第五章 水没した渡り廊下
静まった廊下には誰もいない。あの影も消えていた。
それまである程度の距離を保ちながら移動していたが、共通の敵を目の当たりにした今、四人は自然と固まって歩くようになっていた。
「なにか見えた?」「影だけ見えました。」
詩織が答える。
「人じゃなかった。」「......だな。」
湊も同意した。朝日黙っている。
私はふと考えた。
横須賀 朝日、十五歳。
あの緊迫した状況で、彼の指示には迷いがなかった。時間のない中、しかもあの巨大な影を前にして、瞬時にそんな判断ができるだろうか。
知らない場所、知らない人達。自分はこれからどうなるのだろうという不安ばかり募る私は、何でもいいから情報がほしかった。
だから、尋ねないわけにいかなかった。
「朝日。」「なんであんなに落ち着いてたの?」
朝日は首を傾げた。
「そうだった?」「そうだったよ。」「んー。」
朝日は少し考えて、言葉を探すように空を見る。
「怖かったけど......。なんか、初めてじゃない気がした。」
その言葉はどこか引っかかったが、何の進歩にもならなかった。
できることならこの校舎から離れたかったが、この島にはこの校舎しか見当たらなかったことを思い出した。船もイカダもない海辺から、この場所を脱出できるとは考えずらい。自分と同じ状況に置かれた人が複数人いる以上、この人達についてこの校舎を調査するのが吉だと思った。他の三人も同じ気持ちだったのかもしれない。
誰もこの学校から出ようとは言いださなかった。
そうして四人は、渡り廊下を渡るための浮き輪を探すために体育倉庫へ向かった。
倉庫は思った以上に広かった。ボールやマット、跳び箱、壊れたラケット。そして倉庫の奥を見ると、本当に浮き輪があった、しかも大量に。
「なんで学校にこんなあるんだよ。」
湊が呆れる。
「海の近くだから?」
朝日が適当に答える。
「それで説明つく?」「つかない。」
朝日は笑った。私も思わず吹き出しそうになる。初めてだった。この島へ来てから、少しだけ肩の力が抜けたのは。
湊が浮き輪を肩へ掛ける。
「じゃあ持ってくか、向こうの校舎に何かあるかもしれないし。」「島の出口とか?」
何となく聞いてみた。
「希望は持った方がいい。」
湊はそう言った。その言葉が妙に印象に残った。
窓の外が赤く染まり始めている。しかし、空はもうこれ以上暗くならないような気がした。この島で間を覚ました時から、空は夕暮れのまま止まっているみたいだった。
四人は再び渡り廊下の前へ戻る。水面は静かだった。底は見えず、相変わらず不気味である。浮き輪を水へ投げると、水面がゆっくり揺れる。渡るには問題なさそうだった。
朝日が言う。
「じゃあ行こうか。」
私は水面を見つめた。底が見えないほどの深さを、本能が拒否している。しかし、向こうの校舎には何かある気がした。理由はない、しかしそう感じる。詩織も同じだろうか。真剣な顔で向こう側を見ている。湊は既に浮き輪へ手を掛けていた。
「帰りたいんだろ。」
その一言で決まった。私は深呼吸をした。
「……行こう。」
四人は頷いた。そして、水没した渡り廊下へ足を踏み入れようとしたその時。
ちゃぷん。
小さな音がした。誰かが水へ石を投げたような、そんな音が。四人は顔を見合わせる。誰も動いていない。音は、水の中から聞こえた。波紋が広がる。静かな水面の中央で、何かが動いた。じっと見つめていると、ほんの一瞬だけ、人の手のようなものが見えた。次の瞬間には消えていた。誰も言葉を発しなかった。ただ、渡り廊下の向こう側が、急に遠く感じられた。
ちゃぷん。
水面が揺れる。四人はしばらくその場から動けなかった。静寂の中、波紋だけがゆっくり広がっていく。
「……見た?」
三人に小声で言う。
「見た。」
湊が答える。
「手みたいだった。」「だな。」
朝日も珍しく真面目な顔をしている。私は詩織に目をやった。彼女は水面ではなく、渡り廊下の壁を見ていた。
「詩織、何見てるの?」
詩織は指を差した。そこには色褪せた校内案内図が貼られていた。半分に破れている。
「これ見てください。」「何が?」
近づくと、詩織は案内図の端を指先でなぞった。
「図書館がない。」
私は目を瞬いた。
「え?」「ほら。」
教室棟、職員室、体育館、理科室、音楽室、保健室、全部載っている。しかし、さっき自分たちがいた図書館だけが存在しない。
「見落としじゃなくて?」
湊が聞く。詩織は首を振った。
「ちゃんと見ました。」
その声には妙な確信があった。
「学校の中にある施設が、学校の案内図に載ってないってことですよね。」
少しの沈黙。
「つまり?」
朝日が聞く。詩織は真顔で答えた。
「学校じゃないってことですかね?」「何が?」「図書館がです。」「じゃあ何なんだよ。」「分かんりません。」
詩織はあっさり言う。
「でも変ですね。」
その言葉だけで十分だった。この学校には最初から違和感が多すぎる。なのに、それが普通になりつつある。その事実が一番不気味だった。
「とりあえず、進もうか。」
早くここから離れたくなり、私は声をかける。
それぞれが今の自分に不安を抱えているが、帰りたい、という目的だけは一致していた。浮き輪を水面へ浮かべ、恐る恐る足を入れる。冷たい。海水より冷たい気がした。
「うわっ……。」「冷たっ。」
朝日も同じ反応をする。その様子に少しだけ安心する。朝日も普通に怖いらしい。湊が先頭。その後ろに私、詩織、最後に朝日。四人は恐る恐る進む。水面が揺れ、底は見えない。どれだけ覗いても。ただ暗い。青黒い闇が広がっているだけだった。
「これ何メートルあるんだろ。」「考えない方がいい。」
湊が即答した。
「なんで?」「沈みそうだから。」
私は黙った。足元を見るだけで不安になる。詩織がぽつりと言った。
「案外沈んでも死なないかもしれませんよ。」
全員が振り返る。
「どういうこと?」
朝日が聞く。詩織は真面目な顔をして言う。
「私たちって、本当に生きてるんでしょうか?」
大きな沈黙が流れた。
「やめてよ。」「今言うことじゃないわ。」「すいません。」
詩織は反省していなかった。
「気になってしまって。」「気になっても言わなくていいことってのがあるんだよ。」
朝日が笑う。
「詩織って変だね。」「知ってる。」
私が思っていた反応と違って、本人は平然としているのでなんだか笑ってしまった。その様子を見て湊と朝日も微笑む。初めてだった、四人が一緒に笑ったのは。
しばらく進み、別棟まで半分ほど来た頃。私は隣を漂う詩織へ声をかけた。
「そういえばさ。」「ん?」「なんで図書館いたの。」
詩織は少し考えた。
「出口探してました。」「本で?」「はい。」「見つかると思ったの?」「そんなに期待してなかったですけど。」「じゃあなんで?」
詩織は浮き輪を見つめたまま答える。
「落ち着くからです。」
その答えは意外だった。
「本読むの好きなの?」「はい。」
少しだけ、詩織の声が柔らかくなる。
「小さい頃から。」
そこで言葉が止まる。私は続きを待った。しかし、詩織は首を傾げて呟いた。
「……小さい頃って何してたっけ。」
何も言えなかった。
詩織も黙ってしまった。
自分で言ったことなのに、思い出せないらしい。
「家族とおままごとしてたとか?」
詩織は困ったように笑った。
「覚えてないんですよね。」
胸がチクリと痛んだ、自分も同じだったから。
「私も。」
気づけばそう答えていた。詩織は私を見る。そして、少しだけ安心したように笑った。
「そうですか。」
それだけだった。でも、少しだけ詩織との距離が縮まった気がした。
ちゃぷん。
また音がした。全員の表情が変わる。今度は近い。水の中。私は反射的に足を引っ込めた。ゆっくりと水面を見るが、何もない。そこにはただ、暗闇だけがある。
ちゃぷん。
もう一度。まるで、何かが四人を追いかけるように水の底を移動しているみたいだった。静かな水面の下で、何かがこちらを見ている気がした。
ちゃぷん。
また音がした。今度はもっと近い。私は思わず浮き輪を強く掴む。何も見えないが、見られている気がする。
「急ごう。」
湊が言った。四人は速度を上げ、水を掻く音だけが響く。別棟はもうすぐそこだ。あと少し。あと数メートル。
ちゃぷん。
今度は後ろだった。つい振り返りそうになる。
「見るな!」
湊が低い声で言った。
「え?」「分かんねぇけど!見ない方がいい気がすんだよ!」
その言葉に私は従った。今は、彼を信じた方がいい気がした。
ついに別棟へ辿り着いた時、四人ともぐったりしていた。たった数十メートル。それなのに妙に神経を使った。朝日は床へ寝転がる。
「生きたー。」「縁起悪い。」
私は残った気力で突っ込む。
「じゃあ無事だったー。」「それでいい。」
朝日が笑うと、緊張が少し解ける。詩織は濡れた袖を絞りながら周囲を見回した。
別棟は本校舎より古かった。壁はひび割れ、天井も一部崩れている。窓ガラスはほとんど残っていない。そしてここもまた、静かだった。
「変な感じ。」「そうですね。」
詩織が頷く。
四人は濡れた服を絞り、捜索を再開し始めた。




