのだった。
案内されたのは、初めて私がヴェロニカ様と出会い、罵倒された「奥の指定席」。
私たちが席に着くと、食堂中が異様なざわめきに包まれた。ヴェロニカ様と平民の私が同じテーブルに座っているのだ。これから何か凄惨な身分いじめが始まるのではないかと、面白半分に期待しているような視線が突き刺さる。
私はテーブルの上に、弁当箱を出すのを躊躇ってしまった。どうしても、あの日、目の前でお弁当をひっくり返された恐怖の記憶が脳裏を過ってしまう。
すると、私の強張った様子に気づいたのか、ヴェロニカ様がふっと痛ましそうに目を伏せた。
「……アリス、この前は本当にごめんなさい。完全に私の八つ当たりで、あなたに酷いことをしてしまったわ。もうあんなことは絶対にしないから、安心して食べましょう?」
静かな、けれど真っ直ぐな謝罪の言葉だった。それだけではなく、ヴェロニカ様に事前にきつく言い含められていたのだろう、隣に座るパメラさんとミレイユさんも、気まずそうに頭を下げた。
「私も、あなたに酷いことを言ってごめんなさい……」
「私も、ごめんなさいね……」
あの傲慢だった貴族の令嬢たちが、平民の私に謝っている。
私は驚きに目を丸くしながらも、おそるおそる木製の弁当箱を取り出し、蓋を開けた。今日は、卵と野菜を挟んだシンプルなサンドイッチだ。
「まあ、美味しそうだわ!ねえ、もし良ければ私のご飯と一つ交換しない?アリスが好きなものを選んでいいわよ」
「い、いえ!そんな、私の作ったものなんてヴェロニカ様の口に合うようなものでは……」
「そう?残念ね。……じゃあ、食後のデザートは一緒に食べましょう?私のおすすめのケーキがあるの」
そこまで熱心に誘われては、これ以上断るのも失礼になってしまう。私は「……はい、ありがとうございます」と答える。
昼食を食べ終えると、ミレイユさんがどこからか美しい陶器の皿に載ったケーキを運んできた。ヴェロニカ様と私の前に、上品な甘い香りを漂わせるケーキが置かれる。
「ありがとう、ミレイユ。さあ、アリス、この学食のケーキは本当に絶品なの。食べてみて?」
私のような平民には高すぎて、お祝いでもない限り食べることのないような豪華なフォンダンショコラ。フォークで一口崩して口に運ぶと、濃厚なチョコレートの甘みがとろりと広がり、本当に美味しかった。
「……っ、美味しいです……!」
思わず緊張を忘れて満面の笑顔になってしまうと、ヴェロニカ様はどこかホッとしたように目を細めた。
「これでこれまでのことが全て許されるとは思っていないけれど……少しは、私のことを信用してもらえるかしら?」
目の前の少女は、数日前まで私をゴミのように見下していた人とは、完全に別人のようだった。ここまで親切にされて、まだ裏があるのではと疑い続ける方が、むしろ失礼なのかもしれない。
ヴェロニカ様が本当に、本心から私と仲良くしようとしてくれているのだと信じることにしよう。
「わかりました、ヴェロニカ様。私も……これからはヴェロニカ様と、本当の友人として仲良くしたいです。よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ!もしまた他の生徒に嫌がらせをされたら、すぐに私に言うのよ?私が全員まとめて懲らしめてあげるわ!」
ユリアン様と会う時間はなくなってしまったけれど、ヴェロニカ様がこうして味方になってくれたのなら、これからの学園生活はきっと、少しは良くなるだろう。私はそう明るい未来を予感していた――。
この日の放課後、あの不気味な独り言を聞くまでは。
◇
放課後、私は授業で使い終わった参考書を返しに、静まり返った図書室へと入った。
相変わらず人影はない。そう思って書架の奥へと進み、いつもユリアン様と会話をしている読書用の机があるスペースに近づいたとき――妙な人の気配がした。
(もしかして、ユリアン様かしら……?)
かすかな期待に胸を躍らせ、足音を立てないようにそっと覗き込む。けれど、そこに座っていたのは、ユリアン様ではなかった。
ヴェロニカ様だ。
彼女は私には全く気づいていない様子で、机の上に広げたノートに何やら激しくペンを走らせながら、ブツブツと、恐ろしいほどの早口で独り言を呟いていた。
「……よし、図書室でのユリアンとアリスの密会イベントは、これからは私が毎日昼食に誘っていれば、これ以上のフラグは阻止できるはず……。それにしても、まさか私がよりによって悪役令嬢ヴェロニカになるなんて、どんな罰ゲームよ……」
密会イベント?フラグ?
日常で聞くことのない奇妙な単語も気になったけど、それよりも何よりも――ヴェロニカ様は、私とユリアン様がこの図書室で密かに会っていたことを、どうして知っているの?
「状況を整理するだけで三日もかかったのは大きなロスだったわ。もうアリスは確実にユリアンを好きになっているはず。ここからさらに二人の好感度を上げられたら、私の破滅フラグが立っちゃうじゃない……。絶対に回避しなきゃ……」
ガリガリとペンを走らせながら、焦ったように呟くヴェロニカ様。
(私が……ユリアン様を慕っていることまで、知っている……?)
頭の中がパニックになる。ユリアン様がヴェロニカ様に話したのだろうか。ううん、そんなはずはない。ユリアン様だって、私が彼を友人以上に思っているなんて気づいていないはずなのに。
「次は確か……雨の日のイベントね。突然の豪雨でずぶ濡れになって、偶然いたユリアンと二人きりで雨宿りをする。濡れた制服から下着が透けて恥ずかしがるアリスを見て、ユリアンが初めて彼女を女性として明確に意識するフラグ……。絶対に、雨の日にアリスとユリアンを会わせるわけにはいかないわ」
どういうこと?私には、彼女が何を企んでいるのか全く分からなかった。
もしかしてヴェロニカ様はユリアン様の婚約者だから、ユリアン様と親しくなった私を警戒しているの?
「仲良くしたい」と言っていたあの優しい笑顔は、全部、私を監視してユリアン様から遠ざけるための、真っ赤な嘘だったの?
「……っ!」
私は恐怖と混乱のあまり、それ以上その場に居続けることができず、足音を殺してその場から夢中で逃げ出した。
胸が激しく締め付けられる。私は、ヴェロニカ様が変わってくれたのだと、本気で信じてしまいかけていたのに。廊下を走りながら、悔しさと怖さで涙が溢れそうになる。
(変わった……?)
その瞬間、私の頭の中に、ひとつの強烈な違和感が大きくなり、ピタリと足を止めた。
……そうだ。さっき、ヴェロニカ様は確かにこう言っていた。
『まさか私が、よりによって悪役令嬢ヴェロニカになるなんて』
まるで、自分自身が元々は「ヴェロニカ」という人間ではなかったかのような、奇妙な言い回し。
(もしかして……本当に、あのヴェロニカ様は、中身が『別の人』になってしまっているの……?)
本当のヴェロニカ様がどこかに行ってしまって、全く違う誰かが中に入っているかのような、それが違和感の正体ではないのか。
雨の日がどうって、彼女は言っていた。……その時、ヴェロニカ様がどう動くのかを確かめるしかない。
公爵令嬢である彼女が一体何を考えているのか、想像するだけで足が震えるほど怖い。平民の私には、立ち向かう力なんて何もない。
けれど……ユリアン様が私を「アリス」と呼んで、楽しく話していたあの時間を、わけのわからない理由で終わらせられてしまうことだけは、どうしても嫌だった。いずれはヴェロニカ様と結婚するとしても、学園でユリアン様と友人として過ごせる時間を無くしたくない。
雨の日に何が起こるのかはわからないけれど、その時が来たら、逃げずにヴェロニカ様の様子を見てみよう。私は震える手で自分の胸をぎゅっと押さえながら、静かにそう決意するのだった。




