プロローグ
数か月に及ぶ京への遠征から帰還した夕陽は七々扇邸で不在の間の報告を受けていた。
夕陽は母親から組頭を引き継いでから、毎年のように冬の間は京で過ごす日々を送っていたが、江戸へ帰った時に受けた報告で今日ほど酷いと思ったことはない。親友である伊吹が、自分に相談も無しにこれほどの暗躍をするとは思ってもみなかったのだ。
「……まさかこのタイミングで動くとは思っていなかったな」
夕陽は感情のままに怒鳴りたい気持ちを堪えながら、部屋の隅で血の気の引いた顔で虚空を眺めてうずくまっている楓を一瞥する。
弟を溺愛していた楓は今回の件を事前に知っていたら絶対に反対しただろう。それどころか、自分も一緒に行くと言い出しかねない。
江戸最強のサムライである楓を失う事は松葉組だけでなく、日ノ本にとって多大なる損失だ。京でも楓によって命を助けられたサムライは多い。
楓を日ノ本へ留めつつ、蓮を国外へ解き放つには京へ遠征中に行うのが最も適している。
夕陽は今回の暗躍に七々扇家当主である千奈も一枚かんでいることを察しつつ、それを言葉にすることは控えて話を進めた。
「健之助君に出来ると思うかい?」
「どうでしょう。出来ても出来なくても良いから健之助君に任せられたのだと思いますが、妹の将来がかかっていますから、私としては是非とも成し遂げて欲しいですね」
伊吹の口から妹の将来という言葉が飛び出したことで、夕陽はそれが様々な思惑を隠れ蓑にした伊吹の本音なのだと確信した。
千奈が息子のために動いたように、伊吹は妹のために動いたのだ。
「私たちはもちろん、サムライの誰も大陸へ渡ったことは無い。何も分からない土地へ妹を送り出すのは平気なのかい?」
「心配ではありますよ。ですが、健之助君が一緒ですから、何とかすると思っています」
夕陽は頼みの綱が健之助の存在であるかのような伊吹の口ぶりに違和感を覚えて首を傾げる。
日ノ本から出れば男性に対する強大な呪いはなくなるが、サムライとして訓練を積んだ弥生よりも健之助が頼りになるとは思えなかった。
「健之助君の実力は弥生や涼子と同じか少し弱い程度だったと思うが?」
「戦闘力の話ではありません。健之助君にとって日ノ本は何も分からない土地だったはず、だというのに、彼は日ノ本へやってきて一年足らずでサムライという地位に登り詰めました。元奴隷の男性という弱い立場を最大限に利用して庇護を求め、スキルや魔法の才能で自身の価値を高め、夕陽や楓に気に入られることで組内での立場を盤石にした。これは簡単に出来る事ではありません」
伊吹によって健之助の優れている点が挙げられていくと、夕陽にも健之助の異常性が理解できて来た。
他の男とは違う面白い少年だとは思っていたが、これらの事を狙ってやっていたのだとしたら大した才能だ。
「つまり、同じことを帝国でもやってくれるのではないかと?」
「ええ。だからこそ、彼が帝国に取り込まれないように、弥生との結婚という枷を与えたのです」
「褒美ではなく、枷か。弥生と結婚するための任務だと思わせることで、彼が帝国人にどれだけ気に入られようとも、日ノ本へ帰ってくるように仕向けたのだね」
その作戦が成立するのは健之助が弥生に執心している場合に限るのだが、慎重派である伊吹が行動を起こしたということは、健之助はほぼ間違いなく枷を枷だと思わずに褒美として受け取ってしまったのだろう。
「男性である健之助君にとっては日ノ本よりも帝国の方が暮らしやすい可能性があります。弥生という枷は絶対に必要でした」
「なるほど? けれど、それなら涼子も付けてやれば良かったのではないかい? あれは間違いなく健之助君を好いているし、貝塚家の次女だ。後を継いだ静香には娘が産まれたと聞いたし、嫁に出しても問題ないだろう」
夕陽の見立てでは、健之助と涼子はとても仲が良かった。仲の良い女性を二人も妻に出来るのなら、健之助の心を日ノ本に留め置くことがより容易くなったはずだ。
「……弥生は奥手ですから、涼子さんに先を越されてしまっては可哀そうではないですか。ただでさえ、婿を迎えるのではなく、嫁に出るのですから、弥生の精神的負担は軽くしてあげたかったのです」
夕陽は呆れたように息を吐いた。
やはり伊吹は弥生に甘い。末っ子で、サムライらしさにかけるところが心配でならないのだろう。次女の華火と違って引っ込み思案で、何をするにも遠慮している姿を何度も見たことがあった。
「君も妹には甘いのだね。しかし、それなら尚の事、華火にはなんと説明するつもりなんだい? 京では派手に男遊びをしていたが……彼女も健之助君の事はお気に入りだっただろう?」
「健之助君を弥生に譲る代わりに、京で遊べるようにお金を持たせたのです。多少は不機嫌になるかもしれませんが、以前ほど荒れる様な事は無いと思います」
「男好きなのは君と変わらない分、色々と溜め込んでいそうだった。姉である君は男に不自由しておらず、妹は男と二人旅。さすがに私から見ても不憫でならない。愛人の一人でもあてがってやったらどうだい?」
次女や三女は結婚できないので、あまり大ぴらに言えることではないが、何かしらの方法で発散させてやらねば性欲が暴走しかねない。
松葉組のサムライたちの中にも、親や姉から用意された愛人と遊んでいる者は何人もいるのだ。
「私も探してはいるのですが、健之助君に並ぶような男は見つからないでしょう」
「そ、それはそうだろう。性格は少々女勝りだが、立ち振る舞いは元奴隷とは思えないほどよく教育されていて品があるし、背も低くて顔立ちも可愛い。身分さえ高ければ私が欲しいくらい――」
夕陽は目を丸くして驚いている伊吹に気付いて、言葉を区切る。
「――な、何だ、その目は?」
「いえ。思った以上に夕陽さんは健之助君の事を気に入っていたのですね」
「……それは君だって同じではないのか?」
健之助のような可愛い男を好ましく思わない年頃のサムライなどいない。
別に一人一人に聞いて回ったことは無いが、松葉組にいるほとんどのサムライが健之助に劣情を抱いた経験があるだろうと、夕陽は確信を持っていた。
「否定はしませんが、彼は弥生にあてがうのにちょうど良かったのです。まるで神が弥生のために遣わしたのかと思うほどに、都合よく弥生好みの男だったのですから」
夕陽は健之助が好みではないサムライの方が少ないだろうと思ったが、これ以上自分が彼に対して邪な感情を抱きかけていた事実を幼馴染に悟られないために口を噤む。
「そして、その健之助君と同じ屋根の下で暮らす事に慣れてしまった華火には、特定の愛人を作らせるよりも、花街へ遊びに行かせる方が良いと思っています」
「長女である私が言うと反感を買いそうだが、次女に生まれるというのは過酷だな……」
夕陽や伊吹は結婚して跡継ぎを産むように両親から望まれる年齢であり、当然のように両親が用意した婚約者候補がいる。楓は断り続けているが、彼女も七々扇家の次期当主であり、多くの縁談が持ち込まれていた。そんな彼女たちが次女や三女の悩みを心から理解することは難しかった。
「私の妹たちの話はここまでにして、もう一つ伝えなければならないことがあります」
少し脱線していた話を戻しつつ伊吹が姿勢を正したのを見て、夕陽は空気が切り替わったのを感じて、思考を松葉家長女から松葉組組頭へと切り替えた。
「本当は楓にも聞いて欲しかったのですが……今は無理でしょうか」
伊吹がちらりと部屋の隅にいる楓へ視線を送る。
サムライの魂とも言える刀を畳へ放り出してうずくまっている楓は、虚ろな目で空中を見つめていてとても話が出来そうな状態には見えない。
「しばらくは心ここにあらず、だろう。代わりに千奈様を呼ぼうか?」
「千奈様には先に伝えてあるので大丈夫です。内容が内容だけに、夕陽に相談次第、上様にも報告しなければならないでしょう」
上様という言葉を聞いて、夕陽は眉間に皺を刻む。
「ただ事ではなさそうだね。もしかして、そっちが本命かい?」
「もちろんです。私の『魔眼』が観た未来の話ですから」
「聞かせてもらおうか」
夕陽の予想を遥かに越えた、驚くべき未来の話が伊吹の口から語られた。
第二章の始まりです。
健之助たちが帝国行きの船に乗っているくらいの時期の江戸での話でした。
次回は健之助視点に戻ります。




