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潮騒の校舎  作者: 阿須間零


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第四章 黒い影

ゴン。


また音が響いた。今度はさらに近い。本棚が微かに震える。

誰も動けなかった。図書室の空気が張り詰める。凛は無意識に息を潜めていた。

音の正体が分からない、だから余計に怖い。


ゴン。


重い足音。確かにそう聞こえた。人間ではない、そんな気がする。

湊が静かに扉の横へ移動した。何かあればすぐ動けるように、詩織も本を閉じた。


「……ここを出よう。」


彼は小さな声で言った。そして誰も反対しなかった。


私たち三人は図書室を後にした。廊下は静まり返っていて、音の主は見えない。しかしこの校舎のどこかにいる。それだけは確実だった。


一刻も早くこの島から脱出しようと、まずは一階を調べることにした。職員室、保健室、音楽室。どこも空だった。しかし妙な共通点がある。

どの部屋にも生活の痕跡が残っているのだ。黒板に途中まで書かれた文字。開いたままの白紙のノート。花のない花瓶。まるで人々が突然消えたみたいに。


「気持ち悪いね。」


二人は返事をしなかった。湊が廊下の先を見ている。


「どうしたの?」「いや。」


湊は眉をひそめた。


「あっちの突き当たりに行けば、二階への階段がある気がして。」


私と詩織は振り返る。そこは初めて通る場所だ。知っているはずがない。

しかし歩いていくと、本当に階段があった。

三人とも黙る。湊自身も気まずそうだった。


「だから分かんねぇって。」「夢で見たとか?」「……かもな。」


歯切れが悪い返事だった。詩織はじっと湊を見ていたが、何も言わなかった。

私たちは階段を上る。

二階へ着くと、校舎の様子が少し変わった。窓ガラスが割れていて、床に水溜まりがある。壁紙も剥がれていた。一階よりも荒んだ光景だった。

廊下の先に、隣の館へ続く渡り廊下が見える。しかし妙だった。水面が揺れている。三人は近づいて、絶句した。


「……え?」


詩織の声が漏れる。

この渡り廊下は完全に水没していた。屋根はなく、コンクリートの通路だけが続いている。その上を、深い水が満たしていた。どこまで深いのか分からない。底が見えない。ただ青黒い水面に、風で揺れる波紋が広がる。


「何これ。」


私は呆然とした。ここは学校の中のはずだ。

それなのに、海みたいな水がある。意味が分からない。

詩織がしゃがんで手を伸ばし、水面へ触れる。


「冷たい……。」


本物だった。幻じゃない。

渡り廊下の先には別棟があるようだ。何階まであるのかよくわからない古い校舎。あちら側にも何かありそうだった。


「さすがにここを泳ぐのは気が引けるな。」


同感だ。深さもわからない、冷たい水の中を泳ぐなんて夢でもごめんだ。

......この道は諦めるか。そんなことを考えながら途方に暮れていた時、上から声がした。


「そこ、飛び込むなよ!」


三人が同時に見上げる。二階の窓には、開いた窓枠に肘をついている少年がいた。白い髪に腕まくりしたシャツ、楽しそうな顔。まるで友達を見つけたみたいに笑っている。


「この深さを泳ぐのは危ないぞ。」


そう言いながらこっちへ降りてきた。私たちはしばらく固まっていた。少年は困った顔をする。


「え、何?」「……誰。」


少年は数秒考えた後。


「横須賀 朝日。十五歳。」


と答えた。


「たぶん……。」「たぶん?」「そこしか自信ない。」


朝日は笑った。その言葉に、なぜか三人とも少し安心する。自分たちと同じだったから。


「お前も手帳持ってる?」


湊が聞く。朝日はポケットから生徒手帳を取り出した。同じだった。古びた表紙、挟まった写真。


そして、裏面には『1』という数字。


「一番じゃん。」


私はちょっかいをかけてみた。


「何が?」「番号。」「そうかも。」


朝日は興味なさそうに答えた。それから自分の後ろを指差す。


「それより。」「?」「渡るなら浮き輪使え。」


三人は顔を見合わせる。


「浮き輪?」「隣の体育倉庫。」


朝日は即答した。


「いっぱいあるよ。」「なんで知ってるんだよ。」


湊が聞く。朝日は少しだけ考える。


「なんとなく。」


私はその返答に驚いた。今日だけで、なんとなくこの校舎の内部を知っている人間は二人目だったからだ。しかし追及する前に。


ゴン。


あの音が響いた。今度は近い、近すぎる。校舎全体が震えた気がした。四人の表情が変わる。朝日の笑顔も消えた。そして話し始めてから初めて、彼は真面目な顔で言った。


「隠れろ、早く!」


朝日がそう言った瞬間。廊下の奥の曲がり角の向こうで、何か巨大な影が動いた。

私たちは、こわばる体を無理やり動かして近くの教室へ飛び込む。湊が最後に扉を閉めた。四人はしゃがんでゆっくり移動し、机の陰へ身を潜める。息を殺す。廊下の向こうから音が近づいてくるようだ。


ゴン。ゴン。ゴン。


異様なほど重い音。まるで建物そのものが歩いているみたいだった。私は机の脚を握り締めた。心臓がうるさい。呼吸の音すら聞かれそうだった。足音はゆっくり近づいてくる。

そして、教室の前で止まった。全身が硬直する。風もないのに窓がカタカタと震えた。足音の主はそこにいる、扉一枚隔てた向こう側に。

私は視線を動かした。教室の後方に、ガラスの割れていない扉の小窓が見える。そこへ、赤黒いものが横切った。およそ人の形ではなかった。異様に発達した筋肉のようなものと歪な影。それだけしか見えない。怖い、しかしそれだけじゃない。見てはいけないものを見た気がした。


ゴン。


音が遠ざかる。


ゴン。ゴン。


やがて聞こえなくなった。どうやらうまく逃れたようだ。

誰もすぐには動かなかった。とんでもなく長い時間が流れたように感じたが、実際は数十秒だったのかもしれない。最初に口を開いたのは朝日だった。


「行ったな。」


私はようやく息を吐いた。うまく息ができず、肺が痛かった。


「……何だったの。」


誰へ向けた質問でもない。

しかし答えられる者もいなかった。この校舎の恐ろしさの断片を胸に、私たちは教室を後にした。

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