第3話 公爵令嬢の変化
弁当を捨てられたお昼休みの日、図書室でユリアン様と衝撃的な出会いを果たして以来、私のお昼休みの過ごし方はすっかり変わっている。
今では、チャイムが鳴ると同時に食堂やテラスを避け、自作の軽いご飯を素早く胃に収めて一目散に図書室へと向かうのが日課だ。
静まり返った書架の隙間で、ポツンと本を開いてしばらく過ごしていると――。
「やあ、アリス。今日も早いな」
低くて心地のいい声とともに、ユリアン様が優しい微笑みを浮かべてやってきてくれるのだ。その瞬間、私の胸はいつも小鳥が羽ばたくみたいに小さく跳ね上がる。
この密やかな時間が、今の私にとって学園生活で唯一の、そして最高に楽しいひとときだった。
「今日は何の本を読んでいるんだ?」
ユリアン様が、私の手元を覗き込むようにして尋ねてくる。
「あ、はい。ええと、医学関係の本です。病気や怪我の応急処置とか、それに有効な薬草の種類や効能が載っているんです」
「すごいな。そんなに分厚い本、俺にはまったく頭に入ってこないよ。でも、アリスは稀少な光魔法の使い手だろう?魔法を使えば、病気も怪我も一瞬で治せるんじゃないのか?」
ユリアン様が純粋に感心したように目を丸くする。私は照れくさくなって、慌てて首を横に振った。
「いえ!私なんてまだまだ全然駄目なんです。それに……たとえ光魔法を使ったとしても、そもそもどうしてその人が苦しんでいるのか、原因が分からなければ何を治せばいいのかが判断できません。ただ闇雲に魔力を流すだけでは、私の力なんて何の役にも立たないんです」
「なるほど。光魔法だけに頼っても万能というわけじゃないんだな。だからこそ、そうやって基礎から知識を蓄えようと勉強しているのか。……やっぱりアリスはすごいな。感心するよ」
真っ直ぐな青い瞳でそんなふうに褒められて、私は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしくてたまらないけれど、それ以上に胸の奥がじんわりと温かい嬉しさで満たされていく。
「俺も、アリスを見習って少しは勉強でもしようかな」
ユリアン様は近くの棚から適当な本を一冊抜き取ると、私のすぐ隣の席に腰を下ろした。
カサリ、と制服の袖が擦れ合う。肩が触れそうなくらいに急接近した距離に、私の心臓はドキンと大きな音を立てた。近い。近すぎます、ユリアン様!
途端にこれまでの集中が嘘みたいに吹き飛び、顔がどんどん赤くなっていくのが自分でも分かった。
「……どうした?手が止まっているぞ」
ユリアン様が、不思議そうに私の顔を覗き込んできた。
綺麗な金髪の隙間から覗く、吸い込まれそうな青い瞳が、信じられないほどの至近距離にある。端正な顔立ちが迫ってきて、私は息が止まりそうになった。
「な、なんでもありませんっ!」
私は弾かれたように声を上げ、大慌てで視線を本へと戻した。
ユリアン様が、私をただの平民ではなく「一人の友人」として対等に接してくださるのは、天にも昇るほど嬉しい。
けれど……最近の私は、彼を友人以上に、ひとりの魅力的な異性として意識してしまいそうになる。
(ダメよ、アリス。私はただの平民。殿下は尊い第一王子様。婚約者だっている。そんな大それたことを考えてはいけないわ……!)
ぶんぶんと心の中で首を振り、自分に強く言い聞かせる。私は少しでも、ユリアン様の友人として恥ずかしくない人間になれるよう、毎日欠かさず居残りで魔法の練習をしているのだ。
「ま、でも、あまり気負いすぎるなよ?頑張り屋なのは良いことだけどな」
ユリアン様はクスッと笑うと、私の頭に大きな手を乗せ、子供をあやすようにポンポンと優しく叩いた。
(――だから!そういう無自覚なところがダメなんです、ユリアン様……!)
心臓が完全に暴走を始めてしまい、私は心の中でそう嬉し悲しい悲鳴を上げるしかなかった。
◇
時計の針が進み、午後の薬学の授業へと時間が切り替わる。
私は学園の敷地の片隅にある、様々な種類の魔法植物や薬草が育てられている広大なガラス温室の中にいた。
今日の課題は、擦り傷などの外傷に高い効果を発揮する薬草を採取し、簡単な軟膏薬へと精製するという内容だ。他のクラスとも合同のため、周りはグループを作って課題に取りかかっているが、私はもちろん誰からも相手にされず、一人で課題をこなす。
「ええと……目的の薬草は,、確かこれね」
お目当ての、ギザギザとした緑の葉を持つ薬草を見つけ、私はその場にしゃがみ込んだ。土を傷つけないよう、根元から慎重に一つ摘み取ろうとした、そのときだった。
――バサッ!!
背後から唐突に、何かが激しく降ってくるような音がして、私の背中に重い衝撃が当たった。
「きゃっ!?」
驚いて振り返ると、そこには名前も知らない貴族の女子生徒たちが、意地の悪い笑みを浮かべて数人で立っていた。彼女たちの足元には、空になった土入れの籠が転がっている。
「あら、ごめんなさい?そこにいるのが雑草かと思って、ついつい上から土をかぶせちゃったわ」
中心にいる女子生徒が、わざとらしく口元を隠してクスクスと笑う。
慌てて自分の背中に手をやると、ざらざらとした黒い園芸用の土が大量についており、白い制服の背中が真っ黒に汚れてしまっていた。
また、嫌がらせだ。どうしていつもこうなのだろう。
(嫌だ……やめてください……。どうしてそう酷いことをするんですか……っ)
頭の中ではいくらでも言葉が溢れてくるのに、いざとなると喉がキュッと閉まってしまい、何も言い返せない。そんな意気地なしの自分自身のことも、私は猛烈に嫌悪した。
「ねえ、あんたついでに、私たちの分の薬草も採っておいてくれない?」
「そうね。平民のくせに頭だけは良いみたいだし、あなたなら薬を作るのなんて簡単でしょう?」
女子生徒たちが、当然の権利であるかのように私を見下して課題を押し付けてくる。
「それは……これは各自の課題ですから、ご自分でやらないと……」
私が消え入りそうな声で精一杯に言いかけると、女子生徒の一人が途端に声を荒らげ、不快そうに眉を吊り上げた。
「はあ!?平民のくせに、私たちに口答えする気なの!?」
空気が一触即発の重さに包まれる。そのとき、さらに最悪なことに、温室の入り口からあの凛とした、聞き覚えのある声が響いた。
「あなたたち、そこで何をしているの?」
ハッとして視線を向けると、そこには取り巻きを連れたヴェロニカ様が、こちらへと歩いてくるところだった。
(ヴェロニカ様まで……!もうダメだわ……)
絶望に目眩がしそうになる。私をいじめている女子生徒たちも、公爵令嬢の登場にさっと左右へ退き、私とヴェロニカ様を繋ぐ一本の道が出来上がった。
ヴェロニカ様は優雅な足取りでこちらへ近づくと、私のすぐ目の前でピタリと足を止めた。
周囲の女子生徒たちは、固唾を呑んでヴェロニカ様が私にどんな制裁を下すのかを見守っている。
「アリス・ステラ」
ヴェロニカ様が、私の名前を呼んだ。また何か冷酷な言葉を浴びせられると思うと、私は恐怖で体が硬直してしまう。
けれど、ヴェロニカ様の視線が、私の黒く汚れた背中へと移った瞬間――彼女の真紅の瞳が、不自然なほど鋭く見開かれた。
ヴェロニカ様は声を荒らげることもなく、ただ、凍りつくような冷徹な声音で、女子生徒達の方を見て淡々と言い放った。
「あなたたち。アリスさんの服のその汚れは、何かしら」
「それは、平民女は雑草いじりが大好きみたいなので、雑草と同じように土をかけましたの」
私をいじめていることを自慢するような言い方をされても、私は何も言い返せなかった。何か言えば今度はヴェロニカ様に酷い言葉を浴びせられる。
と思っていたら、ヴェロニカ様の口からは信じられない言葉が発せられた。
「そう。そんな下劣な悪ふざけを堂々と披露するのね。今のあなたたちの不作法な行いは恥ずかしくて見ていられないわ。今すぐ、アリスさんに謝罪しなさい」
女子生徒達が一瞬何を言われたのか分からない表情になる。そしてさっき私に土をかけた女子生徒が言った。
「えっ…?ヴェロニカ様?冗談ですよね?」
「あら、いつから私とあなたは冗談を交わす仲になったのかしら?…早く謝罪しなさい!」
感情の読めない、冷徹極まりない低音。それが逆に、彼女たちの逃げ道を完全に塞ぐ圧倒的な威圧感となって温室を支配した。拒めば実家ごと潰される――そう確信させるだけの冷たさだった。
「ひ、ひえっ……!も、申し訳ございませんでしたぁっ!」
女子生徒たちは顔を真っ青に染め、涙目になって私に何度も頭を下げた。私はあまりの状況の変貌に、ただ呆然と立ち尽くす。
ヴェロニカ様は彼女たちを一瞥することすらなく、さらに淡々と続けた。
「それから、あなたたちはそこで何をしていたのかしら?まさか、アリスさんに自分の分の課題を押し付けようとしていたわけではないわよね?」
女子生徒たちは、想定外のヴェロニカ様の物言いに完全にパニックを起こし、混乱している。一人の生徒が、恐る恐る口を開いた。
「ですが、ヴェロニカ様……!このような土臭くて卑しい作業なんか、この平民女にすべてやらせてしまえばよろしいのではないですか?」
「何を言っているの?」
ヴェロニカ様はピシャリと冷たい声で言い放つ。
「薬学の知識を学ぶことは、将来、領民やこの国すべての人たちを守ることに繋がる大切な事よ。それを他人に押し付けて誤魔化そうなんて、貴族としての矜持が泣くわ。あなたたちも人任せにしないで、自分の力で最後までやりなさい」
静かに、けれど有無を言わせぬ調子で言い放たれた言葉に、女子生徒たちは震え上がった。
「も、申し訳ございません……!」
彼女たちは蜘蛛の子を散らすように、そそくさとその場から逃げ去っていった。
温室の片隅に残されたのは、私とヴェロニカ様、そして彼女の取り巻きの一人の女子生徒だけだった。彼女も、ヴェロニカ様のあまりの言動の激変ぶりに困惑を隠せないようで、不安そうにヴェロニカ様の顔を伺っている。
「大丈夫?替えの制服は…、持ってないわよね。後で何か羽織るものをあげるわ。そのかわり、あなた、薬草にとても詳しいのよね?もし良ければ、私に薬の正しい作り方を教えてくれないかしら」
「……え?」
耳を疑った。
まさかヴェロニカ様から教えてほしいと私に頼み事をするなんて。明日は血の雨でも降るんじゃないかと思わせる驚きだった。
「別にあなたを困らせるような、変な企みがあるわけじゃないわ。あなたと一緒に課題をやりたいだけなの」
ヴェロニカ様はそう言うと、信じられないことに、自ら泥のついた地面にしゃがみ込み、生えている薬草へと手を伸ばした。
綺麗に仕立てられた最高級のスカートの裾が土に触れ、白く美しい指先が黒く汚れていく。けれど、今のヴェロニカ様はそれを全く気にする様子もなかった。
「ヴェ、ヴェロニカ様、お洋服が汚れてしまいますわ!そのような作業、私が代わりに行います!」
取り巻きの女子生徒が悲鳴のような声を上げて止めようとするが、ヴェロニカ様はあっけらかんとした様子で首を振った。
「パメラ、気にしないで。あなたも一緒にやる?結構楽しいわよ」
「ええっ!?」
私はもう、目の前の状況がまったく理解できず、狐につままれたような気持ちでヴェロニカ様の様子を見つめることしかできなかった。
数日前、お昼休みにあんなに冷酷に私をあざ笑った人が、どうしてこんな風に変貌してしまうの?
けれど、ヴェロニカ様が今まさに引き抜こうとしている薬草を見て、私はハッとして、おそるおそる声をかけた。
「あの……ヴェロニカ様。その薬草は、まだ十分に成長していないので薬効が薄いです。こちらの、葉の裏が少し紫がかっている薬草を採った方が、良いお薬になりますよ……?」
「あら!そうなの?教えてくれてありがとう!」
ヴェロニカ様はパッと顔を輝かせ、私に向かって、眩しいほどの満面の笑みを向けた。さっきの氷のような冷たさが嘘のように消え去っている。
「アリス、って呼んでもいいかしら?私のことも、これからは気軽にヴェロニカって呼んでちょうだいね」
「は、はい……?ヴェ、ヴェロニカ、様……?」
この公爵令嬢の、天と地がひっくり返ったかのような急な態度の変わりように、私は頭の中を激しい混乱に支配されながらも――なぜか断ることもできず、奇妙な空気のなかで、彼女と一緒に薬草を採って薬作りを始めるのだった。




