第13話 居残りの罠
夕暮れ時、放課後の鐘が鳴り響き、教室にいた生徒たちが一人、また一人と席を立っていく。
帰る準備を整えた私は、ふと斜め前の席へと視線を向けた。ノア君がまだ自分の席に留まり、眉間に深いシワを寄せながら、分厚い教科書とノートに向き合っていたからだ。
私の視線に気づいたノア君が、面倒くさそうに顔を上げた。
「……何見てんだよ。補習だよ、補習。これ書いて提出しろってさ。クソめんどくせえ」
「なるほど。停学中にずいぶん勉強が遅れてしまいましたからね。頑張ってください」
「お前に言われなくてもわかってんだよ」
悪態をつくノア君だったが、その手元にあるペンの動きは完全に止まっていた。
いくら才能を買われた特待生とはいえ、成績が落ちれば免除されている高い授業料を払わなければならなくなる。準男爵の身分を得ているノア君だが、家に金銭的な余裕がないのは明白だ。彼にとって、成績を落とすことだけは絶対に避けなければならない死活問題なのだ。
頭を抱える彼の姿を見かねて、私はそっと声をかけた。
「……良かったら、勉強教えましょうか?」
「はっ、誰がお前なんかに教えてもらうかよ。用がないならさっさと帰れよ」
「……わかりました」
そこまで言われて教える義理もない。私は深入りせず、そのまま教室を後にした。
校舎を出て学園の門へ向かって歩いていると、門のすぐ近くに佇む一人の人物が目に入った。美しい縦ロールの髪を揺らし、優雅に優越感を漂わせている人物――ヴェロニカ様だ。
「あら、アリス。もう帰るの?ノアの補習のお手伝いはしなくていいのかしら?」
「ヴェロニカ様がそれを知っているということは……手出しはしないほうが良さそうですね」
やっぱりノア君も攻略対象なんだわ。ヴェロニカ様は、私に何かをさせようとしている。
私が警戒感を露わにすると、ヴェロニカ様はクスクスと愉しそうに笑った。
「まあ、そう警戒しないでちょうだい。ただ、このまま放っておくとあなたにとっても後悔しそうだから教えてあげているのよ」
「何について後悔するのですか?」
「ノアに恨みを持っている生徒がいるでしょう?彼を一人にしておくと、また何かしてくるかもしれないわね」
一瞬で、お昼の中庭の光景が頭をよぎった。あの上級生たちだ。ユリアン様の前では手を出せずに去っていったが、まだ諦めていないのだろうか。ノア君に問題を起こさせ、今度こそ学園から完全に追い出そうとしているのかもしれない。
「ですが、私には関係ありませんから」
私は努めて冷ややかに言い放った。ヴェロニカ様の思い通りに踊らされるわけにはいかない。
「あら、冷たいのね。魔力欠乏症の生徒を助けたり、お昼だってノアを庇ったのに関係ない、だなんて」
煽るようなヴェロニカ様の言葉。ノア君の身に何かが起こるのは、彼女のその態度からして確実だ。……けれど、ここは耐えるべきなのだろうか。
ヴェロニカ様は私の葛藤を見透かしたように、決定的な言葉を口にした。
「成績優秀なアリスが、同じ特待生のノアを放っておいたなんて知ったら……ユリアンもがっかりするでしょうね」
(ここで、ユリアン様の名前を出すなんて……!)
「アリスがバッドエンドでユリアンを死なせたくない気持ちはわかるわ。でも、こんなことでユリアンが死ぬと思っているの?言ったでしょう、私はただの親切で教えてあげているのよ」
悔しいが、ヴェロニカ様の言う通りだ。ここで私がそのまま帰ったとしても、彼女は別の方法で私を追い詰め、バッドエンドへと導こうとするだろう。ならば――。
「……わかりました。ここはヴェロニカ様の言う親切に乗っからせていただきます。あなたの思い通りにさせないために」
「ええ、そうね。せっかくなんだから、攻略対象と色んなイベントを楽しんでちょうだい」
私はヴェロニカ様の言葉には答えず、踵を返して再び校舎へと戻っていった。
教室の扉を開けると、ノア君が一人で補習に向き合っていた。他の生徒はもう誰もいない。
「あ?クソザコ平民。何してんだ。忘れ物か?」
「いいえ、ノア君の補習のお手伝いに来ました」
私は彼の机に歩み寄り、広げられたノートを覗き込んだ。
「は?必要ねえって言っただろ」
「このペースだと夜になってしまいますよ。分からないところは教えますから、早く終わらせましょう」
観念したのか、ノア君はそれ以上何も言わず、不服そうにペンを握り直した。
「あ、そこ違いますよ」
「はあ?なんだよ。じゃあさっさと答え教えろよ」
「答えではなく解き方を教えますから、自分で答えを出してください」
「チッ、めんどくせえ……」
文句を言いながらも、彼は素直に私の説明に耳を傾け、ノートにまとめていく。飲み込み自体は早いので、指導はスムーズに進んだ。
すべての課題が終わる頃には、窓の外の空はすっかり薄暗くなっていた。
「はあ、やっと終わった……」
お昼の上級生たちが襲ってくるかと思ったけれど、結局何も起きなかった。
「あとは先生に提出したら終わりですね」
「そこまで付き合う必要はねえよ。さっさと帰れ」
「いいえ、ここまできたらちゃんと提出するところまで確認します。それに、まだお礼も言ってもらっていませんし」
「お前が勝手にやったんだろ!なんで俺がお礼を言わなきゃならねえんだよ!」
吐き捨てるように言いながらも、ノア君は席を立った。
先生の執務室に向かい無事にノートを提出し終えた私たちは、静まり返った校舎を後にした。
門へと向かって歩いていると、不意にノア君がボソリと呟いた。
「なあ、お前……何か変わったか?」
「私ですか?」
「まあ、お前とそんなに話したこともなかったけどさ。前はもっとオドオドして、周りにビクビクしてただろ。でも今は……なんていうか、最初に俺に話しかけてきたときの生意気さが戻ったっていうか」
昔の私。確かに編入当初は、貴族との身分の差を過剰に恐れていた。だが平等という学園の建前を愚直に信じてヴェロニカ様や周囲に普通に接してしまった結果、生意気だと糾弾され、いじめを受けるようになったのだ。
けれど、今は違う。
「そうですね。……ある出会いがきっかけで、変われたんだと思います」
ユリアン様やレオン様、みんなとの出会いが私を強くしてくれた。
「ふうん。まあ、どうでもいいけど。……それより俺のことは『君』じゃなくて『様』で呼べよ。俺は準男爵でお前は平民なんだからな」
「わかりました、ノア君」
「このクソザコ平民!ふざけんな――」
ノア君が怒鳴りかけ、その言葉が途中で途切れた。
校門の前から、ぬっと影が姿を現したからだ。
「よお、ずいぶん遅かったな。平民の女とイチャイチャして楽しんでいるみたいじゃねえか」
昼間、ユリアン様に追い払われたはずの上級生だった。
「チッ……わざわざ待ってるとかキモいんだよ。言ってくれりゃあ、さっさとぶっ倒してやるのによ」
「この人数相手にやれるってのか?」
後ろからも低い声が響いた。振り返ると、いつの間にか数名の男子生徒に退路を断たれ、完全に行き先を囲まれていた。
「おい、平民。お前は帰れ」
ノア君が私を庇うように一歩前へ出る。
「ダメです!先生を呼んできます!」
「おっと、お前も逃さねえよ」
駆け出そうとした私の行く手を、身体の大きな上級生が塞いだ。
しかし、ノア君の表情にはまだ余裕があった。
「で、どうするんだよ先輩。どうせ俺に傷一つつけられないザコなんだから、何しても無駄だぜ」
「……お前の結界魔法は、同時に複数発動できないんだろ?自分を守れても、その女を守れるかな?」
上級生が悪どく笑う。
「はあ?この平民がどうなろうが知ったこっちゃねえよ」
「じゃあ、こいつの顔に傷がついてもいいんだな!」
私の目の前にいた男が、凶悪な笑みを浮かべて拳を振り上げた。直撃を覚悟し、私はぎゅっと目を瞑って頭を庇う。
――ガキンッ!!
鋭い衝撃音が響き、殴りかかってきた男が弾き飛ばされた。
目を開けると、私とノア君の周囲を、透明な光の壁が包み込んでいた。
「おいクソザコ平民。自分の身くらい自分で守れよ」
「あ……ありがとう、ノア君」
ノア君は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、上級生たちを冷ややかに見据えた。
「それで先輩。複数結界魔法が使えないからってどうだって言うんだよ。こうやって周囲一帯に結界を張っちまえば、お前らはもう何もできないぜ」
「…そのくらいは想定内だ。外からの攻撃はできなくても――中からはどうかな?」
「え……?」
直後、私とノア君が立っている足元の地面が、異様な音を立てて盛り上がり始めた。
(土の中に……人が潜んでいたの!?)
待ち伏せの本当の狙いに気づいた時には、すでに遅かった。地面から飛び出した男が、至近距離で手を掲げる。
「アースバレット!!」
凄まじい叫びとともに、男の周囲から無数の鋭い土の弾丸が全方位へ放たれた。結界の「内側」で起きた至近距離の攻撃。弾丸はノア君だけでなく、私にも容赦なく飛んでくる。
「きゃあああっ!?」
「クソッ……!」
ノア君が叫ぶと同時に、周囲を覆っていた結界が消失した。次の瞬間、私の全身を包み込むように小さな結界が再展開される。
ドカカカカンッ!と激しい衝撃音が響いた。
私を庇うために周囲の結界を解き、私への防護結界に集中させたのだ。
「っ……!卑怯な真似しやがって……!」
土の弾丸を全身に浴びたノア君が、地面に膝をつく。制服は破れ、腕からは真っ赤な血が流れていた。
「ノア君――!?」




