第18話 涙の選択
朝、学園の門をくぐり、校舎へと続く並木道を歩いていると、後ろから聞き馴染みのある爽やかな声が届いた。
「おはよう、アリス」
「っ……!ユリアン様!おはようございます!」
振り返ると、朝日を背に受けて微笑むユリアン様が立っていた。突然声をかけられた驚きと嬉しさで、心臓が跳ね上がる。朝からユリアン様とお話しできるなんて……!あまりの嬉しさに、自分でも分かるほど顔が緩んでしまう。
「どうしたんだい?何か嬉しいことでもあったのかな」
ユリアン様が私の隣に並び、顔を覗き込んできた。
「えっ!?い、いえ……そ、そうなんですけど……」
あまりの距離の近さと鋭い指摘に、顔が一気に熱くなるのが分かった。
「へえ、どんなことがあったのか教えてよ」
悪戯っぽく微笑むユリアン様を見て、ますます焦る。
『今まさに、ユリアン様とお会いできたこの瞬間が嬉しいことです』なんて……絶対に言えるわけないじゃない!
「い、いいお天気だなあ、と思いまして……!」
「……?ははっ!天気が良くて嬉しいって、変だなアリスは」
ユリアン様が声を上げて楽しそうに笑う。
「へ……変じゃないですよ!……あれ?変……なのかな……?」
自分の言った言葉の妙さに、頭の中の思考がぐるぐるとまとまらなくなっていく。そんな私を見て満足したように頷くと、ユリアン様が言った。
「今日はお昼に図書室に行くかい?」
「は、はい!今日も行きます!」
「そうか。じゃあ俺も今日は図書室に行くから、話をしよう。またお昼にね」
ユリアン様はひらひらと手を振ると、ご自身の学科の棟へと歩いていった。
(朝からユリアン様とお話しできただけじゃなくて、お昼に会う約束までできちゃった……!)
込み上げてくる喜びを隠しきれず、私は弾むような足取りで教室へと向かった。
教室に入ると、既にフェリクス様が座っていた。彼は毎朝、誰よりも早く登校して席に着いている。
「フェリクス様、おはようございます」
「おはようございます、アリスさん」
挨拶を交わし、私はフェリクス様の隣の席に着いた。先ほどのユリアン様との会話を思い出してしまい、またしても頬が緩んでしまう。
「アリスさん。ユリアン殿下とお知り合いなのですか?」
「えっ!?」
不意を突いたフェリクス様の問いに、私の身体が跳ねた。
「さっき窓から、アリスさんとユリアン殿下が楽しそうに一緒に歩いている姿が見えたものですから」
「あ、はい。この学園でお話しするようになりまして……」
「そうですか。僕は去年、ゼノヴィアの第一王子の誕生日にユリアン殿下が招待された際、少しご挨拶した程度なのですが……あんなにも親しげにお話しされていて羨ましいですね」
「ユリアン様は、どなたに対しても優しくて素晴らしいお方ですから」
「そうですね。この国の王子ですからね」
フェリクス様はどこか含みのある笑みを浮かべ、それ以上は追求してこなかった。
◇◇◇
授業が進み、待ちに待ったお昼休みとなった。
フェリクス様は最近、クラスの男子生徒たちとも打ち解けてきたようで、誘い合って学食へと向かっていった。私は外のテラス席で準備してきた昼食を素早く済ませ、急いで図書室へと向かった。
静かな図書室で本を選びながらも、もうすぐユリアン様が来るのだと思うとドキドキして心が落ち着かない。棚から一冊の本を抜き取って席につき、文字を追おうとするものの、内容がまったく頭に入ってこなかった。
「やあ、アリス」
約束通り、ユリアン様が図書室へ現れた。その姿を認識した瞬間、心臓の鼓動がもう一段階速く跳ね上がる。
「ユリアン様!本当に来てくださったんですね……嬉しいです」
「大げさだなあ」
ふっと柔らかく笑い、ユリアン様は私の向かいの椅子に腰掛けた。
「ところで……アリスにちょっと聞きたいことがあるんだ」
「何でしょうか?」
ユリアン様は少し困ったように眉をひそめた。
「最近、ヴェロニカの様子がおかしいんだ。話しかけてもうわの空みたいな返事でね……。アリスは最近、ヴェロニカと話をしているかい?」
(ヴェロニカ様……)
ヴェロニカ様とは最近まったく会っていない。というか、いつもあちらから突然現れてくるので、私から会いに行くことなど一度もなかったのだ。
ユリアン様は、私とヴェロニカ様が友人同士だと思っているからこそ、こうして私に尋ねているのだろう。そう思うと、胸の奥が少しちくちくと痛んだ。
「やっぱり……婚約者の方が大事よね……」
「えっ?何か言ったかい?」
「い、いえ!何でもありません!私は最近ヴェロニカ様とお会いする機会がなくて……すみません」
「そうか。ならいいんだ。こちらこそごめんね、変なことを聞いてしまって」
「いえ……」
私が俯きかけたその時、静かな図書室に別の声が響いた。
「アリスさんの声が聞こえたと思ったら、ユリアン殿下もご一緒でしたか」
「フェリクス様!?どうしてここに……?」
本棚の影から姿を現したのは、フェリクス様だった。
「学園内は広いですから迷子になりそうで、散策していたんですよ」
そう言って優雅に微笑むフェリクス様を見て、ユリアン様が頷いた。
「フェリクス……フェリクス・ローゼンタールか。確かゼノヴィア王国で会ったな」
「ええ。ルシード殿下の誕生日の際にご挨拶させていただきましたが、覚えていてくださり光栄です」
フェリクス様は礼儀正しく一礼した。しかし、次に彼が口にした言葉は、場を一瞬で凍りつかせるものだった。
「ですが、ユリアン殿下……よろしいのですか?婚約者の方もこの学園に通われていますよね。こんな誰もいない図書室で二人きりで会われていて……逢引していると疑われませんか?」
「……!アリスは友達だ。それに婚約者のヴェロニカとも友達だから、ヴェロニカも理解している」
ユリアン様が毅然とした態度で答える。
(友達……。そう言ってもらえるのは嬉しいけれど……それ以上の関係は望めないんだって突きつけられて、胸が痛い……)
「友達……ですか。しかし、アリスさんはどうも違うようですよ?」
「……えっ!?」
フェリクス様の突然の言葉に、私は息を飲んで固まってしまった。
「違うって、どういうことだ?」
ユリアン様が訝しげに眉をひそめる。
「えっ……と、あの、その……!」
しどろもどろになる私を庇うことなく、フェリクス様はまっすぐにユリアン様を見つめた。
「では、正直に言いましょう。僕はアリスさんが好きです。ですが、アリスさんを見ていると、誰かを一途に想い続けているように感じられました。僕はそれが気になっているんです」
今朝の私を見て……そう思ったのかしら……!?そんなに分かりやすい行動をしていたなんて……恥ずかしくて死んでしまいそう!
「それが……友達であるということと、何の関係があるんだ?」
どこまでも鈍感なユリアン様の返しに、フェリクス様はすっと目を細め、どこか挑発的な笑みを浮かべた。
「鈍いですね、殿下。民の心が分からないのは、次期国王としていかがなものかと思いますが?」
「フェリクス……この学園では立場は関係ない。売られた喧嘩なら買うよ」
二人の間にピリピリとした一触即発の空気が流れる。
「ま、待ってください!お二人とも、やめてください……!」
「では、アリスさんの口から言ってください」
フェリクス様が冷ややかな、けれど真剣な瞳で私を見つめてくる。
「私は……」
言い淀む私を、ユリアン様も静かに見つめていた。胸が押し潰されそうになる。けれど、もう誤魔化すことはできなかった。
「フェリクス様のご好意は……とても嬉しいです。ユリアン様が『友達』と言ってくださったことも、心から嬉しく思っています。……ですが、私はユリアン様のことを、友達以上に……、一人の男性としてお慕いしています。けれどユリアン様にはご婚約者がいらっしゃいますので……ご迷惑をおかけしたくなくて、ずっと心の中に閉じ込めていました」
「アリス……そうだったのか……。すまない、俺は……」
「ユリアン様!それ以上は言わないでください……!」
ユリアン様の言葉を遮り、私は深々と頭を下げた。
「こんな私に、いつも優しくしてくださって……本当にありがとうございました」
目奥が熱くなり、ぽろぽろと涙が溢れ出しそうになるのを必死で耐える。これ以上ここにいたら、惨めに泣き崩れてしまう。
私は振り返ることもせず、全力で図書室を走り出た。
「アリスさん!」
背後からフェリクス様が叫ぶ声が聞こえたけれど、足をとめることはできなかった。
◇◇◇
誰もいない校舎の裏手まで走り込み、私は壁に背をもたせかけた。
ユリアン様を……死亡フラグから救う唯一の方法は、多分私がこれ以上関わらないこと……!
ヴェロニカ様の様子がおかしいのは、きっとシナリオが歪み始めているからだ。私がユリアン様とこれ以上深く関われば、ユリアン様の身に致命的な危険が及ぶかもしれない。
私が誰とも関わらないようにするためには……もう、学園を辞めるしかないのだ。
そうすればユリアン様は死なずに済む。ヴェロニカ様だって、最初に協力してほしいと言ってきた時、「誰とも関わらないで」と言っていた。私が自主的に学園を去れば破滅フラグは回避され、彼女もこれ以上何もしてこないはずだ。
「うっ……ううっ……!」
一度立ち止まると、必死に抑え込んでいた涙が次から次へと溢れ出し、止まらなくなった。
最初は……こんな学園、すぐにでも辞めたいって思っていたのに……。最近ようやくみんなと打ち解けて、授業も楽しくなってきたのに。
学園を去りたくない。みんなと離れたくない。
けれど――ユリアン様の命を守るためなら、私は何だって差し出せる。
「う……ぐすっ……ユリアン様のためなんだから……」
涙で濡れた顔を袖でぐっと拭い、私は自分自身に強く言い聞かせた。




