第六章 記録保管室
探索は二階から始まった。
教室を調べる、空。資料室を調べる、空。準備室も、空。何もない。しかし、人がいた痕跡だけはある。そしてまた、別の教室を調べてみると、机、椅子、ノート、掲示物が乱雑に残されていた。ノートは白紙だった。
廃れた教室の光景は、まるで時間だけが置き去りになったみたいだった。
朝日が教卓の引き出しを開ける。そこには一冊の本が入っていた。
なぜこんなところに?
「なあ、これ見て。」
滲んだ文字を読むと、どうやら生徒名簿らしい。私達は集まって中を確認しようとする。自分たちの名前があるかもしれない。何か思い出せるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、朝日がページをめくる。
——名前がない。
一つもない。生徒名簿なのに、文字が何も書かれていない。
「気味悪……。」「なんで作ったんだこれ。」
朝日も苦笑した。詩織だけは名簿を見つめ続けている。何か考えている顔だった。
「詩織?」「ん。」「どうしたの。」
詩織はページを指差した。
「消されたのかも。」「何が?」「名前です。」「そんなことできるの?」「知らないですよ。」
詩織は正直だった。
「でも空白って変じゃないですか。」
それはそうだった。この学校には空白が多すぎる。手帳、名簿、記憶、全部。
何も得られなかった私たちは、半分諦めかけて三階へ上がった。
そこで初めて異変を見つけた。
廊下の奥に、一つだけ扉がある。学校には似つかわしくない、重そうな鉄扉だった。
「何だこれ。」
湊が近づく。扉には文字が刻まれていたが、古びており読みにくい。目があまり良くない私は、何とか文字を読もうと目を細める。
『記録保管室』
四人は顔を見合わせる。この学校で初めて、明確な答えに近づいた気がした。
「入る?」
朝日が聞く。
「入るだろ。」
湊が即答した。私も頷く。詩織だけは少し迷っていた。
「どうしたの?」
詩織は鉄扉を見つめたまま答える。
「嫌な予感がする。」「今さらじゃない?」
朝日が言う。
「この学校全部嫌な予感するし。」「それもそうか。」
詩織は小さく笑った。そして、湊が扉へ手を掛ける。
重い音を立てて、ゆっくり開く扉。その先には暗闇が広がり、胸がざわついた。
でもここに、自分たちの記憶に関係する何かがある、そんな気がした。
部屋の中は想像と違った。天井まで届くほど高い、巨大な本棚であった。図書館よりずっと広い。しかし、本の代わりに並んでいるのは箱だった。全て同じ大きさで、無数の白い箱が棚いっぱいに収められている。
「……何だこれ。」
湊が近くの箱を手に取った。蓋には数字が書かれている。
『7』
別の箱には、
『12』『3』『5』
数字ばかりだった。詩織が奥を見て、固い表情を浮かべる。
「あの。」
私たちは振り返る。詩織の前には、一つの棚があった。そこだけ数字ではなく、写真が貼られている。古びた学校の写真だ。そして裏返された数字。
背筋に寒気が走った。自分たちの手帳に挟まっていたものと同じだった。棚には四枚の写真が並んでいる。
『4』『9』『2』『1』
張り詰めた空気の中で、自分たちの呼吸だけが聞こえる。そして、棚の上には一枚の札が置かれていた。かすれているが、それでも文字は読めた。
『限界観測記録』
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが嫌な音を立てた。私は無意識に自分の手帳を取り出していた。挟まっている写真を見る。表面に写る学校の校舎。裏返す。
『4』
棚に置かれた写真を見る。同じものだった。写真に付いている傷の位置まで一致している。偽物じゃない、自分のものだ。
「なんで……。」
声が掠れる。詩織も手帳を開く。
『2』一致。
湊も『9』一致。
最後に朝日、『1』一致。
誰も笑わなかった、明るい朝日ですらも。
観測とは一体何だろう。私たちは何かに観測されているのか......?
開きかけていた棚の下の引き出しに、古びた紙束が入っている。詩織が取り出した。手慣れた様子で埃を払う。
「読めそう?」
紙はかなり古く、ところどころ文字も消えていたが、断片的には読めた。
『記録保管規定 本施設は限界到達者の観測記録を保管する。対象者には識別番号を付与する。番号は累積観測回数とする。』
そこで文章は途切れていた。全員の顔がこわばる。
「累積観測回数?限界に達した回数ってこと?」
詩織が言う。湊は黙っていた、何か考えている。
「湊?」「……いや。」
今回も歯切れが悪い。
「何となく分かる気がしただけ。」「何が?」
湊は少し黙る。
「限界って言葉。」
そう呟いた。
その後私たちは、部屋の奥を調べることになった。まだ何か手掛かりが見つかるかもしれない。その一心だった。棚の間を進むと、数字、数字、数字。延々と続いている。
『24』『8』『6』『31』
どれも誰かの記録なのだろうか。そう考えると気味が悪かった。
「三十一回もある。」
朝日が箱を見て呟く。
「すごいな。」「すごいで済ませる数字じゃないでしょ。」「確かに。」
朝日は苦笑した。そして、一つの箱へ手を伸ばす。
『9』
書かれていた数字に、湊が顔を上げた。
「……やめとけ。」
朝日の手が止まる。
「なんで?」「分かんねぇけど。」
湊は箱を見つめている。
「開けない方がいい気がする。」
その声は妙に真剣だった。
まただ、また湊だけが知っている。知るはずのないことを。
棚の最奥、そこには机が一つ置かれていた。机の上にはノートが一冊。開くと中には、手書きで文字が書かれていた。さっきの文献と関係がありそうだ。
『観測対象は共通して記憶欠損を示す。特に顕著なのは生存理由に関する記憶である。』
『対象者は限界到達時、生存理由を見失う傾向がある。そのため保管を行う。』
「保管……?」
他の三人も一緒に読み始めた。
『好きだったもの、大切だった人、将来の夢、幸福の記憶、これらは最初に失われる。観測者は対象が失った記憶を保管する。』
私はまだ思い出せないでいる。好きだったもの、将来何になりたかったのか、大切な人の顔、その全部。詩織も同じ顔をしている。湊も、朝日も。
「これって。」
私は震える声で言葉を紡ぐ。
「私たちのことだよね?」
誰も否定しなかった。その時だった。
ガタン。
大きな音に、全員が振り返る。入口の方からだった。誰かいる。そう思った瞬間、照明が消えた。真っ暗になる。
「えっ。」
私はとっさに声を上げる。
「待っ……」
詩織の声。
ゴン。
聞き覚えのある音、重い足音。近い、近すぎる。
「嘘だろ。」
湊が吐き捨てる。
ゴン。ゴン。ゴン。
棚の向こう側、確実に近づいている。全身が凍る。
アイツが来る......!
朝日が小声で言った。
「走る準備。」
暗闇の奥、棚と棚の隙間。そこに巨大な影が現れた。今度ははっきり見えた。人型だった。だが人ではない。異常に太く長い腕、異常に発達した筋肉のようなもの。顔の位置には何もない。ただ赤黒い穴だけが空いている。
目の前の恐怖に身の毛がよだつ。声も出なかった。
あっけにとられていたその時、黒い穴がこちらを向いた。全身から血の気が引く。目が合った、そう思った。アイツには目がない、顔もないはずなのに、確かに見られていた感覚があった。
ゴン。
怪物が一歩前へ出る。棚が揺れた。
「走れ!」
湊の声が響く。四人は同時に駆け出した。棚の間を走る。右、左、右。まるで迷路だった。
「こっち!」
朝日が叫ぶ。私は考える余裕もなくついていく。
ゴン。ゴン。ゴン。
後ろから重い足音が迫る。振り返らなくても分かる、追ってきている。
「もうなんなのあれ!」
耐えられずに叫ぶ。
「知らない!」
朝日も叫び返す。
「でも捕まったら終わりな気がする!」「それは分かる!」
ドゴーン——。
轟音が響き、木片が飛び散る。ふと振り返ってみると、異常に発達した筋肉あり得ない長さの腕を持った怪物が、後ろの棚が吹き飛ばしていた。
「うわっ!」
転びそうになる詩織の腕を、湊が掴んだ。
「走れ!」「分かってる!」
珍しく詩織が大声を出す。四人は出口へ向かって走った。
「見えた!」
朝日が叫ぶ。最後の力を振り絞って飛び出す。
そのまま全員転がるように廊下へ出た。湊が勢いよく鉄扉を閉めた直後。
ドン!!
内側から衝撃が走る。全員が凍り付いた。
ドン!!
もう一度衝撃が走り、鉄扉が歪む。
しばらくして、静かになった。足音も聞こえない。誰も喋らない。荒い呼吸だけが響く。五分ほど経った頃、私はようやく壁にもたれた。足が震えている。
「死ぬところだった......。」「まだ死んでないよ。」
朝日が言う。
「まだってなに、 “まだ”って。」
私は思わず笑った、緊張が切れたらしい。
朝日も笑う。湊も、詩織も、少しだけ笑った。
不思議だった。さっきまであんなに怖かったはずなのに、笑いあっているなんて。
さっきよりも四人の距離が近くなった気がした。
少し休もう、と四人は空き教室に入り、机を寄せ合って座る。窓から夕焼けが差し込んでいる。相変わらず空は赤いままだった。夜になる気配がない。
「変な島だね。」「本当に。」
詩織が頷く。
「逆に変じゃない場所がないです。」「それはそう。」
朝日が笑う。しばらく沈黙が続いた。全員、疲れていた。
しばらくして、湊がポケットから写真を取り出した。学校の写真。裏には『9』。
玲も写真を見る。『4』。
詩織は『2』。
朝日は『1』。
数字、限界観測記録、累積観測回数……。その言葉が頭から離れない。
「なあ。」
朝日が言う。
「写真見て、なにか思い出さない?」
私は顔を上げた。
「何が?」「俺、何かを守ってた気がして.......。誰かの毎日のために。」
朝日は写真を見つめ、静かになる。実は私も同じことを思っていた。さっき保管室で写真を見てから、胸の奥に引っかかるものがある。断片的な記憶の欠片。しかし未だ霧がかかって見えない。
「私もです。」
詩織が言った。
「何を思い出したの?」
詩織は少し迷う。
「図書館です。本が好きだったのは覚えています。」
小さく笑う。
「でもそれだけじゃなくて……。誰かと一緒に行ってた気がするんです。」「誰か?」「誰かは分かりません。」
詩織は首を振る。
「顔も思い出せないんですが......。」
そう言った時の表情は、少し嬉しそうだった。
私は目を閉じる。すると、ぼんやりと浮かんだ。黄色い机、その上に散らばった紙束、絡まったままのイヤホン、夜の暗い部屋の中で、何かを書いている自分。
そして、悔しい、苦しい。でも、諦めたくない。そんな感情が胸の奥に残る。
「……私。」
思わず声が漏れてしまい、三人が私に注目した。
「何か頑張ってた気がする。」
何を、誰のために、それは思い出せない。しかし、確かな過去があった。
一方湊は、写真を見つめて黙っていた。やがて、小さく呟く。
「俺も思い出した。」
三人が振り向く。湊は少しだけ苦い顔をした。
「嫌な記憶だけど。」
その言葉で、教室の空気が少し変わった。




