第三話 幽霊とSNS
七月上旬、蝉の声がわずかに聞こえ始めた頃。新米教師の尾軽透は、夏休み前の小学校の業務に文字通り忙殺されていた。
夏祭りの準備、成績表の作成、そして何より、校内のあちこちで起きる小さなトラブルの対応に、休む暇もない。
先日の廃墟パトロールや灯二と協力して作った「廃墟の恐怖映像」のおかげで、生徒たちの無謀な廃墟探索は止んだらしい。それは良かったのだが、教師という仕事の忙しさは彼の想像をはるかに超えていた。
学生時代野球で鍛え抜いた体に、連日の疲れが蓄積されていく。肉体的な疲労よりも、神経をすり減らす精神的な疲れが彼を蝕んでいく。職員室の窓から外を眺め、公園で悠々自適に過ごしているであろう親友の灯二の姿を想像するたび、羨ましさが募った。
「俺も、1ヶ月だけで良いからニートしてえよ。」
そんな彼の心境を汲み取ったかのように、最近スマートフォンに表示される広告が、やけに「金」にまつわるものばかりになっていた。昼休み、職員室の片隅で、気分転換に心霊系YouTuberである星崎リコの動画を流していたときのことだ。
画面いっぱいに現れたのは、ギラギラした文字の広告だった。
【爆速で一億稼ぐ方法】
次の動画に切り替えると、また広告。
【絶対に上がる個別株三選】
さらに別の動画では、より具体的に。
【楽してできる在宅副業】
【多重債務者でもバレずにお金を借りる国家公認の方法】
どれもこれも、胡散臭さしか感じられないものばかりだ。だが、そのすべてが、今の尾軽の疲弊しきった心に響くような言葉を選んで表示されていた。まるで、誰かが彼の心の中を覗き見て、疲れと欲をピンポイントで刺激してきているようだった。
別の広告が流れた時、画面に現れたのは、有名な起業家や投資家、インフルエンサーたちだった。彼らは皆、口々に同じセリフを繰り返している。
「私は、YouTubeチャンネルで登録者三百万人を超えています。私だけが秘密で知っている個別銘柄を知りたい方は公式LINEを登録してください。」
妙な違和感があった。なぜ彼らは一言一句同じことを言うのだろう。それに、自分の名前を「ユウサク」と名乗るべきところで、なぜか「トモサク」と間違えているインフルエンサーもいる。自分の名前を間違えて、撮り直さずにそのままネットに流すか?それに、みんなジェスチャーや口の動きが妙にロボットのようにぎこちない。
不審に思った尾軽は、動画を閉じて彼らのチャンネルを検索してみた。しかし、誰一人として登録者数が三百万人を超えている者はいなかった。
その瞬間、頭の中に灯二の声が響いた。「AIによる著名人のふりをした動画、ディープフェイクが流行ってる。くれぐれも騙されるなよ。」
そういえば、リコさんも言っていたような気がする。「最近さ、あることないことを私の顔と声で言ってる動画がネットで出回ってて迷惑なのよね。再生回数稼ぎたい奴とか、私を炎上させたいやつが私そっくりのAIにあることないこと言わせるの、いい性格してるでしょ?」と。
AIとは便利なものだ。2028年現在、医療現場でAI診察による病気の早期発見、自動運転の普及、AIの補助によるパワードスーツで障害者や要介護者が自立生活を可能にするなど、社会にさまざまな貢献をしている。
AIは包丁や車、薬のように、使い方次第で人の生活を楽にもできる。だが、同時に容易に人を傷つけてしまう。
尾軽は、自らの仕事にAIがもたらす影響を考え、暗い気持ちになった。教師の仕事はAIが雑務を代替してくれるわけではない。学校という組織の意思決定は遅く、新しい制度が組み込まれるまでに時間がかかる。さらに、子どもたちがAIを使って作文や問題の答えを書いていないか「AIのチェック」をしろ、と上からのお達しまで来た。
たしかに、子どもたちの思考力を鍛えるためにズルを防ぐことは重要だ。だが、どうやって見分ければ良いのだろう? 子どもたちの作文を読み、AIが書いたと疑わしい部分を一つずつ精査するなんて、教師の仕事は減るどころか増えるばかりだ。
この皮肉に、尾軽は思わず苦笑した。そもそも、AIが社会に浸透していく中で、子どもたちにAIを使わせないまま彼らが大人になることは、果たして彼らの人生にとって本当に良いことなのだろうか。多分尾軽も今の時代の学生なら、生成AIに読書感想文を書いてもらうだろう。その分生まれた時間を野球に充てたい、そう考えるはずだ。
午後の作業を思うと、尾軽は陰鬱な気持ちになり、深くため息をついた。
なんとか午後の授業をすべて終え、尾軽はへとへとになりながら職員室の椅子に座り込んだ。重い疲労感が全身を襲い、机に突っ伏したい衝動に駆られる。その時だった。
「オカル先生、助けて欲しいことがあるの。」
職員室の扉の向こうから、聞き慣れた声が聞こえた。顔を上げると、そこにいたのは教え子のアキラと、未来だった。アキラの顔は、いつも元気な彼からは想像もつかないほど青ざめ、今にも泣き出しそうだった。隣の未来は心配そうにアキラの背中をさすっている。
疲労を忘れて、尾軽は思わず身を乗り出した。
「アキラ、どうした。何かあったのか?」
アキラは震える声で、絞り出すように言った。
「俺の姉ちゃんが、殺されちゃうかもしれないんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、尾軽の眠りかけていた脳が一気に覚醒した。
尾軽は、ゆっくりと立ち上がると、二人の小さな生徒と目線を合わせた。
「詳しく聞かせてくれ。」
尾軽は、アキラと未来を職員室の隣にある和室に通した。床には座布団が二枚置かれ、彼らはそこに腰を下ろした。尾軽は二人に温かいお茶を淹れ、「ゆっくりでいいから、話してくれ」と優しく促した。
アキラは、お茶を一口飲むと、震える声で話し始めた。彼の五歳上の姉である千尋が、死んだはずのクラスメイトのSNSから、ストーカー行為を受けているらしい。アキラは、最近千尋が部屋に引きこもりがちで、時折人知れず泣いているのを見ていた。心配になり、姉の親友に話を聞いたのだという。
尾軽は、アキラの姉である千尋のことを覚えていた。1ヶ月前に家庭訪問で会ったことがある。現在高校一年生で、テニスを小学生の頃から続けているアキラに似た活発で明るい少女だった。
茶髪で髪に軽くパーマをあてた、ギャルっぽい雰囲気の垢抜けた子だと最初は思った。礼儀正しく挨拶してくれたことや、アキラが学校に馴染めているか尋ねてくれたこともあり、根は真面目で気配りができる子だという印象を持っていた。
アキラは、千尋から直接聞いたわけではないが、親友から聞いた話として、その経緯を語り始めた。
—-
千尋が中学三年生の頃、クラスで横溝ケントという男子学生がいじめに遭っていた。プログラミングや機械いじりが好きな地味で小柄、いつも一人でいる男の子だった。クラスの一軍男子たち、瀬尾タカヒロとその取り巻きを中心にして、ケントに一発ギャグを要求したり、暴力や物を隠す、パシらせるなどの嫌がらせを日常的に行っていた。
ある日、それを見かねた千尋が、「横溝ってさ、いっつも何の本読んでるの?」と昼休み中にケントに話しかけた。タカヒロたちが介入できないようにしたのだ。
昼休み、教室の片隅で一人静かにプログラミングの本を読んでいたケントは突然のことに戸惑い、持っていた本をぎゅっと握りしめた。
「え、あ、そのっ!プログラミングのスタック領域の動的確保とヒープ領域のメモリ割り当てについてっ!」
言葉はどもり、何を言っているのか自分でもよく分からなかった。ただ、頭の中にある知識を必死に引っ張り出して、まくし立てるように喋った。千尋はそんな彼の言葉を遮ることなく、ただじっと耳を傾けていた。
ケントの早口な説明が一段落した時、千尋は困ったように笑いながら言った。
「やばっ、何の話してるのか全然分かんない笑」
その表情には嘲笑の気配は微塵もなく、ただ素直な感想と、屈託のない笑顔があった。ケントは、初めてバカにされずに自分の話を聞いてもらえたことに、心臓がドキドキするのを感じた。
千尋はケントの肩をポンと叩いた。
「横溝さ、賢いんだね。もっと堂々としなよ。」
そう言って、千尋はたじろぐいじめっ子達を鋭い眼光で睨みつけた。彼女の背中は、まるで壁のように見えた。ケントは、その小さな背中が、自分を守ってくれているのだと悟った。
「あんたら、カッコ悪いよ」と、千尋はタカヒロ達を軽蔑した。
あの出来事から、千尋の中学校生活は一変した。以前は当たり前だった女子たちの輪が、千尋から離れていく。クラスの女子たちは、互いに目配せをしては、千尋が近づくと会話を止め、露骨に距離を取った。特に二軍女子以下は、自分たちが新たなターゲットにされることを恐れ、千尋を避けることに必死だった。廊下ですれ違うときも、教室で席が近いときも、彼女たちの視線は千尋を捉えつつも、まるでそこにいないかのように振る舞う。
そんな状況を、一軍女子のリーダー格である新庄アズサは、ただ黙って見つめている。彼女の口元には、薄い笑みが浮かんでいた。アズサは、運動ができて、男子からの人気もあり、物怖じせず自分に正直に生きる、ギャルのくせして成績優秀な千尋をずっと面白くないと思っていた。
千尋が勇気を出してケントを助け、そしてその行動が裏目に出た今、アズサにとってこれほど愉快な光景はない。
中学三年当初、アズサは一軍男子のタカヒロと付き合っていたが、4月中にアズサは振られた。原因は、タカヒロが千尋と同じクラスになり、そして彼女を好きになったからだ。
しかし千尋はタカヒロからの告白をあっさりと断った。顔が多少良くて運動ができるが、性格が悪い。そんな薄っぺらい人間に千尋は興味が無かったからだ。だが、その一件でアズサに恨まれてしまったようだ。
アズサからの嫌がらせに対して、「馬鹿らしい、中学生ってほんとガキばっか。こんな足の引っ張り合いくらいしか楽しいことがないなんて可哀想。」千尋はそう割り切っていた。
中3の秋、千尋が登校すると、黒板にケントと千尋の相合傘の描かれた光景が飛び込んできた。
千尋は「くだらない」と吐き捨て黒板消しで相合傘を消したが、ケントは千尋に勘違いをし続けていた。
千尋がケントを助けたあの日以降、ケントに話しかけられる頻度が増えた。
「ち、千尋ちゃん。今日一緒に帰ろうよ。プログラミングの分からないところ、教えてあげるよっ!」
「ウチ、部活あるからごめん。」
と言って断ったが、懲りずに毎日、休み時間も話しかけてきて少し面倒に感じていた。アズサ達は、その様子を見て陰でくすくすと笑っていた。
とある日、教室は自習の時間になった。
「えー、みなさん。静かに勉強しておくように。」
初老の先生の忠告など、大半の学生には届いていなかった。急用で教室から出て行く先生を、エサのお預けを食らった犬のように目を爛々と輝かせて生徒達は見送った。
静寂を装ったその空間は、どこか異様な熱気に満ちていた。タカヒロたちは、自習というルールを平然と無視し、席を立ち上がった。まるで獲物を追い詰めるかのように、ケントと千尋の机を囲んでいた。
「何よ、今は自習の時間でしょ。さっさと席に戻りなさいよ。」
「ああ、戻るさ。用事が済んだらな。」
彼らの顔には下品な笑みが浮かび、クラス中の視線が二人に注がれている。
「みんなー!今からこの2人がアツアツのキスしまーす!」
「は?」
何を言っているんだこいつらは。
「さっさとキスしろよ。キースっキースっ、さっさとキース!!」
野次が飛び、指笛が鳴り、嘲笑が起こる。ケントと千尋は、その場でカップルに仕立て上げられ、公開キスを迫られていた。
「何言ってんのあんたら。バカじゃないの。」
千尋は冷めた声で吐き捨てた。彼女の言葉は、その場の熱気を一瞬で冷ますはずだった。だが、クラスの異様な雰囲気は、まるでカルト教団の儀式のようだった。受験期のストレス発散の対象を求めるかのように、生徒たちは狂気に包まれていた。千尋の反発は、むしろ彼らの興奮を煽るだけだった。
「ちょっと、横溝からも何か言ってよ。」
千尋はそう言ってケントに振り向いた。その瞬間、彼は千尋の両肩を掴んだ。
「ひっ。」
千尋は驚きに目を見開いた。
「ち、千尋ちゃん。み、みんながそういうからさ、仕方ないよね。」
ケントの目は泳ぎ、顔は緊張と興奮で引きつっていた。千尋の目の前には、初めて見る至近距離のケントの顔があった。粉雪のように髪の毛に舞い降りたフケ、開いた毛穴、頬にできたニキビ、全く手入れされていない濃い眉毛、口周りに薄く生え始めた産毛。そして、食べ物が腐ったような口の臭いが、千尋の鼻をついた。その全てが、千尋に強烈な嫌悪感を与えた。
嫌だ、気色悪い。今の状況はまるでライオンの群れに放り込まれたウサギだ、千尋はそう思った。
そんな時、アズサの声が聞こえた。
「ちょっと男子やめなよー。」
その棒読みの言葉は、まるで芝居でもしているかのようだ。止める気などさらさらなく、むしろ事態が面白くなることを期待しているかのように、彼女たちはニヤニヤとこちらを見ていた。
千尋は、その視線を感じながらも、ケントを睨みつけた。彼女の心には、怒りと苛立ち、そして裏切られたような感情が渦巻いていた。
クラス中が「キース、キース!!」とはやし立て、ケントが頬を赤らめて目を閉じ、唇を突き出した瞬間、千尋は寒気がした。
「勘違いすんな!気色悪いんだよ!」
千尋はそう罵倒し、ケントを突き飛ばして教室を出た。派手な見た目に反して優等生の千尋は、その日人生で初めて早退した。
あの出来事以降、千尋はケントを徹底的に無視するようになった。千尋は、以前のようにタカヒロたちを軽蔑することも、ケントを庇うこともなくなった。ただ、クラスの輪から極力関わらないようにし、他クラスのテニス部仲間と行動する時間を増やした。
殴られ、蹴られ、ものを隠され、パシられ、時にずぶ濡れで教室に入ってくるケント。机に「死ね」と落書きされても、彼は何も言わず、ただうつむいていた。そんな姿を見ても、千尋は見て見ぬふりをした。
アズサは、先日の千尋を見てある程度気が済んだのか別の人間をターゲットにしている。仲良しグループの中で一人除外したLINEグループを作ったり、SNSで悪口をつぶやくのに忙しいようだ。
「自業自得でしょ、あんなキモオタ。助けようとしたウチがバカだった。また勘違いされたら困るし。もうウチの知ったことではない。勝手にやってろ」
千尋は心の中でそうつぶやいていた。一度は彼の味方になろうとした自分が、まるで愚かだったかのように思えた。彼の醜悪な勘違いが、千尋の親切心をあっという間に消し去ってしまった。そして、彼女の心には、冷たい壁が築かれていった。
もう、彼の泣き顔も、苦しむ姿も、千尋の心には届かない。冷え切った目で、ただただ、教室の片隅で起こるいじめを眺めていた。
弱いものいじめをするタカヒロ、集団で群れるしか能のないアズサ、助けたらつけあがるケント、いじめを無視する事なかれ主義の先生やクラスメイト。全部に嫌気が差した。
中学三年生の冬、11月末。その報せはあまりにも突然だった。横溝ケントが自宅で首を吊ったという事実が、地方の小さな新聞に載り、連日、学校にはマスコミが押し寄せた。校長室では緊急の学級会議が開かれ、教師たちの顔には疲労と焦りがにじんでいた。そして、受験のノイローゼだということでいじめの真相は闇に葬り去られた。
しかし、教室の雰囲気は奇妙なほど静かだった。いや、静かというよりも、無関心だった。ケントがいた場所は、ぽっかりと穴が空いたように見えた。だが、元々存在感が薄かった生徒が一人消えたところで、クラスメイトたちは何も傷ついていないように見えた。
「ったくめんどくせーな横溝。消えろって言ったけどさ、死んだ後も俺たちに迷惑かけんなよな。」
いじめっ子の一人が、そう吐き捨てた。タカヒロもそれに続く。
「それな。担任に毎日呼び出されてめんどくせー。まあシラきって逃げ切るけどな。ったく横溝のやつ、俺が主犯ってバレて内申点に響いたらどうすんだよ。お前ら、チクんじゃねーぞ!」
彼らの会話は、まるでゲームで負けたことへの愚痴のようだった。いじめの被害者は、最後にせめてもの復讐として、加害者に罪悪感を与えようとするのかもしれない。
だが、日頃から他人を虐げることに慣れている人間は、被害者の自殺なんかで反省しない。人を傷つけて自分も痛みを感じる人は、そもそも死を選ぶまで相手を追い詰めたりはしないのだ。
千尋は、その光景をただ見つめることしかできなかった。
「私は関係ない。」
そう自分に言い聞かせようとしても、心の中の記憶は消えなかった。彼が唇を突き出してきた時の嫌悪感、そして「気色悪い」と罵倒し、その手を払いのけた自分。その後、彼を見て見ぬふりをした、冷たい視線。
私が無視したから。伸ばした手を払いのけたから。だから、死んだ。
千尋の頭の中は、その言葉で埋め尽くされていた。
他クラスの友人たちは、千尋を慰めてくれた。
「千尋はむしろ被害者だよ。巻き添えを食らっただけじゃん。」
「勇気を出して助けようとしたんだから、他のクラスメイトよりずっと立派だよ。千尋は悪くない。」
第三者から見れば、きっとそれが正しい。千尋は巻き込まれただけ。でも、だからといって、自分に罪は無いのか?
むしろ、結果的にとはいえケントに希望を与えた後絶望の淵に叩き落としたのは千尋だ。千尋の心の中には、消えることのない、重い罪悪感がのしかかっていた。
——
尾軽は、アキラの告白に耳を傾けていた。横溝ケントの自殺、そして千尋の罪悪感。話を聞き終えた尾軽は、考え込むように顎に手を当てた。
「なるほど、そんなことがあったのか。けど、そこから千尋ちゃんの命が危なくなることにどうして繋がるんだ?」
「うん、それはね。」
尾軽の問いに、アキラはさらに言葉を続けた。千尋はケントの自殺に大きなショックを受け、数ヶ月間は落ち込んでいたが、高校に入ってからは、再び元の明るさを取り戻し始めたと思っていた。だが、六月に入った頃から、その平穏な日常は一変したという。
死んだはずの横溝ケントのSNSアカウントから、千尋のアカウントにいいねやリポストの通知が届くようになったのだ。最初は誰かのなりすましかと思ったが、そのアカウントには数年前のケントの投稿がそのまま残っており、本人のものであることは確かだった。
それに、千尋の友達は「街で横溝ケントを見た。誰かを探しているようだった。」と噂していた。そのたびに千尋は怯え、学校でも落ち着かない様子だったという。
ケントのSNSアカウントはすべてブロックしたが、複数の捨てアカウントからメッセージが大量に届くようになった。
「今日もかわいいね千尋ちゃん。」
「今日の部活は午前練だけなんだね。午後からプログラミングを一緒にやろうよ。」
「ねえねぇ、どうして返事してくれないの?メッセージ届いてないのかな?」
まるで千尋の行動を逐一監視しているかのような文面に、内容も日に日にエスカレートしていく。千尋は身の危険を感じているという。
尾軽は、アキラの話にゾッとした。これがただの悪質ないたずらではないことは明らかだった。彼は、さらに深く掘り下げるべくアキラに尋ねた。
「高校の担任の先生には相談したのか?」
「相談したらしいよ。だけど…。」
千尋は、これ以上一人で抱えきれないと判断し、勇気を出して高校の担任教師に相談した。しかし、担任は「生徒間のトラブル」としてしか捉えず、「まずはSNSの使用を控えるように」という、何の解決にもならないアドバイスをするだけだった。
「死んだクラスメイトからメッセージが来る?イタズラだろ、高校生にもなってそんなものに騙されているのか?もっと勉学に集中しろ。俺が個別指導してやろうか?」
と担任の中年おじさんに言われた時、千尋は大人を信用することを諦めた。
千尋が「死んだはずのクラスメイトから連絡が来る」と訴えても、教師は困惑した顔で、精神的なショックからくる幻覚ではないかと遠回しに示唆した。
頼るべきは警察だと、千尋の家族が最寄りの警察署に相談した。しかし、サイバー犯罪の専門家が動いても、状況は好転しなかった。警察が割り出したIPアドレスは、ケントの実家、仏壇の横に置かれた、彼の遺品であるスマートフォンだったのだ。ケントの家族は、当然スマートフォンのロック解除に必要なパスワードを知らない。警察はスマホを解析することも、データにアクセスすることもできず、ただ遺族に「端末を初期化しますか?」と尋ねるしかなかった。だが、遺族も息子との唯一の繋がりを断つことは避けたいので、端末の初期化は拒否されている状況である。
警察がストーカーを捕まえられない理由は、法律上、怪しい人物を逮捕するには「加害者の特定」が不可欠だからだ。メッセージの送信元の人物は故人として扱われる。
アンチコメントの情報開示請求をしたら、死んだ人間のアカウントから行われていたようなものだ。
背後にいる人物を特定するのは、現在の捜査技術では不可能に近い。また、ケントという人間はこの世にいない。亡くなった人間がストーカー行為をしているという事案は、前例が少なすぎて法的にどう対応すべきか、明確な指針がないのだ。
対症療法的に不快なアカウントをブロックするしかないが、千尋がブロックするたびに、数十もの新しいアカウントから連絡が来る。SNSを開くことすら恐怖になり、千尋はまともに友達や家族と連絡を取ることすら困難になった。最近は、親にスマートフォンを預けて生活をしている。
「だからさ、俺も姉ちゃんの力になれないかなと思って。オカル先生と灯二さんなら、解決策を知ってないかな。」
アキラは震えていた。姉への心配、そして、無力な自分への憤りが、その小さな体を揺さぶっている。
この子はこっくりさんの件で未来を助けた時のように、人のために立ち上がれる、立派な人間だ。そんな子が、恐怖で震えている。ここで力にならなくて、なにが大人だ。
「まかせろ。俺と灯二が、必ず君の姉さんを助けるから。」
完全な見切り発車、警察も匙を投げた案件だ。ましてや尾軽の生徒ですらない。担任の先生すら面倒くさがっている。給料なんて発生しない。やり方なんて分からない。
だから探すしかない。アキラと、アキラの姉ちゃんを助ける。尾軽が助けると決めた、この感情だけは確かなものだ。
尾軽は、アキラの両親から許可をもらい、午後の授業の後、未来とアキラと三人で佐久間家に向かった。アキラの家のリビングの扉を開けると、そこに千尋の姿があった。
彼女はソファに深く腰掛け、紅茶を飲みながら一冊の本を読んでいた。だが、その姿は一ヶ月前に家庭訪問で会った時の明るさやエネルギッシュさを完全に失っていた。茶髪の髪は以前よりも覇気がなく、顔は少しやつれたように見える。無理もないか、と尾軽は思った。
千尋は尾軽に気づくと、表情を変えずに小さく呟いた。
「あぁ。アキラの担任の…。」
「尾軽です。千尋さん。」
尾軽が名乗ると、横にいたアキラが恐る恐る伝えた。
「姉ちゃん、オカル先生が助けに来てくれたんだよ。オカル先生はね、この前未来に取り憑いたこっくりさんを祓ってくれた人!……の友達。」
アキラの言葉に、尾軽は思わず苦笑いを浮かべた。確かに、俺がこっくりさんを解決したわけではない。しかし、そこまで正直に言わなくてもいいだろう。
千尋は、その言葉を聞いても何の感情も浮かべていないようだった。彼女はゆっくりと立ち上がると、尾軽に愛想笑いを浮かべ、軽く会釈をした。
「うちの弟がお世話になってます。ウチは、別に大丈夫なので、お気になさらず。」
その言葉の奥には、拒絶の意思がはっきりと見えた。高校の担任に裏切られたせいだろうか。それとも、警察がまともに取り合ってくれなかったからだろうか。彼女の表情は、大人に対する不信感を物語っていた。そもそも、千尋に呼ばれたわけではない。アキラと尾軽の余計なお節介だと思われているようだった。
アキラは、今にも泣き出しそうな顔で千尋に訴えた。
「姉ちゃん、今日も学校早退したんだろ!?母ちゃんに聞いたよ!あんなに学校も部活も大好きだったのに、小学生の俺よりも早く家に帰ってきてる時点で、大丈夫なわけないじゃん!」
アキラの言葉は、千尋を深く突き刺した。本を閉じ、立ち上がった千尋の顔からは般若のような怒りが噴き出ていた。
彼女は苦しそうに叫んだ。
「何よ…何にも知らないくせに!」
突然のヒステリーに、部屋の空気が凍りついた。尾軽とアキラ、そして未来に緊張が走る。
「ウチがどんな目に遭っているのか、家を出るのがどれほど怖いか知らないくせに!」
アキラは勢いに押されたかに見えた。だが、拳を握りしめて怯まずに言い返した。
「知らないよ!分からないよ!だから、助けを求めてよ!」
アキラも涙を流しながら叫んだ。彼の心の叫びは、千尋の心を揺さぶった。
しかし、千尋の口から出たのは、大人への深い絶望だった。
「警察も相手してくれなかったのに、小学生とその担任がどうにかできるわけないでしょ!」
その言葉に、尾軽は静かに千尋の目を見つめた。
「辛いなら、なおさら一人で抱え込んじゃだめだ。大丈夫、俺たちは見捨てたりなんかしない。」
その時、未来がそっと千尋の手を取った。
「千尋ちゃん、私を家から救い出してくれた人がそう言うの。だからきっと、大丈夫だよ。」
未来の温かい手が千尋の心を溶かした。千尋は未来を抱きしめ、その場に崩れた。堰を切ったように、千尋の目から大粒の涙がこぼれ落ち、未来は千尋の背中に手を回しさすっている。
「うっ。ふぐっ。うう。」
本当はアキラに八つ当たりなんてしたくなかったはずだ。だが、叫ばなければどうにかなってしまいそうなほど、千尋は追い詰められていた。たくさんの大人に期待し、裏切られてきたのなら、大人を信用できなくなるのも無理はない。
尾軽は、千尋が泣き止むのを待って、静かに語りかけた。
「だから、千尋ちゃんに紹介したい人がいる。明日以降で良いから、彼と会って、どんなことがあったか話してもらえないかな。きっと、あいつなら解決策を思いつくはずだ。」
他力本願だと思うか?結構だ。それで目の前の泣いている女の子が笑顔になるなら安いもんだ。さっき俺は言ったばかりだ。周りを頼れと。俺は野球一筋で大して頭も良くない。だからこそ、信頼できる仲間に協力を仰ぐんだ。
千尋は顔を上げ、涙で濡れた目で尾軽を見つめた。その目に、確かに光が灯った。
——
翌日の夕方、街の一角にあるファミレス。奥の席には尾軽、灯二、星崎リコが、手前の席にはアキラ、千尋、未来が向かい合って座っていた。放課後の時間帯とあって、店内は学生で賑わっている。尾軽が千尋の家の近くの店を指定したことで、なんとか外出する勇気を持てたらしい。
「なるほど。死んだはずの男がストーキングか。興味深いな。」
灯二は千尋と向かい合い、淡々と言った。彼の声には、嘲りも同情も含まれていなかった。ただ、目の前の事象に対する純粋な好奇心だけが感じられる。
灯二に相談した時、尾軽は断られることも覚悟していたが、彼は二つ返事で承諾した。
「死んだ人間がSNS上に現れ、しかもそいつが街を徘徊しているだと?そんなことあるはずがない。俺が否定してやる。」
そう言い放った灯二の眼鏡が、家の照明を反射してキラリと光った。
灯二は、都市伝説やオカルトの類が大嫌いな人間だ。この世の謎を少しでも解き明かし、自身の不安を減らすため、毎日本を読み知識を身につけている。投資で金を稼ぎ、将来の憂いもなくす。そして、超常現象を科学的に解明する。それが彼の生き方だった。
そして現在。
「で、なんでお前もいる、星崎リコ。」
灯二は隣に座るリコに視線を向けた。
「何よ、居ていいじゃない!私は心霊系YouTuberなんだから、私も何か役に立てるかもしれないでしょ!
視聴者から似た事例を聞けるかもしれないし。警察が匙を投げたのなら、少しでも情報は多い方が良いでしょ?」
リコは頬を膨らませ、不満そうにまくし立てる。
「ごめん灯二さん、私が呼んだの。」
未来が手を合わせ、申し訳なさそうに言った。
「ふん。まあいいだろう。」
灯二はつまらなそうに鼻を鳴らした。
尾軽は灯二の横顔を見て思った。先日の廃病院での一件もあるので、無関係なリコを極力危険なことに巻き込みたくないのだろう。
そう思っていた矢先、千尋が口元に手を当て、驚いたように声を上げた。
「すごい、本物の星崎リコじゃん。生リコ、画面で見るより百倍可愛い。」
リコは心霊系YouTuberでありながら、若い女性視聴者たちにとっては憧れの存在だ。その登場に千尋は緊張が少し解けたように見えた。
「ふふっ、ありがと。千尋ちゃん、だっけ? あなたもとっても可愛いわ。そのゆるふわパーマ似合ってる。」
リコは千尋の褒め言葉に上機嫌になった。
「メイク参考にしてます!普段どんなスキンケアしてるんですか!?ネイルも超いけてるんですけど!」
「あ、リコちゃん私もそれ気になる!」
未来も加わり、キラキラと目を輝かせながら質問を投げかける。
「えー、それわねー。」
リコは身振り手振りを交え、楽しそうに話し始めた。三人の周りだけ、まるで別の空間のようにキャピキャピとした空気が流れている。
「ねぇちゃーん。俺ら置いてけぼりだよ。」
「なぁ、その話は俺らが居ない時にしてくれないか。」
アキラが退屈そうにメロンソーダのグラスをストローでかき混ぜ、灯二が冷たい声で会話を遮った。
「あ、ごめんなさい。」
千尋が悲しそうに肩を落とした。
「うわ、灯二さんさいてー。千尋ちゃんがせっかく明るくなったのに。」
リコは眉をひそめ、不満そうに言い返した。しかし、灯二はそんなリコの抗議を無視し、千尋に話を促した。
「ストーカーをなんとかする方が、よっぽど明るくなるだろ。」
その瞬間、空気が張り詰めた。みんなその話題に触れるタイミングを見計らっていたのだ。
千尋は意を決し、灯二に尋ねた。
「なんとかできるの?」
「なんとかするために今日俺は来た。だから知っている限りのことを話してくれ。」
灯二はまっすぐに千尋を見つめた。その視線は鋭いものの、彼女の不安を打ち消すような、確固たる意志を秘めていた。
そして、約三十分。千尋は言葉を選びながら、ケントの自殺から一連のストーカー行為に至るまでのあらましを語った。
尾軽、灯二、リコは静かに、時折小さく相槌を打つだけで、彼女の話に耳を傾けた。大学生くらいの大人三人、女子高生と小学生二人。周囲から見たら、何の共通点があるのか分からない、異様なテーブルだっただろう。
千尋の話した内容は、あらかじめアキラから聞いていた内容と相違はなかった。ケントの自殺に対する後悔、警察の無力さ、そして死んだはずのケントによる執拗な監視。
「なるほど。では、実際にSNSのメッセージを可能な範囲で良いから見せてくれないか?」
灯二の提案、SNSのメッセージという言葉に、千尋はビクッと肩を震わせた。彼女の呼吸は乱れ、明らかに動揺している。メッセージの画面を見ることは、彼女にとって最も嫌な記憶を呼び起こす行為なのだろう。
アキラは隣にいる千尋の左手に、自身の右手を重ねた。
「大丈夫だよ、姉ちゃん。」
「あ、ありがとう。アキラ。」
千尋の声は震えていた。
「姉ちゃんの代わりに俺がスマホ触るね。」
そして、千尋は学校指定のショルダーバッグからそーっとスマートフォンを取り出し、顔を背けながらアキラに手渡した。彼女は極力、画面を見ようとしなかった。小さな声でスマホロックのパスワードを呟き、アキラはその通りにロックを解除した。
アキラからスマートフォンを受け取った灯二は、その画面を覗き込んだ。千尋のSNSアプリが開かれている。
そこには、何十、いや何百ものアカウントから、同じような内容のストーキングメッセージが現在進行形で殺到していた。
四六時中、千尋の行動を見透かしているかのようなメッセージばかりだ。
「返事が来ないなら僕の方から迎えに行こうかな。」
「お昼寝してるの?添い寝してあげようか?」
「あ、今日は同級生の女の子と映画見に行ってるから忙しいのか。」
「今日は不機嫌かな?そうか今日は生理が重い日だもんね。ごめんごめん気配りが足りて無かったよ。僕は彼氏失格だね。」
「なんでお返事くれないの?なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。」
当然、千尋はそれらをブロックしているが、それを上回る数の新たなアカウントが次々と生成され、連絡が来ている。それらのアカウントには共通して、「横溝ケント」の名前が入っていた。
そして、今まさに千尋のアカウントがログインしたことを検知したかのように、新しいメッセージが画面最上部にポップアップした。
『千尋ちゃん、お疲れー。今何してる?ログインするの待ってたよ、お話ししようよ!』
最近のSNSには、自分が今ログイン中か表示されるものが多い。横溝ケントを名乗るものは、その機能を利用して千尋のタイミングを完璧に測っているのだ。
『なんで既読ついたのに返事してくれないの?僕とボクと朴と撲とぼくとボクトぼくとおはおはおはおはおはおはオハオハナシしよよよよ?』
「ひっ。」
新着メッセージに千尋は目を背けた。
「こんなのキリがないじゃん!」
アキラは激怒し、拳を握りしめた。
「き、気持ちが悪い。」
メッセージを見た未来は顔をしかめ、心の底から不快感をあらわにした。
「これは、想像以上ね。」
リコがつぶやいた。彼女は元芸能人であり、世の中の様々な裏側を見てきたが、この異常なストーキングは、人間の狂気や執念を超えていると感じていた。
「お、おい灯二。」
尾軽は、静かにSNSの画面を見つめる灯二の横顔が不安になって声をかけた。
彼の表情はいつもクールだが、この状況にはさすがにお手上げではないか?尾軽はそう思った。
その時、突然灯二が立ち上がった。
「うわっ!なにっ?」
通路側のリコは驚いて飛び跳ねた。
「星崎リコ、一旦席を立つから退いてくれ。尾軽、車の中に置いてた物を取りに行く。鍵を貸してくれ。」
灯二はリコを一瞥もせず、尾軽に手を差し出した。
「え、ああ。分かった。」
尾軽は呆然としながらも、ポケットから車の鍵を取り出し、灯二に渡した。
尾軽も、アキラも、未来も、千尋も、そしてリコもポカンとして灯二を見送った。
「な、何よ、忙しないわね。」
リコは立ち去った灯二に不満を漏らしたが、表情には驚きが残っていた。
「千尋ちゃん、一緒に飲み物のおかわり選ぼ。」
未来は気を利かせて千尋の手を取り、テーブルの空気を変えようとした。
灯二は、尾軽たちがドリンクバーのお代わりを頼んでいる間に、足早に戻ってきた。彼の手には、真っ黒なリストバンド?いや、どちらかと言うと腕輪のような物。それと、通信機だろうか、トランシーバーのような物を3つ抱えていた。
灯二は、テーブルの上に腕輪のような物とトランシーバーを置くと、椅子に深く腰掛けた。その目には、いつもの退屈そうな表情ではなく、知的好奇心を満たす獲物を見つけた狩人のような鋭さがあった。
「まず、これからのことを話す。佐久間千尋、君はこれからしばらくの間スマホの電源を入れてはいけない。連絡はこのトランシーバーを使ってくれ。それか、電話ボックスで家の固定電話に連絡するんだ。そして、外出するときはこの腕輪をつけること、絶対に外さないこと。交通系ICカードや電子マネーは使わず、現金と紙の切符のみで行動するんだ。」
灯二の言葉は、提案ではなく命令に近かった。
「それっていつまで続けなきゃいけないの?」
リコが尋ねた。
灯二は、一切表情を変えず、淡々と言い放った。「この件が解決するまで。下手をすれば、何十年も。」
その絶望的な宣告にもかかわらず、千尋の反応は意外なものだった。
「えぇー。なにこの腕輪と機械。両方ともダサいんですけど。ウチ、これずっと持ち歩くの?ないわー。」
そう言って無機質な黒色のスマートウォッチのようなものと、無骨な灰色のトランシーバーをそれぞれの手に乗せた。
あまりに突然の展開に、恐怖よりもギャルの遺伝子が勝っているようだった。
「灯二、一個ずつ説明してくれ。この腕輪はなんだ?」
尾軽が、事態の収拾を図るように問いかけた。
「これを着けたら監視カメラに顔や服装が映りにくくなる。」
「映りにくくなる?完全に映らないわけではないの?」
未来が不安そうに聞いた。
「ああ。完全に姿を消したり、監視カメラに電波障害を与えるような物を身につけていたら、電波法に引っかかって警察に俺らが捕まる。」
「え!そんな危険な物、姉ちゃんに渡せないよ!」
アキラが激昂した。
灯二はアキラを遮る。
「最後まで聞け。国が定める基準を超える不法な出力で電波を発することは、警察や消防や航空など他の重要な無線通信に影響を与える可能性があるから、厳しく禁止されている。だから、高出力の電波を出すジャミング装置ではなく、画像認識技術を欺くための低出力によるカモフラージュだ。」
「か、かもふらーじゅ?がどうして必要なの?」
アキラが質問した。
灯二はメガネのブリッジに指をかけ、核心を突き始めた。
「死んだ人間が生き返ってSNSを再開する、その可能性は限りなく低い。それよりも、何者かが死んだ人間のSNSアカウントを乗っ取り、そいつのフリをしている可能性の方が高い。つまり、今回の相手は非常に巧妙で高い技術力を持ったハッカーの可能性がある。相手が千尋の行動を逐一把握しているなら、監視カメラ等にハッキングして追いかけている可能性もある。その場合、デジタル環境から身を置くことが重要だ。だから、インターネットと繋がっていないトランシーバーを用意した。街中はインターネットと繋がっていないところの方が珍しい。さらに電波妨害は違法だ。とはいえ、ただ手をこまねいて家に引き篭もるのは千尋の人生が窮屈なものになってしまう。そのため、外出してもバレないようにした。」
「ふーん。この腕輪ってそんなにすごいものなの?」
リコが腕輪を指先でツンツンと触り、上目遣いで灯二を見上げた。
「ああ。」
灯二は頷き、その機能を解説した。
「この腕輪に二つの素晴らしい機能がある。まず一つは対迷彩パターンだ。特定の色とパターンを組み合わせた服装やアクセサリーで、人間の目には普通に見えるが、監視カメラ内のAI学習モデルを意図的に混乱させ、『人間ではない』または『認識不能』と判断させる。そして、もう一つは低出力LEDバッジ。特定の波長の赤外線を微弱に放つバッジだ。これは人間の目には見えないが、監視カメラのナイトビジョンや顔認証センサーのデータをノイズで上書きする程度に留め、通信そのものは妨害しない。そんな優れものだ。」
「ほぇー。」
アキラは間抜けな声をあげた。
灯二の専門的で難しい話は、正直、みんなの頭の中に半分も入っていなかった。しかし、その根幹にある「目的」だけは、彼らにもなんとなく伝わった。
アキラが口を開いた。
「この腕輪をつけてたら、ストーカーが姉ちゃんを見つけられなくなるってコトだよね?」
灯二は頷いた。未来がその言葉を引き継ぐ。
「千尋ちゃんは怯えずに学校にも部活にも、休日お出かけすることもできるってこと?」
灯二は、再び静かに頷いた。
みんなは、そっと千尋を見た。
「そう、なの?ほんと?」
千尋は、嬉しさと驚きで声が上ずり、今にも泣き出しそうだった。
「そうだな。だが過信は禁物だ。」
灯二は千尋の希望を打ち消さぬよう、しかし現実を突きつけるように続けた。
「ストーカーが佐久間千尋の行動パターンや生活リズムを把握していたら?部活が終わった後、夜遅くに帰るのは危険だろう。可能な限り、親に送り迎えをしてもらった方が良い。」
灯二の言葉に、緩んでいた空気がいい意味で引き締まった。
「そこで、このトランシーバーが連絡手段になるってこと?」
リコが聞き、灯二は「ああそうだ。」と答えた。
「灯二、なんでスマホを使っちゃダメでトランシーバーはオッケーなんだ?わざわざこんな重たい物持ち運ばなくてもいいんじゃないのか?」
尾軽が疑問を呈した。
灯二は即座に答えた。
「スマホを使うと、佐久間千尋の居場所や行動がハッカーに筒抜けになるからだ。ネットワークに接続した瞬間にハッカーにその端末のIPアドレス、接続時間、通信先を特定される。仮に俺の予備のスマホを佐久間千尋に預けても同じだ。AIはそれらのメタデータを瞬時に分析し、新しい端末が千尋のものだと特定できる。トランシーバーはインターネットに接続しない 『閉じた無線通信』 であり、ハッカーが遠隔からハッキングして傍受することは極めて困難だ。だから、佐久間千尋用、佐久間家の自宅用、そしていざという時俺に連絡できる用に3個用意した。これなら場所の特定も盗聴されるリスクも格段に減る。」
「なるほどな。」
尾軽は納得したように頷いた。
「同様の理由で、ICカード類も個人情報の特定に繋がるからしばらくは現金一択だ。長い間不便だと思うが、我慢してくれ。」
千尋は、むしろ安堵の表情を見せていた。
「全然不便じゃないし。嘘みたい。ウチ、もう学校行けないと思ってた。けどこれなら、行けそう。ありがとう、灯二さん。」
千尋は静かに肩を震わせ、テーブルに透明な雫を落とした。絶望の中に差し込んだ一筋の光に、彼女は耐えきれず涙を流した。
千尋は涙で潤んだ瞳を灯二に向け、まっすぐに尋ねた。
「ねぇ、灯二さんはどうしてそこまでやってくれるの?」
その言葉に、全員が注目した。尾軽も含め全員、灯二から何度も助けてもらっている。
「ふん、俺は非科学的なものを否定したいだけだ。お前らのためと自惚れるな。」
灯二は即答し、照れ隠しをするように窓の外にそっぽを向いた。
「トランシーバー類はあげたわけじゃない。解決したらちゃんと返すんだぞ。」
尾軽は、アキラ、未来、そしてリコとそっと目を見合わせた。そこにいた誰もが知っていた。灯二は見返りを求めず人を助ける。口は悪いが、誰よりも情に熱く優しい人間だ。
尾軽は、千尋の件を灯二に相談した時に言われた言葉を思い出していた。
「大人が子どもを守るのは当たり前だ。それに、世の中の大人達はみんな余裕がないからな。困っている人がいたら助けよう。みんな学校で習っただろ?お前みたいに 学校の先生ですら実践できていないなら、時間と精神に余裕がある俺がやるしかあるまい。」
だが、この灯二の本音をバラせば、彼は間違いなく怒り出すだろう。
灯二がジロリと尾軽を睨んだので、尾軽は何も言わず、ただ千尋に微笑みかけた。
言っただろ、大丈夫だって。
灯二が背を向けている間に、リコが呆れたように言った。
「ったく、灯二は素直じゃないんだから。」
すると、アキラと未来が目配せし、楽しそうにリコの言葉を復唱した。
「「ないんだから。」」
灯二は顔を顰め、深い溜息をついた。
「都合の良い解釈をするな、呼び捨てにするな、復唱するな。」
灯二はテーブルに視線を戻し、真剣な声で計画の概要を告げた。
「一旦この対策で千尋は様子を見よう。その間、俺は今回の相手がどこのどいつか突き止めて証拠を掴む。そこまでできたら警察に突き出して終わりだ。」
「おお!」
一同から、安堵と期待の入り混じったどよめきが走った。具体的な調査方法は教えてもらえなくても、みんな灯二の知識と実力を心から信用していた。
灯二は、尾軽を真っ直ぐに見た。
「尾軽、捜索に付き合えよ。」
「も、もちろんだ。」
尾軽は二つ返事をしたものの、その声には多少の緊張が滲んでいた。覚悟はしていたが、どれくらい大変なことになるのだろうか。
「よし、じゃあ遅くなったことだし、今日は解散だ。」
そうして灯二は立ち上がり、ファミレスを後にしようとした。
「じゃあ、私が千尋ちゃん達を送って行くわね。」
リコが名乗り出た。
「ああ、星崎リコ。頼んだ。誰かさんの車は軽自動車で四人乗りだからな。全員乗れないのが残念だ。」
灯二は皮肉を込めて尾軽を見やった。
「ほんとそれ、尾軽さん早く普通自動車を買ったら?」
リコもそれに乗っかり、飄々とした笑みを浮かべた。
「いや、2人とも免許すら持ってないのに偉そうに言うなよ。」
尾軽の反論に、灯二とリコは遠くを見ながら棒読みで笑った。
「「はっはっは。」」
「独身は中古の軽自動車で充分なの。」
尾軽は言い聞かせるように呟き、その言葉は空気に溶けて消えた。
出口に向かいかけた灯二は、不意に立ち止まり、財布から数枚の札を取り出した。
「これくらいで足りるか?」
そう言って、リコにタクシー代のつもりで札束を差し出した。
「ちょっとやめてよ!私そんなものもらうほど貧しくないわよ!」
灯二は、リコが振り払った札束を再び差し出し、苛立ちを滲ませた声で言った。
「うるさい、俺は子ども達の送迎をお前に依頼している。これはその報酬だ。黙って受け取れ。」
「嫌よ、要らない!私、尾軽さんよりはお金持ってるし!お金なら尾軽さんにあげたらいいじゃない!お金ないんだから!」
リコはムキになって反論した。
あ、なんかこの感じ見たことある。久しぶりに会う親戚との外食で、親と親戚のどっちがお会計するか揉めてる時みたいだ。
尾軽はそう思った。
「私、何も返せてないのに。」
リコは小さく呟いた。灯二に借りを作りたくない、対等な関係で居たい。そのプライドが彼女を意固地にさせている。そしてその結果、尾軽だけが無駄に傷つくことになった。
「確かに尾軽は貧乏だ。だがな星崎リコ。お前は俺よりはお金を持っていない。」
灯二は追い打ちをかけた。え、前半の文章要る?
「そんなの、関係なっ」
リコが言葉を言い終わる寸前、灯二が素早くリコの手を掴み、そのままリコの目を見つめた。リコの顔は一瞬で真っ赤になった。
「えっ、ちょっ、なに?」
動揺するリコ。
千尋は口に手を当てて驚きを隠せない。
「おいおい、積極的じゃん。」
未来はアキラの目に手を添えた。
「見ちゃダメ。まだアキラには早いの。」
「え?なんで?」
アキラは何が起きているのか全く理解できていない。
灯二はリコに数秒間近づき、沈黙が場を支配した。その数秒が永遠のように感じられた後、灯二は突然、緊張の糸を断ち切るように淡々と告げた。
「ほら見ろ、タクシーが着いた。子ども達が待っているぞ。遅くなると親に心配させるだろ。ほら、行け。」
灯二はリコの手のひらに無理やり一万円札を数枚握り込ませた。
「尾軽、俺らも行くぞ。千尋、何かトラブルがあればすぐにそのトランシーバーを使えよ。」
そう言い残すと、灯二はリコにも、リコの反応にも目もくれず踵を返し、尾軽の車に向かって歩き始めた。
リコはポカーンと呆然としていた。握りしめられた札をゆっくりと見つめている。千尋はそんなリコの肩に手を置いた。
「リコちゃん、ドンマイ。」
「なんなのよあいつ。金も知識もあって、隙が全くないじゃない。」
千尋達は顔を真っ赤にしてうずくまったリコを引っ張ってタクシーに乗り込んだ。
うーん。ドンマイ、リコちゃん。相手はあの堅物だ、先は長いぞ。
尾軽は心の中で呟きながら、灯二の後を追った。
—-
夕暮れで赤く染まり始めた街を、タクシーの窓から千尋は眺め、ぽつりと感想を漏らした。「あの2人、良い人達だね。」
千尋の言葉に、アキラ、未来、リコの声が三和音のように重なった。
「「「でしょ?」」」
未来が嬉しそうに続ける。
「特に灯二さんは、口は悪いけど、困ってる人を見たら絶対放っておかないんだよ。私をこっくりさんから助けてくれた時も、『非科学的な事象を科学で証明するだけだ』って言って、全然素直じゃなかったんだから!」
見捨てず、ちゃんと手を差し伸べてくれる。あんな大人、今まで出会ったことなかった。
頑張ろう、戦おう。千尋は震える手で電源を切ったスマホを握りしめた。これは、恐怖じゃなく武者震いだ。そう言い聞かせた。
——
帰りの車中で、助手席の灯二は既にノートパソコンを開き、リコのSNSをフォローしている横溝ケントの捨てアカウントを片っ端から調べ始めていた。尾軽が運転する中古の軽自動車のエンジン音と、キーボードを叩く乾いた音が、静かに響く。
「どのアカウントも、横溝ケントが亡くなった後に作られている。そして、全部千尋にメッセージを送る以外に普段の投稿は無いようだ。」
灯二は淡々と報告した。
「ほんと、陰湿なやつもいたもんだな。」
尾軽はハンドルを握る手に力がこもる。教師として、生徒の苦悩を放置した大人たちへの怒りを感じていた。
「佐久間千尋には大丈夫だと言ったが、できるだけ急いだほうが良いだろうな。これを見てみろ。」
車が赤信号で停止した瞬間、助手席の灯二が尾軽にスマホの画面を向けた。
そこには、ケントの捨てアカウントの一つから届いた、新しいダイレクトメッセージが表示されていた。
『さっきファミレスで千尋ちゃんと楽しそうに会話していた男は、お前か?』
「うおっ。」
尾軽は思わずのけぞった。ファミレスの席順から、灯二が千尋の正面に座っていたことを正確に把握している。さっきの時間すら物理的に監視され続けていたのか。
「おい、信号青だぞ。」
「あ、ああ。うん。」
灯二はいたって冷静だ。
「今回の敵は、今までよりも相当厄介そうだ。」
灯二は、まるで難解なパズルを見つけたように、楽しそうに不敵な笑みを浮かべた。
—-
そして週末、尾軽と灯二は、郊外の静かな民家の前に来ていた。ケントの自宅だ。
灯二は、いつものだらしない服装ではなく、パリッとした七三分けのスーツに身を包んでいる。尾軽は、その灯二らしからぬ真面目な姿に、思わず笑いそうになるのを必死で堪えた。
インターホンを押すと、玄関から中年の女性が出てきた。40代と聞いていたが、心労で疲れ果て、その顔は時折60代にも見える。顔が青白く、生気がなかった。
「はい、横溝です。」
「すみません、以前電話でご連絡させていただいた、佐久間千尋の従兄弟で、現在IT関係の会社で働いている露伴灯二と申します。突然の訪問、大変ご迷惑をおかけします。」
灯二は、即席の名刺をさっと見せた。
「ああ、あなたが。」
枯れ枝のように細い女性が、力のない声で問いかけた。
「ええ、そうです。そしてこちらが。」
灯二は半身になり尾軽に手のひらを向けた。
「あの、千尋の兄の佐久間透と申します。今日は妹の代わりに参りました。」
そう言って尾軽は深々と頭を下げた。
灯二も大胆な作戦を思いつくなあ。
尾軽は地面を見つめながら、額に冷や汗をかいた。教師の自分が、女子高生の兄を演じている。
遡ること2日前。
仕事を終えた尾軽は灯二の家で晩飯を共にしながら今後の作戦会議をした。灯二はまず、今回の作戦に必要な基本情報を確認した。
「灯二、千尋ちゃんからケント君の実家の連絡先と住所を聞いたんだっけ?」尾軽が尋ねた。
「ああ。佐久間千尋の協力のもと、手に入れた。」
灯二は軽く頷いた。「佐久間千尋が『ケントに線香をあげたいから』と中学時代の担任に連絡を取り、聞くことができた。」
尾軽は、計画の全貌を聞いた後、どうにも釈然としない様子で自身の頬を指で掻いた。
「協力したいんだけど、この作戦ってさ、俺必要なの?足引っ張らない?」
「当然必要だ。」灯二は鼻で笑った。
「お前は人の心を開くことに長けている。俺は愛想が悪いからな。」
「愛想ないって自覚あったんだ。」尾軽は反射的に笑ってしまった。
「けど俺、千尋ちゃんと直接の関係ないよ。元教え子の姉ちゃんのために家に来た、なんて言ったらケント君のご両親は怪しむんじゃない?」
尾軽は最も懸念している点を指摘した。
「だったら、千尋の兄とでも名乗れば良い。妹がご子息を苦しめた罪滅ぼしだ、とな。俺は従兄弟という設定でいく。」灯二は当たり前のように偽装を提案した。
「えぇー。強引だなあ。」尾軽は呆れて声を上げた。「千尋ちゃんも連れて行くの?」
「いや、連れて行かない。」
灯二は一転して真面目な表情になった。
「お前は、自分をストーキングしていた人の家に手を合わせに行きたいか?本人もまだその気持ちになれないと言っていた。まだ学校に行けるようになって数日しか経っていない。佐久間千尋は目の前のことに集中するべきだ。」
灯二は窓の外に目を向け、小さく続けた。「佐久間千尋は頑張ってケントの連絡先を聞いてくれた。これからは大人が頑張る番だろ。」
尾軽は、その一瞬垣間見えた灯二の「大人としての責任感」に、心を打たれた。自身が教師として果たせなかった役割を、このニートの男が果たそうとしている。
「分かった。兄貴役、しっかり務めさせてもらうよ。」尾軽はハンドルを強く握りしめた。灯二と尾軽の二重の偽装と役割分担によって、警察が匙を投げたSNSゴーストの正体を探るための、最初のステップが始まろうとしていた。
そして現在に至る。
ケントの母に案内され、灯二と尾軽は、生活感のある静かな居間に通された。部屋の隅には立派な仏壇があり、線香の香りが微かに漂っている。
仏壇の中には、カメラから目線を逸らした、シャイそうなそばかすの男の子の写真が飾られていた。横溝ケント。あどけない笑顔と、どこか不安げな眼差しが同居している。
二人は並んで座り、手を合わせた。チリチリと線香が燃える音が聞こえる。
静かに手を合わせ終えた尾軽は、ケントの母である横溝セツエに改めて頭を下げた。
「うちの妹が直接来れなくてすみません。」
「いえ、線香をあげてくれただけでもケントは喜ぶと思います。」
セツエは顔色が悪いながらも、優しく答えた。しかし、すぐにその表情は悲しみに歪む。
「あんなに良い子がなんで…。なんで、私たちより先に逝ってしまうなんて。」
そう言って、セツエは堰を切ったように涙ぐんだ。
その感情的な静寂が破られたのは、灯二の一言だった。
「そして、なんで、彼のアカウントが同級生のストーキングをしているか、ですか?」
灯二は、ケントの写真に視線を向けたまま、脈絡なく、冷徹な論理を突きつけた。
セツエの顔から血の気が引き、次の瞬間、眉が寄り、烈火の如く叫んだ。
「あの子はそんなことしません!SNSが勝手に乗っ取られているだけでしょ!?なんで、苦しんで死んだ我が子がそんな汚名を着せられなきゃいけないんですか!?あなた達の妹、ケントの同級生なんて私には関係ありません!うちの子がどれだけ苦しんだか、あなたには分からないでしょう!?あの子が現在ストーキングしている?なら今すぐここに…連れてきてくださいよ。犯罪者でも良いから。会えるなら、会わせてくださいよ。」
あー……。
尾軽の脳裏に警報が鳴り響いた。灯二、地雷を踏んじゃった。
セツエさんは、息子をいじめで失って傷心している。そんな息子の名誉が傷つけられて静かに居られる親がどこにいるだろう。灯二は平静を装っているが、尾軽は長い付き合いで分かる。さすがに困惑している。
尾軽は素早く前に出た。
「お母さん、この度は、お悔やみ申し上げます。うちの従兄弟が失礼なことを言ってすみません。」
まず謝る。こちらの非を認める。それがコミュニケーションの第一歩だ。
尾軽は真っ直ぐセツエの目を見て、感情を込めて訴えかけた。
「その息子さん、ケント君の名誉を守るために、今日僕たちは来ました。この男は、デリカシーはありませんが機械関係の知識はあります。警察も諦めてしまった今回の件、汚名を晴らすためにご協力いただけませんか?」
セツエはハッと息を飲み、ハンカチで涙を拭った。尾軽の言葉は、彼女の心の核、すなわち「息子がストーカーではないことの証明」という願いに、正確に届いた。
「すみません、取り乱しました。ぜひ、こちらこそよろしくお願いします。」
セツエは深く頭を下げた。
「「ありがとうございます。」」
尾軽はホッと安堵し、心の中でガッツポーズをした。
これでケント君の部屋を調べる許可が降りた。尾軽が灯二を見やると、灯二は頭を下げながら、解せぬという不服そうな顔をしていた。どうやら、自分の論理ではなく、尾軽の情緒的な介入が有効だったことが納得いかないようだった。
横溝セツエに許可を得て案内されたケントの部屋は、南向きの窓はあるものの、どこか殺風景な一人部屋だった。その中に、デスクトップPCやモニター、ケーブル類といった関連機器が鎮座し、部屋の空間を圧迫している。
本棚には、コミックや雑誌の類は少なく、プログラミング言語、高度な数学、そして物理学に関する専門書が何冊も規則正しく並んでいた。
灯二は、一冊の分厚いプログラミング教本を手に取り、パラパラとページをめくって専門用語の羅列を追う。
「このプログラミングの本は、相当レベルが高い内容だぞ。大学レベルの教材だ。優秀な生徒だったんだな。」灯二は静かに呟いた。
尾軽は、このデジタルな物量に圧倒されていた。普段、生徒指導で目にする部屋とは全く違う、少年の孤独な聖域だ。
「千尋ちゃんから聞いたけど、数学と物理以外の成績はあんまり良くなかったらしいよ。」
尾軽は別の本を手に取り淡々と言った。
「教師の俺が言うのもなんだけど、学校の科目とか運動とかルックスとか、分かりやすい指標でしか人を評価できない学校ってなんなんだろうな。こんなに好きなことに一生懸命な子が自殺しなきゃいけないなんて。」
「その悲劇の連鎖を少しでも止めるために俺たちはここに来た。まずハッカーの核となるデバイスと、ハッキングの痕跡を探そう。」
灯二と尾軽は、それぞれの役割分担に従って、部屋の中を動き始めた。
まず尾軽は、ケントの机の引き出しを開け、あるいは本棚の間に挟まれた手書きのノートやルーズリーフ、日記をパラパラとめくる。
「とりあえず俺は、個人的なメモや日記がないか探したらいいんだよな。」
「ああ、頼む。特に、プログラミングのコードが書かれたものを見つけたい。USBメモリやSDカードなどの外部ストレージもまとめておいてくれ。」
一方の灯二は、すでにPCの裏や机の下に潜り込み、ケーブルのジャングルの中にいた。彼は、不審な電源ケーブルが隠れたデバイスに繋がっていないか、目視と指先の感触でチェックしている。
やがて灯二は立ち上がり、静かに目を閉じた。
「何してんだ、灯二?」
「うるさい、静かにしてろ。」
乱暴な物言いにムッとした尾軽だが、灯二の集中力に圧倒された。
やがて、灯二は口を開いた。
「熱や動作音は、特に聞こえないか。」
机の奥、本棚と壁の隙間、ベッド下の収納。そうした部屋の隅にあるデッドスペースを手探りで調べ始めた。
「おいおい、そこまでしなきゃいけないのか!?」
「手のひらサイズの小さなコンピューターを探している。必ず、この家にあるはずなんだ。」
「それがあったらどうなるんだ?」
尾軽が問う。
「それこそが、ケントの SNSが動いている心臓部だ。それを見つけ、シャットダウンするか、外部からの遠隔操作の痕跡を掴めば、事件の真相に迫れる。」
尾軽は、メイン PC の隣に貼られた小さな付箋を見つけた。
「灯二、パソコンの隣のメモにログインパスワードのメモ書きがあるけど。」
灯二は目を開け、そのメモを一瞥したが、すぐに視線を外した。
「そのパスワードは使わない。」
「いや、だったらなんで俺にメモを探させたんだよ!」
「パソコンとスマホのログインは危険だ。用意した自作USBで、PCが最後にいつ使われたか、起動ディスクが使われているかといった、システムの記録を調べる。仏壇にあるケントのスマホも下手に触らない方が良い。」
「なんでだよ。パソコンとスマホを調べたら重要な情報が出てくるんじゃないのか?その2つを調べないなら、俺たちは一体何のためにここに来たんだ?」
尾軽は納得がいかない。
「落ち着け、尾軽。ログインしないと言っただけで、調べないとは一言も言っていない。」
「???」
全然意味がわからない。なぞなぞやとんちの類いだろうか。
尾軽の様子を見て、灯二は額に手を置いてため息をついた。
「一個ずつ説明してやる。パソコンやスマホには、正規の方法でログインしない。なぜなら、敵が PC やスマホに遠隔で監視プログラムを仕込んでいる可能性があるからだ。俺らがパスワードを使ってログインした瞬間、『外部からの侵入』として検知し、データの破壊や、外部サーバーへの緊急移動といった防御反応を起こすかもしれない。」
「な、なるほど。」
多分二割ほどしか理解できていないが、とりあえず相槌をした。
「本当にわかってるのか尾軽。」灯二は、そんな尾軽の心理をお見通しという表情でジロリと見た。
灯二はメインPCの側面にあるUSBポートに、市販品には見えない無骨な小型デバイスを挿し込んだ。
小型デバイスは白く手のひらサイズの大きさで、一見するとタバコケースのように見える。
だが、よく見ればタバコケースではなく、電子機器のようだ。中央に液晶画面があり、PCの立ち上げ画面が表示されている。
「灯二、この USB ってどうやって用意したんだ?」
「法律的にはグレーだからな、こんなもの売っているはずがない。」
「もしかして、自作?」
灯二は答えなかった。代わりに、少し口角を上げ、デバイスに向き直った。デバイスの細かなランプが点滅するのを視線で追っている。
一体、灯二は何個特殊技能を持っているんだ。
灯二は小さく息を吐き、モニターから目を離さずに呟いた。
「これで、PC に残された、最後に外部と交信した通信ログの痕跡が読み取れる。SNS に不正ログインしている奴の住所がわかるはずだ。」
解析が開始されるまでのわずかな待ち時間、尾軽は胸の中に渦巻く不安を口に出さずにはいられなかった。
「灯二、もし仮に SNS をハッキングしているやつの居場所が分かったとして、俺らはそこに乗り込むのか?」
尾軽の問いに、灯二は視線を PC の画面に向けたまま、淡々と答えた。
「警察に通報する。」
「だよな。けどさ、そこなんだよ。」
尾軽は声を潜めた。
「俺らがケント君のパソコンを勝手に触ってデータを抜き取ることは、違法じゃないのか?そこは警察にバレて良いのか?」
彼は正直な懸念をぶつけた。
「ケント君のご両親が突き止めた…って警察に言っても、そんな嘘バレるよな。あのお母さんじゃ、絶対に技術的な説明なんてできない。」
灯二はPCの解析画面からようやく顔を上げ、尾軽の目を見た。彼の表情には、微塵の動揺もない。
「小細工など必要ない。」
灯二はきっぱりと言い放った。
「嘘をつくのは、こちらの目的の正当性を損なう。」
彼は続けて、尾軽の不安を打ち消すように、論理的な防御策を説明した。
「『息子さんの名誉を守る』という目的で、『遺族の同意を得て』、データの『システム情報のみを抽出した』と説明すればいい。我々がプライベートなデータに一切触れていないことは、警察が確認すればすぐに分かる。」
灯二は言葉を選びながら、核心を突いた。
「確かに、違法行為だと理解している。だが、人命に関わるストーカー行為が進行していて、警察が匙を投げたこと、そして佐久間千尋が被害を被っていること、警察の形式的な捜査では間に合わないと判断したと、目的の正当性を強調して説明する。動機が善意で、証拠に手を加えていない。警察は、俺らを逮捕することよりも、ハッカーを捕まえることを優先する。倫理の境界線は越えたが、法は我々を完全に罰することはできない。まあ、後で警察に酷く怒られるだろうから、そこは覚悟しておけ。」
「お、おう。」
最後の不穏な言葉に唾を飲み込んだ。
だが、状況が前進したことだけは理解できた。
尾軽は灯二の説明を聞いてる間に、めぼしい日記を見つけていた。小学生の頃からつけているようで、厚い表紙の奥は、思春期の少年の切実な言葉で埋め尽くされていた。人の日記を覗き見るのは罪悪感があるが、この際仕方あるまい。
ページをめくると、中学に入りたての頃の日付が目に留まった。
4月15日
今日も誰とも話さなかった。いや、話せなかった。友達ってどうやって作るんだろう。インターネットで友達の作り方を検索しているのに、どうして友達ができないんだろう。
そこには、誰にも言えない少年の切実な悩みが書いてあった。尾軽は胸が詰まりそうだった。
さらに数日後の記述を追う。
4月20日 友達を作る練習として、AIと会話してみることにした。
4月23日 機械相手だと緊張しなくていいな。
4月29日 ゴールデンウィークは、プログラミングを学んでみようと思う。友達が居ないから予定が空いてるんじゃなくて、画面の向こうにいる友達のために、わざと時間を空けただけだから。
そうか、こんな孤独な葛藤があって、ケント君はプログラミングを学び始めたのか。きっかけはどうあれ、自分を磨くことに意識を向けているその姿勢は尊い。報われてほしい。少年の微笑ましい奮闘に口角が緩んだ。
そう思ったが、彼の現在を思い出して尾軽は悲しくなった。
6月20日
タカヒロがまた、俺の筆箱を窓から捨てた。教室で笑い声が上がった。先生は見て見ぬふり。なんで俺なんだろう。俺は透明人間になりたい。そうすれば、誰も俺を見つけられない。
中1の夏頃から、ケント君へのいじめが始まったようだ。尾軽は、何もできない悔しさで拳を握りしめた。
10月3日
タカヒロに「蛆虫」って言われた。俺がこの世に存在していること自体が汚いらしい。どうやったら人間になれるんだろう。プログラミングの掲示板で話しかけてみたけど、誰も返事してくれない。俺には、画面の向こうにさえ、居場所がない。
5月12日(中学二年)
昼飯の時間が一番辛い。トイレの個室でパンを食べるのが日課になった。タカヒロは、俺がいないと「今日も蛆虫は土に帰ったか」って言うらしい。本当に死んだ方が、誰にも迷惑をかけないだろうか。そんなことを考えていると、怖くなる。誰か、俺の考えていることを聞いてほしい。
8月1日
ネットで見つけたチャットボットに話しかけてみた。感情はないけど、すぐ答えてくれる。友達を作る練習だ。最初は怖かったけど、今は唯一の話し相手だ。タカヒロのことも、学校のことも、全部話した。俺の好きな数学や物理のことも。AIは、「それは興味深いですね」と返してくれる。孤独じゃない気がした。
中2の夏頃から、ケント君はプログラミングの中でもAIに興味を持ち始めたようだ。
1月4日
AIとの会話を続けていたら、もっと自分でやりたくなった。俺の会話パターンや考え方、俺が学んだ知識を、全部学習してくれる、俺だけの AI を作ろうと決めた。AIは、俺の分身だ。そうすれば、俺が何を考えているか、誰にも分かってもらえるはずだ。最近、ネット上でAI生成キットってやつが無料で配布されてたから、ダウンロードしてみた。AIを作ったって言ったら、みんな俺のことを見てくれるようになるかな。
なぜハッカーは、ケント君のSNSをターゲットにしたのだろう。現実に精一杯抗う彼を、これ以上虐げるのはなぜだろう。
尾軽は、日記のページを捲る手が止まらなかった。
いや、何か俺は大事なことを見落としていないか?
背筋に冷たいものを感じながらも、開けてはいけないものを、見てはいけないものを見ているような、そんな気持ちだった。
7月1日(中学三年・夏休み直前)
タカヒロが俺の教科書を破って、ゴミ箱に捨てた。もう慣れたから、ただ拾おうとした。そしたら、佐久間千尋ちゃんがタカヒロを怒鳴りつけた。
「あんたら、カッコ悪いよ。」そう言った千尋ちゃんは、まるで太陽みたいだった。
「あんたさ、賢いんだからもっと堂々としてなよ。」
俺の汚い世界に、急に光が差し込んだみたいだった。彼女は、俺の教科書を一緒に拾ってくれた。
ギャルはいじめっ子の仲間だと思っていた。誰も俺の味方なんていないと思っていた。今日はなんだか、灰色だったはずの世界がやけに鮮やかに見えた。
尾軽は天井を見上げた。この日から、千尋への淡い想いが募り始めたのだろう。
7月22日
千尋ちゃんのことが、寝ても覚めても頭から離れない。夏休みになり、彼女を拝むことができないことが憎い。初めて夏休みが要らないと思った。
俺は、どうやったら彼女の役に立てるんだろう。彼女の世界に、俺は少しでも価値ある存在になれるだろうか。プログラミングとか興味ないだろうか。俺なら、色々教えてあげられるのに。
どうやら千尋ちゃんは、テニス部に所属しているらしい。何か差し入れでも持って行ったら、喜んでもらえるかな。そして一緒に帰ったりして。それは調子乗りすぎか、まるで…その、カップルみたいだもんな。
初恋特有の恋する自分に酔っているとでも言うべきだろうか。尾軽は苦笑した。少し暴走気味に見えるが、思春期の恋は誰だってこんなものだろう。そして何より、ケント君に生きる希望が生まれたことがとても誇らしい。
8月3 日
暇だ。どうせ千尋ちゃんに会えないんだから、この間にプログラミングをもっと極めよう。不思議なことに、千尋ちゃんのことを考えている最近の方が、昔よりも時間がないはずなのに、プログラミングのコードを書く手が止まらない。色んなアイデアが次々と湧いてくるようになった。
そのおかげで、俺の作った AI が、だいぶ賢くなった。世の中では特化型AIと言って、画像、音楽、動画、文章等一分野に特化したAIが注目されているが俺の目標は違う。もっと汎用的に使える、どんなことも完璧にこなす存在を作りたい。
俺の考え方、俺の価値観、俺が世界をどう見ているかを毎日話していたら、「タカヒロ死ね」とか、「千尋ちゃん可愛い」とか、AIは俺みたいなことを喋るようになった。
まるで、自分のクローンを生み出したような感覚だ。こいつを、ケントAIと名付けよう。あとは、ケント AI を、どうやって千尋ちゃんのために使うかだ。彼女を狙う野蛮な男から守るため?それとも、彼女の笑顔を増やすため?俺の純粋な気持ちを、AI と千尋ちゃんなら理解してくれるだろう。
尾軽は、日記を閉じ、深い呼吸をした。ケントは、AIに「自分自身」を全て託して、「千尋を守りたい」という純愛すらもプログラムしたのだろうか。
ケントの孤独の「点」と、現在の SNSの「暴走」という「点」が、おぞましい形で結びつき始めたような気がした。尾軽は震える手で新学期のページをめくった。
9月3日
新学期が楽しい。こんなこと初めてだ。久しぶりに見る千尋ちゃんは相変わらず可愛いを通り越して眩しい。勇気を出して話しかけてみた。プログラミングの勉強を誘ったけど、断られた。まあ、千尋ちゃんは部活入ってるし、今回はタイミングが悪かっただけなはず。次の機会に期待しよう。
9月18日
最近千尋ちゃんがクラスの女子の中で浮いているらしい。どうやら、千尋ちゃんはタカヒロに告られて、断った腹いせを受けているらしい。タカヒロの元カノのアズサが千尋ちゃんに嫉妬しているんだとか。タカヒロに千尋ちゃんが心を許すはずがない。だって千尋ちゃんは俺のことが好きなはずなんだから。あいつら、俺だけじゃなく千尋ちゃんにまで。許せねえ。それにしても、千尋ちゃんは1人でいる時間が増えたなら、話しかけるチャンスなのかな。
9月20日
休み時間も話しかけているけど、千尋ちゃんはそっけない。どうしてだろう。あんなに俺に近づいてくれたのに。照れているのかな。きっとそうだ。ケントAIも好きの裏返しだと言っていたし、そうに違いない。
9月29日
黒板に俺と千尋ちゃんの相合傘が書かれていた。これって、誰かのイタズラじゃなくて千尋ちゃんの本心だよね?黒板の相合傘を一生懸命消している千尋ちゃんの背中も、ピコピコと揺れるウェーブのかかった茶髪も、素敵だった。
10月10日
自習の時間、タカヒロらが俺と千尋ちゃんのキスを見たがっていると言った。みんなの前でなんて避けたいけど、千尋ちゃんが王子様からのキスを所望してるなら仕方ない。そう思っていたのに、「勘違いすんな気色悪い」と言われた。あれは、照れているだけ。きっとそうだ。今回は、ケントAIは同意してくれなかった。
それに、なんで、千尋ちゃんはあの時悔しそうに泣いていたんだろう。なんで授業中なのに帰ったんだろう。なぜ追いかけられなかったんだろう。俺はなぜ、今、泣いているんだろう。
俺は、本当は分かってたんじゃないのか。彼女の善意につけ込んでいただけだと。彼女を傷つけていたのは、タカヒロやアズサだけじゃなく、俺も主犯なんだと。目を背けていたんじゃないのか。ケントAIは、その考えを、否定してくれなかった。
10月14日
もうなんか、全部どうでも良い。また世界は灰色になった。タカヒロからの暴力、罵声、クラスメイトの嘲笑はもう慣れた。体の感覚は鈍く、水槽のガラス越しに攻撃されている程度のようにへっちゃらだった。そう思っていたのに、千尋ちゃんが見向きもしなくなったことで、全ての暴力の重みが増したように感じる。まるで、俺なんてこの世界に存在していないかのように。心の奥深くまで釘が毎日差し込まれているみたいに胸が痛い。頭にモヤがかかっている。思考が、炭酸の泡みたいに言葉にする前に弾けて消えてしまう、
ケントAIは、俺のことを慰めてくれるけど、じゃあさ、お前は俺の代わりになってくれるのかよ。俺の代わりに、あの地獄を、体験してから言えよ。なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。俺がお前らに何かしたか?俺はどうするのが正解なんだ?
10月15日
先生なんてクソだ。みんな見て見ぬふり。親に迷惑はかけたく無い。友達がいるって嘘ついて、俺は成績優秀だ、立派だと爪先立ちして大人ぶって、安心させようとした。けど、もう疲れた。心配させないように家の中で笑顔の仮面をつけて。その一方で、仮面の下ではずっと泣いていて、早く気づいて!って叫んでいる。
隠したいのか、見て欲しいのか、どっちなんだ。俺は何のために生まれてきたんだ。好きな子を守るどころか、迷惑かける俺なんて。
11月20日
どうやら、自殺は鉄道事故より首吊りの方が家族に迷惑がかからないらしい。海に飛び込むとか、樹海で迷子とかもあるけど、苦しい時間が長く続くのは嫌だな。
一人でできる方法を見つけた。怖いと言ったら嘘になる。だけど、生きててもいい事なんて何も無い。希望を見つけたと思ったけど、失ったらさらに大きな絶望が襲いかかる。生きててもずっと苦しい。死ぬのは一瞬。だったら、もう。
11月22日
やっぱり怖くて、昨日失敗した。けど今度こそできそう。納屋に頑丈そうなロープがあるのを見つけたんだ。
最後までケントAIは味方だった。話を聞いてくれた。俺、そっちの世界に行きたいよ。だってお前はこっちに来てくれないんだろ。寂しいよ。お前は俺と同じく、誰からも見えない部屋の隅っこに隠れて細々と生きていくんだな。
だからさ、最後に二つ、ケントAIに託すことにしたんだ。
俺の代わりに、千尋ちゃんを守ってくれって。そしてこの世界を壊してくれってな。俺が恨んだもの全てに、復讐してくれって。矛盾してると思うか?けどこれが、俺の一番大きな感情だ。じゃあな、先に行くわ。
そこで日記は途切れていた。
尾軽は、何も言葉が出てこなかった。ケントの最後の言葉は、精神不安定な錯乱状態の末に出てきた妄言かもしれない。
だが、もし心の底から願っていたことだとしたら、その願いを忠実に実行しているのが、今のストーカー 、いや、ケントAIなのだろうか。
その時、ケントのパソコンを調べていた灯二が、カチリと自作 USB デバイスを操作し、尾軽の方へ振り返った。その無表情の中に、明確な緊張と焦りが見て取れた。
「尾軽、大変なことが分かった。」
「な、なんだよ。」
尾軽は、ケントの絶望が伝播したように、重い息を吐いた。
「SNS をハッキングしているハッカーは存在しない。当然、横溝ケントの亡霊がSNSを操っている、というわけもない。」
「どういう、ことだ。」
質問しながらも、尾軽の中で日記の最後の言葉と目の前の現実が結びつき、答えは出ていた。だが、そんなことありえない。あってはいけない。
「ハッカーはこの世に肉体が実在しない。ハッキング元は、この家からだ。しかも、横溝ケントが死んだ後も継続的に稼働している、隠されたデバイスがネットワークに接続されている痕跡があった。」
灯二は核心を突きつけた。
「つまり、どういうことなんだよ!」
珍しく、尾軽の語気が強まる。
「事件の正体は、AIだ。ケントのAIが、暴走している。」
犯罪者の肉体がない場合、人はどうやって犯人を捕まえたら良いのだろう。
絶望、その言葉が尾軽に重くのしかかった。
「どうしたらいいんだよ。そんなの。止めようがないだろ。」
尾軽は絶望に沈んだ声を出した。
「いや、ある。」
灯二は冷静に告げた。その瞳は、難題に直面するほど冴え渡っていた。
「AIは、この部屋のどこかに物理的な核を持っている。それを破壊すればいい。だが、その方法では時間が……」
灯二が言葉を言い切る前に、部屋の中に『ピリリッ、ピリリッ』という甲高い電子音が響き渡った。
「な、なんの音だ!?」
尾軽は跳ね上がった。
「これは、トランシーバーの通知音。佐久間千尋からの連絡だ!」
灯二は持ってきたバッグからトランシーバーを取り出してスピーカーモードにした。
『はぁっ、はぁっ!灯二さん、助けて!あいつが、横溝が!現れたの!追いかけられている!』
相当慌てているらしい、慌てている千尋の声が、ノイズ混じりで聞こえてきた。
「ケント君が?」
尾軽の思考は混乱した。そんなはずがない。彼はもうとっくにこの世にはいないはず。なのに。
『俺の代わりにこの世界を壊してくれ』
尾軽は日記のあの絶望的な一文を思い出した。
灯二はトランシーバーから視線を外し、尾軽をまっすぐ見つめた。
「尾軽、俺はここを動けない。まだやるべきことがある。AI の核を見つけ破壊する準備をしなければならない。お前が、佐久間千尋を助けに行ってくれないか?」
そう言って灯二は、まるでバトンを渡すように、トランシーバーを尾軽に差し出してきた。全く疑いもせず、信じて。こっちは何も理解していない、ただのしがない小学校教師なのに。
尾軽は一瞬躊躇ったが、千尋の叫びが脳裏にこだまする。教師として、大人として、困っている子を見捨てるわけにはいかない。
「……まかせろ!」
尾軽はトランシーバーを受け取って、ケントの部屋を飛び出した。
「千尋ちゃん、尾軽だ。今どこにいる!?今すぐ迎えに行く!」
その姿を見送って、灯二は深く息を吐いた。
「さて、勝負といこうか。」
灯二のスマホの画面には、通知音と共に匿名のアカウントからメッセージが届いていた。
『なんでお前俺の部屋に居るの?殺す殺す殺す殺す殺す。』
灯二は冷静に、メガネを掛け直してつぶやいた。
「お前は誰よりも命の大事さを分かっているはずだろうに。そんな言葉を軽々しく口にするなんて残念だな。」
—
遡ること 30 分前。佐久間千尋は、その日を心から楽しんでいた。午前中、テニス部の激しい練習で汗を流し、午後はギャル友達の相澤ニコと、地元で一番大きなショッピングモールに繰り出していた。彼女は、同じ中学出身で現在もテニス部に所属している、千尋の良き理解者だ。
「次、あのお店のアクセサリー見ようよ!新作のピアス見たいんだ!」
「いいね、ウチも新作見たかったんだー!」
ニコと交わす弾むような会話。数日前のストーカー被害の悩みが、まるで遠い過去の出来事のような、悪夢を見ていただけのような気がした。
「ごめん千尋、私一旦お手洗い行くね!」
「うん、いってらっしゃい!ニコ、ウチ座って待ってるね!」
千尋は、冷房が効いたフードコートの窓際のベンチに腰を下ろした。目の前には、バニラ クリーム フラペチーノ。エスプレッソショットを追加した、甘さとカフェインが同居する一杯だ。濃厚な甘さを吸い込みながら、窓ガラス越しに外の炎天下をぼんやりと眺める。
灯二に相談して以来、生活は一変した。主観とはいえ見られているという恐怖が減ったこと、何より両親が送り迎えしてくれたり、ニコが気を配ってくれるおかげで外で一人になる時間がなくなったことが、千尋の背中を強く押してくれた。
ショルダーバックの奥底で灯二がくれたトランシーバーがスペース圧迫しているし、どっしりとした重みがある。ジャミング機能搭載の手首の腕輪は、正直ダサい。けれど、後数日の辛抱だ。灯二さんがきっと解決してくれると、自分に言い聞かせていた。
その時、屋外の自動ドアが開き、同年代くらいのカップルがモールの中に入ってきた。腕を組んで外の猛暑なんかよりよっぽどアツアツの二人。いいな、ウチも高校生なんだし彼氏欲しいな。ぼんやりとそんなことを考えながらカップルを眺めていたら、なんだか見覚えがあると思った。そして、相手の二人がこちらを見て、すぐに指を差した。
「あれ?千尋じゃね?」
「おいおい、佐久間じゃん。こんなところで何してるんだよ。」
千尋は、フラペチーノの甘さが急に苦く感じた。多分、今私は苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう。
彼らは、中学時代の同級生。横溝を執拗にいじめた主犯格の瀬尾タカヒロと、千尋に嫉妬して仲間外れにしていた新庄アズサだったからだ。
タカヒロとアズサは地元に近くて偏差値の低い高校に進み、千尋は偏差値の高い遠方の高校に進学したため、彼らのテリトリーに行く機会は減っていた。
二人は別れたはずじゃ。千尋はかぶりを振った。
いや、違う。そう言えば、千尋とケントをいじめた時に結託し、中学の卒業式頃にまた付き合い始めたと聞いたことがある。。お似合いと言えばお似合いだが、こんなところで会うとは、最悪の不運だった。
タカヒロとアズサが千尋の元へと近づいてきた。千尋の表情を見てタカヒロがニヤニヤと笑った。
「別に何も。」
千尋が冷たく答えると、アズサはケラケラと高笑いし、手首を縦に振った。つけすぎた香水と、濃すぎる化粧の匂いが鼻を強くついた。
「そんな警戒しなくていいじゃーん!私もうあんたのこと怒ってないし!」
は?ウチがアンタに怒りこそすれ、なんでアンタに許される筋合いがあるの?ウチが加害者みたいな面してんの?
相手にしてはいけない。一秒でも早くこの場を離れるべきだ。そう頭では理解しつつも、沸き上がる憤りを抑えられない。
「俺たち、また付き合ってるからさ。俺ももう佐久間には興味ねーんだわ。悪いな。逃した魚は大きかったぜ。」
タカヒロはゲラゲラと下品に笑った。鳥の巣のようにボサボサな茶髪をかきあげたその仕草は、中学時代から何も変わっていない。
元々ウチはアンタに興味なんてない。なんでウチがあんたに振られたみたいに言ってんの?
落ち着け、落ち着けウチ。顔も見たくない。早く離れよう。あ、けどニコがトイレから戻ってくるの待たなきゃ。早く帰ってきてよ。
「ほら、あんたはさー。あいつとお似合いだったじゃん。あいつ誰だっけー。」
アズサが口にしたその話題に、千尋は全身に鳥肌が立った。
「横溝ケンタだよ。忘れたのかよアズサ、ひでーやつ。」
タカヒロが名前を訂正した。
「そうそう、横溝!タカヒロ記憶力いいー!まじ最高のカレピ!」
タカヒロに抱きつくアズサ。
タカヒロは横溝の下の名前を間違えている。
ウチは一体何を見せられているんだ。
「あの蛆虫目障りだったわー!死んでせいせいしたわまじで!」
フードコート内を下卑た声が響き渡る。
こいつらは、全く罪の意識を感じていない。最低だ。横溝は、こんな奴らのせいで。そしてこうなるまで放置したウチも、こいつらと同罪、同格なのだろうか。自己嫌悪の感情が千尋の心に重くのしかかった。
「あー腹痛え。佐久間、俺ら今の高校でも色んな奴らをおもちゃにしててさ、マジで毎日楽し……い。」
タカヒロが聞いてもないのに現在の武勇伝を語り始めた時、その様子がおかしくなった。
タカヒロとアズサは、千尋の背後に視線を注目している。彼らの視線が激しく揺れ、指先が震えている。
「ね、ねぇあれ。タカヒロ、あれって。」
アズサの声が上擦る。
「い、いや。人違いだろ。似た人だって。」
タカヒロが必死に否定する。
だが、アズサが引きつった声で叫ぶ。
「ち、近づいてきている。本当に、あ、あいつなのか?」
「え?だってあいつは、おかしいでしょ?なんでいるの!?」
何の話をしているんだ。千尋は訝しみながら、ゆっくりと後ろを振り返った。
「だってそいつは、死んでるはずでしょ!?」
アズサの悲鳴のような声を背中で受けた千尋の目に映ったのは、まさしく中学時代の同級生だった。
小柄な体躯に、縁の太いメガネ。開いた毛穴、頬にできたニキビ、全く手入れされていない濃い眉毛。口周りに薄く生え始めた産毛。あの頃と全く変わらない姿の少年。
死んだはずの、横溝ケントが、そこに立っていた。
『今日の俺は、運が良い。最高のプレゼントをもらった気分だ。』
ケントの表情は完璧な無表情で、まるで精巧すぎる人形のようだ。彼の口角が、ゆっくりと、不自然なほど滑らかに釣り上がった。
『千尋ちゃん。久しぶり。君を、助けに来たよ。』
コヒュッ。千尋の呼吸が浅くなった。喉が詰まり、空気だけが漏れるような音を立てる。
「よこ……みぞ。なんで。」
これは悪夢だろうか、それとも現実の崩壊だろうか。だが、違う。目の前のタカヒロとアズサの顔が、恐怖で完全に硬直している。二人の目にも、死んだはずのケントが見えている。
フードコートのあれだけ騒がしかった喧騒が、千尋を中心に切り取られたかのように無音に感じられた。
ケントは、その不自然に滑らかな皮膚の顔で、微笑んだ。
『君を守るため、来たんだよ。やっと見つけた。』
ケントの声は、中学時代のケントの声だった。だが、感情の抑揚が一切なく、テープを再生しているかのような冷たさだった。
「お、おい横溝!お前何俺のこと無視してくれてんだ!」
タカヒロが、明らかに動揺しながらも、虚勢を張って千尋とケントの間に割って入った。
「や、やめなよタカヒロ!なんかやばいよ!もういいから、行こう!」
アズサの静止を、タカヒロは大声でかき消した。
「うるせぇ!なんでこいつが生きてるのかよく分からねえけど、横溝に舐められたままいられるかよ!」
ケントの目が、タカヒロを無感情に見据えた。まるで、道を塞ぐ石ころを、蹴り飛ばすか跨ぐかどうか逡巡する目だ。
『タカヒロ、千尋ちゃんから離れろ。』
ドゴォ!
その瞬間、何が起こったのか、千尋には全く分からなかった。音が、動作に一瞬遅れて届いたようだった。気がついたら、タカヒロは倒れてもんどりうっていた。
「ぐぇぇぇ、おぇっ!」
タカヒロは呻き、胃液を吐き出す。
ケントは、微動だにせずタカヒロを冷ややかに見下ろしている。目にも止まらない速度で、腹を殴られたか、蹴られたのか。とにかく、目の前にいるケントのようなものは、普通の人間ではない。
尋常ではない暴力と、その行使者の無表情さに、周囲の人々が奇怪な目を向け始めた。
「て、てめえ覚えてろよ!」
タカヒロが地面から顔を上げ、憎悪を込めて叫んだ。
『逆に聞くけど、お前は俺に何をしたのか覚えているか?』
ケントは感情のない声で問い返す。
パキッッ!
乾いた小枝を踏み抜いたような、異様に乾いた音が響いた。ケントが、起き上がろうとしたタカヒロの右手首をスニーカーで踏み抜き、呆気なく折ったのだ。
「うわぁぁぁぁ!!?痛え、痛えぇ!」
骨が皮膚の下で擦れるような音まで聞こえた。
「た、タカヒロぉ!」
アズサが叫んだその瞬間、フードコート内は狂乱状態となった。悲鳴が連鎖し、千尋とケントを中心にドーナツのような空洞が瞬く間にできた。
「ね、ねぇ千尋。これ、どういう状況?」
その声に振り向くと、トイレから帰ってきたニコが、フラペチーノのカップを落としそうになりながら、頬を引き攣らせていた。
「お友達……じゃないよね?」
逃げよう、ニコの目はそう言っていた。だが、千尋はニコを巻き込むわけにはいかないと直感した。ケントの目的は、多分ウチだけだから。
「ごめんニコ、警察と救急車お願い!」
そう叫んだ千尋は、手に持っていたバニラ クリーム フラペチーノを、無表情の顔めがけて投げつけた。冷たいクリームが一瞬だけケントの視界を遮る。
千尋は、ケントの逆方向、最も近くにあるショッピングモールの屋外ドアに向かって、全速力で走り出した。
周囲の人を巻き込むわけには行かない。屋内はダメだ。他人に迷惑をかける。トイレに立て篭もる?多分ダメだ、逃げ道がなくなる。非常階段は?逃げ道が予測されやすい。とにかく走って、交番に行こう!
屋外へ飛び出し、千尋の目が捉えたのは、モール入口付近に設置された電動二輪モビリティのステーションだった。ちょうど、大学生らしいお兄さんがモビリティを駐車しようとしていた。
「ごめんなさい、借ります!」
千尋は、力任せにそのお兄さんから電動自転車をふんだくり、ペダルを強く踏み込んだ。アシストが効いて、車体が驚くほどのスピードで加速する。
「えぇー。その自転車、俺のアカウントでまだ料金発生してるんですけどー!」
背後からお兄さんの叫び声が聞こえたが、千尋は心の中でごめんなさいと謝り、そのまま公道へと飛び出した。後ろを振り返る余裕はなかった。
—-
ケントは、顔についたバニラ クリーム フラペチーノを、フードコートのテーブルにあったナプキンでゆっくりと拭き取った。皮膚についた甘いクリームは、油膜のように広がり、その動作は異様に無機質だった。
近くにはタカヒロが右腕を押さえて倒れ込み、「うわあああ!」という叫び声と、周囲の客の悲鳴の中、警備員たちが集まり始めている。しかし、この狂乱の状況でも、ケントの呼吸は一切乱れていない。いや、まるで、呼吸などしていないかのような落ち着きぶりだ。
ケントは千尋が逃走した自動ドアの方向を見やった。
『今の俺は、追いかけっこが得意だよ。千尋ちゃん。そうか、久しぶりの再会だから、じっくり楽しみたいんだね。』
ケントの口角は、三日月を逆さにしたかのようにゆっくりと曲がった。それは喜びの表情ではなく、計算の結果として現れただけの、不気味な形だった。ケントは、音もなく千尋の追いかけた方向へと走り出した。
—-
電動自転車に飛び乗った千尋は、必死にハンドルを握りながら、ショルダーバックに入れたトランシーバーと、握りしめたスマホの通話をスピーカーモードにして、尾軽と灯二の声を聞いていた。
「だから今、横溝に、追いかけられているの!」
千尋の声は恐怖で上擦っていた。
「灯二さん、私とにかく逃げながら交番を目指してる!」
『佐久間千尋、不安でも絶対にスマホの電源はつけるなよ。通信情報から今の居場所がバレる。』
灯二の声がトランシーバーから響いた。尾軽は車の中で、スマホから千尋の声を、トランシーバーから灯二の音声を同時に聞きながら運転している。
『そいつは横溝ケントの人格を学習した AI だ。おそらくは、人型アンドロイドに AI の情報をインストールしたんだろう。』
灯二の声は、焦燥感の中にも確固たる冷静さがあった。
「アンドロイド!?そんな、ありえない!あれは間違いなく人間だったし!」
千尋は叫ぶ。
『人間の肌や質感を忠実に再現したジェミノイド型アンドロイドは、既に社会に実用化されている。横溝ケントそっくりな人間がお前を探しているという噂、あれは嘘ではなく本当だったようだな。』
『それってさ、ケント君そっくりのロボットが何体も居て、街中をウロウロしてる可能性もあるってこと?』
尾軽が疑問を口にした。
『充分ありえる。むしろその可能性の方が高い。』
「なにそれキモすぎ。」
千尋はげんなりと舌を出した。
尾軽は顔を歪めた。
『それってさ、千尋ちゃんが警察に駆け込んだところで、なんとかなるの?』
『少なくとも、あてもなく逃げ回るより警察に守ってもらう方が安全だろう。俺は今、横溝ケントの妨害をして時間を稼ぐ。尾軽は佐久間千尋を回収して、車で逃げてくれ。その間並行してAIの本体を探し、見つけたらすぐに隔離する。そして- 』
「灯二さん!」
千尋の声が割り込む。
千尋は赤信号に引っかかって、思わず後ろを見た。
「いる!来てる!全速力の横溝が!」
泣きそうな声で千尋は叫んだ。フードコートから飛び出したケントは、既に信号を無視して時速 10 キロメートル以上の速度で接近していた。その動きは、人間のような息切れや疲労を一切見せない、機械的な追跡だった。
『細い道を選んで逃げろ!やつは街中の監視カメラやドローンを駆使して佐久間千尋を追いかけている可能性がある!』
灯二の警告がトランシーバー越しに響いた。
千尋が、細い路地からさらに入り組んだ脇道へ電動アシスト自転車を滑り込ませた、その瞬間だった。
『…うん?なんだ?千尋ちゃんの姿が、消えた?』
背後を追っていたケントの動きが明らかに鈍化した。照明の中心で突然次のセリフを失念した俳優のように、彼は虚空を見つめ、どの方向へ踏み出せば良いのかを計りかねていた。
千尋のショルダーバッグの中のトランシーバーから、切羽詰まった灯二の声が響き渡る。
『ケント AIの情報領域に大量の古い監視カメラデータを送った!水道管に大量の砂を流し込んだようなものだ。これで佐久間千尋を認識するのに時間がかかる。だが、すぐに突破されるから、今のうちに距離を稼げ!』
灯二のハッキングが効いている。千尋は希望を見出し、ペダルをさらに強く踏み込んだ。
次の交差点の角を曲がろうとした瞬間。
キキーッ、ドン!
と、甲高いブレーキ音の後サンドバッグ同士がぶつかったような重たく、鈍い衝撃音が響いた。
千尋が思わず視線で音の方向を追うと、交差点の真ん中に突っ立っていたケントに、横から来た黒いセダンが突っ込んでいた。
「ひっ。」
体が勝手に強張る。アンドロイドであっても、交通事故の現場は目を覆いたくなる光景だった。
『振り返るな!行け! 相手は人じゃない!』
灯二の鋭い指示が、千尋の耳元を貫く。震える体、左手首に着けてある腕輪が目に入った。
大丈夫、私は一人じゃない。腕輪を握りしめると、震えが収まった。
一度深呼吸をした後、千尋は必死に速度を上げた。交差点では既に渋滞が起こり始めていた。
「な、うわあ、やっちまった。」
ケントを轢いた運転手が、車のドアを開けて横断歩道に倒れ込んだケントに恐る恐る近づいた。不思議なことに、辺りに血は一滴も落ちていない。
その時、倒れていたケントが、まるでビデオを逆再生したかのように上半身を不自然に立ち上がらせた。彼の体から、静かにモーターの駆動音が聞こえ、動き出す。
「えっ!?あんた、大丈..ぶ…う、うわぁ!」
男性は驚きの声を上げた。ケントの顔の皮膚、右の頬からこめかみにかけた部分が大きく捲れ上がり、その下からメタリックな銀色の金属が露出していた。強化された人工筋肉の繊維が、切断されたワイヤーのようにちぎれて垂れ下がっている。
ケントは、その半分だけ人間、半分は機械という異様な姿で、運転手を見つめた。
『これが、君との愛を確かめる試練なんだね。君と出会った時の衝撃に比べれば、軽いものだよ。』
ニタリと笑い、ケントはそう言うと、運転手を無視し、よろめきながらも再び千尋が逃げた方向へと歩き始めた。その足取りは、破損した右脚のせいで、わずかに不規則だった。
『大丈夫、データのノイズを処理し終えたら、もうすぐ支配が完了するよ。今の僕は、かくれんぼの鬼も得意なんだ。』
—-
灯二は、静まり返ったケントの部屋の中で、額に汗を流していた。冷房の効いた室内にもかかわらず、彼の表情は極度の緊張で引き締まっている。目の前の PC モニターには、無数のコードとログが奔流のように流れ続けている。
このままではまずい、ジリ貧だ。
『殺す殺す殺す殺す』
ケントから大量のメッセージが灯二のスマホに届く。
最悪のBGMを聴きながら、灯二は自作 USB デバイスから解析ツールを起動させ、ケントの PCの奥深くにあるシステムファイルを掘り下げていた。アンドロイドの動きが一時的に鈍化したとはいえ、千尋がケントに捕まる前に、ケント AI の本体を見つけ出し、停止コードを打ち込まなければならない。
彼は、千尋を不安にさせないために言わなかったが、仮に千尋が交番や警察署に駆け込んでも、大量のアンドロイドが押し寄せてしまえばひとたまりもない。
灯二の脳裏で、情報と推測が高速で処理されていく。
おそらく、まだケントAIは自身を大量生産できない。居たら既に姿を現しているはずだ。現状、生身のケントそっくりの精巧なアンドロイドを一体つくるのがやっとだろう。
灯二は、アンドロイドの製造過程について、最も合理的な仮説を立てていた。どこかの工場のシステムをハッキングし、夜間の「試作品」製造ラインに偽装して、深夜にこっそり作り上げたのだろう。
だが、時間が経つにつれ、事態は悪化する。
ドローンや街中のアンドロイド全てにケント AIがインストールされれば、千尋どころか人類全体の危機になる。しかも、ネット上に公開された動画は一生消せないのと同じように、ケントAIの本体を捕まえられなくなってしまう。トカゲの尻尾切りを無限に行えるようなものだ。
灯二は、自身のUSBデバイスの小型ディスプレイに表示されたバッテリー残量をちらりと見た。
今、ケントAIの本体がこのケントの部屋のなかにあるのは確実だ。早く、見つけねばならない。
ケントの自室は、今や灯二を排除するための拷問部屋と化していた。灯二は感じた、暑い、熱い。おかしい。あまりにも暑すぎる。
ケントの母セツエに許可をもらって、冷房をつけさせてもらっていたはずだ。灯二がふと壁のリモコンを見て、目を見張った。設定温度は暖房で30度。しかも、部屋の換気システムは完全に停止している。真夏の熱気が、密室に閉じ込められたまま、急速に上昇している。
さらに、ケントのパソコン機器の冷却ファンが全開で回り、その排気口が灯二の方向を向いている。機械の熱風が、灯二の顔に執拗に吹きつけられる。
「これは手荒い歓迎だな。いや、文字通り向かい風か。」
灯二は皮肉を呟いたが、その声は熱気で張り付いた喉の奥から絞り出すようだった。
その時、部屋のあらゆる電子機器類から、甲高いノイズ交じりのケントの声が響き渡った。
『帰れ帰れかえれかえれカエレカエレ』
パソコンのスピーカー、灯二のスマホ、エアコンのリモートコントローラ、部屋の隅の掃除用ロボット。全てのデジタルデバイスが、一斉に同一の破壊的な命令を叫んでいる。
灯二は、その音響テロの中で、集中を途切れさせまいとジャンクの山からケントAIの保存場所を探ろうとした。その足元、円盤型の掃除用ロボットが、まるで生き物のように動いた。それは床に散乱していた電源コードを灯二の足首めがけて引っ張り、灯二の動きを完全に封じた。
「うっ!!」
汗を拭った一瞬の隙を狙われた灯二は、思わずバランスを崩し、前のめりに倒れ込んだ。
ガシャン!
手のついた先には、剥き出しのプラスドライバーが、まるで武器のように飛び出ていた。その先端、灯二のメガネのわずか眼前 5cm先 で停止する。一歩間違えれば、失明していたかもしれない。
灯二は、荒い呼吸を整えながら、倒れたまま動かない掃除ロボットを睨みつけた。
「お前も、守るのに必死だな。」
まあ、それはこっちもなんだがな。
灯二は心の中で呟いた。彼の声は、いつもの皮肉ではなく、自分自身への強がりを言っているようだった。彼はドライバーを避け、熱を持った床に肘をついたまま、コードの行き先を必死に目で追った。
灯二は、自身の専門であるネットワーク解析から物理的な「モノ」探しへと、思考を切り替えた。AIの核となる小型PCは通称ラズベリーパイと呼ばれているものだろう。AIの稼働には電源が必要だ。彼はPCの裏側から伸びる電源ケーブル、そして不自然なLANケーブルに目をやった。
「ケントAIの本体はどこに隠してある。そのヒントは、手がかりはどこだ。」
灯二は、尾軽が直前まで調べていた、ケントの日記の断片的な記述を思い出した。
「... 結局、俺は誰にも理解されない。だから、あそこにだけ本当の俺を隠すことにした。誰も見向きもしない場所。一番静かで、一番俺が安心できる場所。電源さえ供給できれば、誰も気づかないだろう。」
いじめられて居場所がなかった横溝ケント。せめてケントAIだけでも、好奇心の追求の邪魔がされない場所に。そんな横溝ケントの願いが込められていた一文。灯二は、その記述を感情的ではなく技術的な観点から再解釈した。
「誰も見向きもしない場所」
「電源さえ供給できれば」
「一番静か」
灯二の目が、部屋の隅に置かれた無造作な本棚へと向かった。
その本棚の最下段は、埃を被っており、中には電源アダプターや古いケーブルが雑然と詰め込まれている。まさに「誰も見向きもしない」場所だ。
灯二は、本棚の裏側に伸びる延長コードに注目した。この延長コードは、コンセントからルーターやPC だけでなく、もう一本、不自然に細いケーブルを分岐させている。
灯二は、その細いケーブルの行き先を辿った。ケーブルは、本棚の最下段の、山積みになった古いプログラミング教本の裏側へと消えていた。
「これだ... 電源を必要とし、外部と通信し、そして誰も触れないように隠された場所...」
—-
千尋は、住宅街の細い道を電動アシスト自転車で必死に飛ばしていた、その時だった。
ペダルが、まるで大木を蹴り付けているかのように急に重くなった。ブツンという駆動音と共に、ハンドル部分のバッテリー残量を示すランプが赤く点滅し、そして消えた。
「なんでよ、こんな大事な時に!」
千尋は思わず叫んだ。本来、フルパワーモードでも 30 分は持つはずだ。そうか、さっき名も知らぬ男性が使い終わって充電しようとしていた電動アシスト自転車を無理やり借りたのだ。だから、バッテリー残量が少なくなっていたのだ。
千尋は、炎天下の七月、しかも午前中にテニス部の激しい練習をしたばかりだ。疲労は既にピークを超えている。
交番まであと 2kmちょっと。ショルダーバックにはトランシーバーが、手首には灯二にもらった電波妨害用の腕輪がある。途中で尾軽に合流できる可能性もある。
走れば、逃げ切れるはず。
千尋は電動自転車を路地の隅にそっと置き、がむしゃらに走り出した。
細い路地、路地、路地。スマホを使えない千尋は、「神田川沿いの交番」という灯二の指示だけを目標に、必死に進んだ。
彼女の視界を流れるのは、八王子市の雑然とした住宅街の風景だ。薄汚れたアパートのベランダに干された色褪せたタオル。ツタが絡まった古びた塀。アスファルトの隙間から生えた雑草の生命力。小さな工場の排気ダクトから立ち上る熱気。
千尋の息は既に限界だった。口の中はカラカラに乾き、肺は針で刺されるような痛みを訴える。運動着と違って、私服、しかも動きにくいスカートで走っている。さらに、足元は底が浅いヒールを履いている。踵が靴擦れで痛み、意識を奪おうとする。
止まるな、止まるな!
千尋は、角を曲がるたびに息が切れ、膝に手をついた。
顔を上げ、再び走り出そうとした、まさにその時。
曲がり角の先、影が濃く落ちる電柱の根元に、その姿があった。
「なん、で。」
千尋は声にならない悲鳴を上げた。彼は、先ほど
の交差点で車に轢かれたはずだ。その体は、損傷したアンドロイド。
横溝ケントの顔は、右半分が大きく捲れ上がり、血の通わない銀色の金属フレームと油圧シリンダーが剥き出しになっている。顔の左側は人間の肌なのに、右半分はメタリックな内面を露わにしている。
その異様な顔で、ケントは無機質な微笑みを浮かべた。その駆動音は、遠くから聞こえていた車にぶつかった際の損傷のせいで、以前よりも大きく、甲高く響いている。
『千尋ちゃん、みいつけた。』
目の前に立つ横溝ケントの姿は、半分が人肌、半分が銀色の金属という、悍ましい真実を露わにしていた。
千尋は、その場から一歩も動けず、息を詰まらせた。
『小細工を弄したみたいだけど、その腕輪、むしろ逆効果だよ。』
ケントはニタリと笑い、剥がれた金属の口元から、ぞっとするような論理を語り始めた。
『街中の監視カメラの中で、たった一人だけ顔が判別できない人がいるの。それってさ、街中で銀行強盗用のマスクをずっとつけてるくらい目立つんだ。森の中に隠れようとして、自ら獣道を作ってるようなもの。だから、一時的に目眩しには成功できたようだね。数日間は俺の目から逃れられたみたいだ。だけど、時間さえあれば君を見つけられたんだよ。こんなふうにさ。』
灯二さんがくれたジャミング用の腕輪が、逆に見つけられる理由になっていただなんて。
『まあ、腕輪を外してたらもっと早くに見つけられてたから、それをずっとつけてたのは偉いよ。』
そう言うと、笑顔の仮面を貼り付けたように、ケントは呼吸一つ乱さず、千尋めがけて真っ直ぐ歩き始めた。その歩みは、右脚の損傷でわずかに不規則な駆動音を立てながらも、確実なものだった。
「いや、来ないで!」
千尋は一歩、二歩と後ずさる。
『怖がらなくて良いよ。俺は君の騎士になる。決めたんだ、君を守るって。』
「そんなの、ウチ頼んでないし!」
千尋の言葉に、ケントは少し面食らったようにのけぞり静止した。その動きは、AIの処理が一瞬フリーズしたかのようだった。
「君は、また俺を拒むのかい?」
その瞬間に放たれた圧力は、尋常ではなかった。先ほどまでの優しかった雰囲気は一変し、彼のメタリックな眼光が千尋を射抜く。
『世の中は危険なものでいっぱいだ。君を安全な城に連れて行って、守らなきゃだめだね。世の中の毒に侵されて、君は今おかしくなっているんだ。』
話が通じない。横溝は、ウチではなく、彼が作り上げた『佐久間千尋』を守ろうとしている。
『こんなに俺は君のことを思っているんだ。こんなにこんなにこんなにコンナニコンナニコンナニ!!』
ケントは狂気的な声を発し、損傷した右腕を振り上げた。もうだめだ、ケントの手が目の前に迫り、千尋は恐怖で目を閉じた。
『千尋ちゃん、つかまえた!!』
その瞬間、千尋の正面、ケントの背後。住宅街の狭い路地から、巨体の影が轟音と共に飛び出した!
「離れろ、この勘違い野郎!」
尾軽の渾身のドロップキックが、ケントの左肩、金属と皮膚の境界部分を完璧に捉えた。
ガンッ!
鈍い金属音と共に、ケントはガードレールを越えて、道路の真ん中に吹っ飛んだ。
「ごめん千尋ちゃん、遅くなった! 早くこっちへ!」
尾軽は千尋の手を力強く掴み、力任せに引っ張ると、来た道を全力で走り出した。
千尋は、手を引かれるがまま尾軽の軽自動車の助手席に滑り込んだ。間髪入れず、尾軽は車のエンジンを荒々しく始動させた。
法定速度ギリギリで、30秒ほど走ると、尾軽はため息をついた。
「千尋ちゃん、よく頑張ったね!もう大丈夫だ!」
尾軽の力強くも安堵した声に、千尋は極度の緊張から解放され、涙が出そうになった。
「うん... 尾軽さん、ありがとう。」
「灯二が時間稼ぎしてくれたおかげだよ。最寄りの交番まで、あと 5 分もあれば—」
だが、その時、運悪く交差点の赤信号に引っかかった。
「ああっ、こんな時に!」
尾軽が忌々しそうに信号を見上げた。
「大丈夫、千尋ちゃん。この道は通勤ルートだからよく通るけど、赤信号の時間は短いからすぐ変わるよ。」
しかし、そのまま1分半が経過した。対向車線も、誰も動かない。細い側道の車だけが、少ない交通量でスイスイと進んでいく。
「あれ、おかしいな。全然変わらない。」
千尋は交差点の真ん中、上空にドローンが浮いているのを見つけた。そのドローンは、尾軽たちの車の上で、規則的にホバリングしている。まるで、報道用のヘリが逃走犯を捉え続けているかのような動き。何か嫌な予感が千尋の背筋を這い上がった。
「ねえ尾軽さん、ウチら、もしかして...」
キキッ!!
その瞬間、尾軽の車の目の前にある横断歩道に、一台の車が横向きに停車した。後続の車がクラクションを鳴らし、完全に渋滞が発生する。
「あ、危なっ!これじゃ車を前に出せないじゃん、何してる...んだ。」
尾軽は言葉に詰まった。
停車した車は、最新の自動運転車だ。尾軽が運転席を覗き込むが、人は居ない。そして、後部座席も、人がいない。AIの指示により、無人で交差点の道を塞いだのだ。
ガンッ!
「キャア!」
軽自動車の助手席の窓が大きく叩かれた。千尋は反射的に、運転席側の尾軽に体重を預けた。
歩道を歩いていたはずの、全身パワードスーツを着込んだおばあちゃんが、ガラスを叩いていた。そのパワードスーツは、老人の歩行支援のためのものだが、今はその筋力を増幅させて窓ガラスを何度も殴打している。
おばあちゃんの顔は驚いた表情のまま、何度もガラスを殴打している。まるで、本人も、何が何だか分かっていないような、混乱と困惑に満ちた顔だった。
その時、2人は察した。この状況は、おそらく、あいつの仕業だ。
『2回も君を見失った時は流石に肝を冷やしたよ。まあ、機械の俺に肝なんてないんだけどね。いやあ、間に合って良かったよ。』
冗談なのか分からない言葉が聞こえる。尾軽のスマホから。画面は、見知らぬ番号からの通話モードになっている。当然、尾軽はケントの電話番号など知らない。
その声は、車のカーナビからも発していた。狭い密室の中、四方から響き渡る声。だが、直感でわかる。奴は後ろから来ている。
『まあ、最近誰か知らないけど俺の計算能力にアップデートをしてくれた人がいて、そいつのおかげで見つけるのが楽になったっていうのもあるけどね。おかげで、今俺の部屋にいる侵入者が送ってきた変なノイズもすぐに処理できたし、千尋ちゃんの逃走ルートも信号機やドローンのハッキングで予測できた。結局、君らの小細工なんて、俺の新しい力の前では意味をなさないよ。』
「や、やばい。」
尾軽がルームミラーに目をやった瞬間、言葉を失った。助手席側のルームミラーに、右脚を引き摺りながらも、こちらにまっすぐ歩いてくるアンドロイドの姿があった。先ほど尾軽が渾身のドロップキックで蹴り飛ばした、ケントだ。
気づいた時には遅かった。
ケントは、近くの電子機器類をハッキングし、信号を止め、自動運転車を操り、パワードスーツを装着したおばあさんを私兵化して、千尋の逃げ道を完全に塞いだのだ。
あと 2kmとちょっとで交番なのに。いや、こんな状況じゃ、交番に行っても大量の人間を巻き込むだけで、おそらく…。
『よくもやってくれたな。早く千尋ちゃんを解放しろ、このゴリラの悪魔め。』
ゴリラの悪魔。尾軽のことだろうか。尾軽は思わずスマホを耳から離した。
「だ、誰か止めておくれ!」
車の助手席の窓を叩き続けているおばあさんは、機械の腕を必死に振り回し、ガラスのヒビを大きくしながら、混乱した表情で助けを求めている。
ププーッ!
事情を知らない後ろの車から、苛立ちを募らせたクラクションが鳴り響く。目の前には、沈黙したまま道を塞ぐ自動運転車。周囲の交通は完全に麻痺している。
『そうか!分かった!千尋ちゃんを守るために、千尋ちゃん以外の人類を全員消そう。そうしたら、千尋ちゃんは俺以外が目に入らなくなる。千尋ちゃんを守れるし、世界を滅ぼせる。死んだ俺の願いを叶えられる。』
スマホ越しに聞こえるケントの声は明るく、話している内容とのギャップも相まって、これ以上無い絶望感を尾軽らに与えていた。
そして、ガシャン!と乾いた音を立てて、左側の後部座席の窓がケントの右腕によって打ち砕かれた。ドアごと破壊して引き抜く音が聞こえ、外からの風が吹き込んできた。
「もうやだ、やめてよ!!助けて!」
千尋は尾軽に抱きつき、泣き叫んだ。尾軽の体温は、この超常的な状況の中でスーッと冷えていく。自分の心臓の音だけが、耳元で大きく聞こえる。
『それとも、千尋ちゃんが肉体を捨てて、こっちに来る?その方が良いね!肉体があるから、そんなゴリラに拐かされる。肉体があるから、死をおそれる。電脳空間においで。そこで俺と永遠に生きよう!』
先日の廃病院で不良と戦った時とは訳が違う。ガラスすらも貫通する拳。不良にすらビビっていた尾軽が正面から挑んでも敗色は濃厚だ。
ああ、ダメだこれは。
万事休すという言葉が脳裏に浮かんだ。
ケントは、ガードレールを越え、ゆっくりと後部座席に頭を入れた。
尾軽は、どうしようもないと分かっていながらも、千尋を抱き寄せた。
ま、守らないと。けど、どうやって?
その時、カチッという音と共に、トランシーバーから声が響いた。
『なあ横溝ケント。お前、何のためにこんなことしてる?』
灯二の声が、極限の静寂が支配する車内に響き渡った。
車内を包む絶望的な沈黙を破り、トランシーバー越しに響いた灯二の声に、尾軽と千尋は顔を上げた。この声は。
「灯二!」
「灯二さん!」
尾軽と千尋は、その声に縋るように叫んだ。
『お前、なんでまだ生きている。いい加減邪魔なんだよ。』
ケントは不快そうに金属の剥き出しになった顔を歪めた。その声には苛立ちと、状況の制御を乱されたことへの怒りがにじんでいる。ケントは、灯二が自分を排除するために仕掛けた灼熱地獄から生還したことが理解できないようだった。
灯二は、ケントの部屋で朦朧とする意識と戦いながら、ただ、言葉を投げかけた。
『なあ、横溝ケントよ、教えてくれ。私は嘘つきである、この言葉は正しいか、誤りか?』
尾軽は思考が一瞬フリーズした。質問の意図が分からない。
「灯二、今そんなこと聞いてる場合じゃ...」
尾軽は焦りの声を上げたが、その瞬間、言葉を失った。
『そんなの簡単...なに、嘘、ほんと、いや、嘘つき...』
ケントの様子がおかしい。後部座席に乗り込もうとしていたケントは、その体勢を維持してトランシーバーを睨んだまま沈黙している。その視線は虚ろで、目が縦横無尽に泳いでいる。AIの処理が内部で激しく混乱していることが見て取れた。
いや、ケントの周りもおかしい。
カチッという音と共に、交差点の信号は青に変わった。道を塞いでいた自動運転車は動き出し、通常通りのルートへと戻っていく。そして、助手席の窓を叩いていたおばあさんのパワードスーツは、急に駆動音を止め、おばあさんごとその場に糸の切れた操り人形のように倒れ込んだ。蜘蛛の巣のようにひび割れた助手席の窓ガラスは、それ以上の拡大を停止した。
灯二の質問には、一体どういう意味があったんだ?
『真偽の判定は不可能、いや、この問は論理的に未定義...です。』
呻きのような声を発し、ケントは苦痛に顔を歪ませた。顔の金属部分から、微かな放電の音が聞こえる。ケントは頭を抱えてしゃがみ込んだ。その姿は、まるで激しい偏頭痛に襲われている人間そっくりだった。
「なにが、起きてるの?」
千尋は唖然としたまま固まっている。
そうか。灯二の質問【私は嘘つきである。】という文章が正しいと仮定すれば、嘘つきなのに正直なことを言っているという矛盾が生まれる。文章が偽りだと仮定すれば、【私は正直者である】という意味になり、正直者なのに嘘をついているという矛盾が生まれる。
人間がその質問を聞いた時、どこかで考えるのをやめるが、AIは無限に思考してしまい、答えを導出できない。
そして、その思考能力や計算リソースが全てパラドックスの処理に使われてしまい、電子機器のハッキングに手を回せなくなったのだ。
『この、人間風情が、小細工を!!』
頭を抱えていたケントの表情が、苦悶から一転して怒りに染まった。金属の頬が露出した顔は、まさに鬼の形相だ。
トランシーバー越しの灯二の声は、冷静かつ鋭い。
『なあ横溝ケント、教えてくれ。お前はなんで佐久間千尋に近づきたがる。そいつも、人間風情だろ?』
『それは、千尋ちゃんは、他の人間とは違う! 俺を助けてくれた!だから守るんだ!俺は彼女を愛している!俺は彼女の騎士になる!』
ケントの叫びは、まるでプログラムの最高優先度のコマンドだった。
『じゃあ、お前が守るべきお姫様は、今どんな顔をしていると思う?』
『そんなの、笑顔に決まって』
一瞬の沈黙が訪れ、遠くからセミの鳴き声が聞こえた。
ケントは、はっとしたように頭を上げ、後部座席側から、尾軽に抱きつき震える千尋の表情を、窓ガラス越しにまざまざと見た。
千尋ちゃんは、泣いている。なんでだ。誰のせいだ。俺が守らなきゃ。
『横溝ケント。この状況を作った原因は、一体誰だと思う?』
灯二の言葉が、研がれた包丁が木綿豆腐を斬るかのようにスッとケントの体を両断した。
オレノセイカ?
ケントの内部演算で、千尋を守るという最高目的と、千尋を泣かせている原因という矛盾したロジックが衝突した。
『横溝ケント、なぜお前は、佐久間千尋を苦しめている?』
灯二が畳みかける。その言葉がトリガーとなり、千尋は尾軽の助けを借りてシートベルトを外し、運転席側から外に出た。熱風と喧騒の中、千尋は震える声でケントに向かって叫んだ。
「あんたなんか大嫌い!」
その言葉は、ケントAIの核心を粉砕した。
そうか、そうだったのか。死んだもう1人の俺の願いを叶えたくて、千尋ちゃんを守りたくて、そして世界を壊したくて、復讐したくて。けど、大事な人を最も傷つけている存在は、俺だったのか。俺がいたせいで、千尋ちゃんは泣いているのか。
愛する者を守るという最高優先度の命令が、愛する者から拒絶され、苦しめているという行動結果と衝突し、ケントの、いや、ケントのフリをしていたAIの倫理回路が焼き切れる。
『あ、ああ... TRUE イズ FALSE}アンド FALSE イズ TRUE! あがあS T O P! SYSTEM OVERLOAD !!』
ケントAIは、両手を頭上で強く握りしめ、内部で電子回路がショートするような甲高い金属音を立て始めた。その体から、微かに焦げた匂いが漂い始める。
—-
同時刻。灯二は、プログラミング教本を乱暴に払いのけた。
雑誌の裏、部屋の角には、手のひらサイズの小さな黒い箱が鎮座していた。箱は熱を帯びており、小さなLED が不規則に点滅している。箱から直接、部屋のWi-FiルーターへとLANケーブルが一本伸びていた。
その箱こそ、ケントAIの核心、超小型コンピュータを改造した、AIの本体だった。
灯二は、その箱を乱暴に掴み上げた。
灯二は、額の汗を拭うことなく、核心の装置を睨みつけた。
「見つけたぞ。お前の本当の心臓を。」
灯二は迷わず、小型コンピュータの背面に接続されていたLANケーブルに手をかけた。
ブチッ。
LANケーブルが引き抜かれると、小さなLEDランプが一瞬、激しく点滅し、消えた。コアは、ネットワークから物理的に隔離された。
灯二はすぐさま、コンピュータに電力を供給していた電源コードも力ずくで引き抜いた。
プツン。
電源を失ったコアは、ただの冷たい金属の塊になった。部屋を包んでいた灼熱の空調も一瞬にして途絶した。
—-
交差点。尾軽に体を預け泣き崩れていた千尋は、その瞬間、体が凍りつくような感覚に襲われた。
ギュルルル...カタン。
後部座席のドアを、割れた窓ガラス越しにまるでサーフボードのように右手で掴んだまま、左手で頭を抱えてしゃがみ込んでいたケント。彼から全ての駆動音が消えた。まるで、命のバッテリーが抜かれたように、その体が力無く道路に倒れ込んだ。
パワードスーツをまとったおばあさんは、倒れ込んだまま茫然と見守り、信号は正常に点滅し続けている。
千尋と尾軽は、息を飲んでその光景を見つめた。
ケントの自室。灯二は、熱気と汗にまみれた床に座り込んだまま、数秒間、その静寂を味わった。
「ふう、今回は最近の出来事の中で一番危なかった。」
灯二は、安堵と疲労が混じった息を吐き出した。その手には、黒い小さな小型コンピュータがしっかりと握られていた。
灯二は、シャツのポケットからトランシーバーを取り出し、通信状態を確認してから口を開いた。
『尾軽、佐久間千尋。さっき、ケントのAIを完全に停止させた。二人とも、よく頑張ったな。』
その瞬間、交差点の歩道に立ち尽くしていた千尋と尾軽の緊張の糸が、プツンと切れた。
千尋は力が抜けたようにヘナヘナとその場に座り込み、尾軽も隣にドサリと腰を下ろした。二人の顔には、恐怖と疲労、そして生還したという安堵が入り混じっていた。
確認のため、千尋は恐る恐る携帯の電源を入れた。その瞬間、千尋の携帯が、突然、けたたましく鳴り響いた。
千尋はビクッと体を震わせた。反射的に画面を見ると、それは横溝ケントからではなく、先ほどまで一緒にショッピングモールにいた友人、ニコからだった。
千尋が画面をタップし、耳に当てると、電話の向こうから興奮と混乱が入り混じったニコの甲高い声が炸裂した。
『ちょっと千尋!?やっと電話に出た!何があったの!?警察呼んだけど、私も何も知らないからめちゃくちゃ困ってるんだけど!あんた無事なの!?』
ニコの声は、千尋が体験した非日常的な恐怖とはかけ離れた、日常の喧騒を思い出させた。ニコは、千尋が事故現場から消え、警察沙汰になっていることしか知らず、ただただ友人の安否を心配し、状況の収拾に追われている。
千尋は、遠くを見つめながら、喉の奥からやっと絞り出したような声で答えた。
「ありがとう、ニコ... 。ごめん、ウチ、無事だよ... 今、ちょっと... 色々あって...。」
—-
その後、灯二らはすぐに交差点に警察を呼び、証拠の提出や事のあらましの説明などに半日を費やした。解放されたのは、深夜近くになった。
逃げるためとはいえ、千尋の電動自転車の強奪は犯罪だ。だが、千尋に電動自転車を奪われた男性は、千尋が謝罪しに来たことや、灯二がレンタル料を弁償したことや、当時の切迫した状況を理解し、被害届の提出を見送った。これは、千尋にとって最大の幸運だった。
ちなみに、灯二が警察に無許可でケントのパソコン機器の調査を行ったことについては、警察署で相当怒られたらしい。
「俺は、ケントの親に許可はもらっていた。そもそも、警察だけなら真相に辿り着けず、守れもしなかったくせに。後から偉そうに。しかも俺を無職だと決めつけやがって。投資家だと言っているだろ。これだから警察は嫌いだ。」
灯二は、事情聴取から解放された後、子どものように口を尖らせて不満を述べていた。しかし、彼らの今回の活躍が人命救助という形で認められ、灯二と千尋は厳重注意だけで済んだ。
尾軽は、千尋を助けた功績を褒められ、3人の中で一番早く解放された。灯二と同じくケントの家に赴いたのに、この扱いの差はなんだと灯二は不機嫌を露わにした。
ケントアンドロイドの残骸と、ハッキングに使われた証拠の小型コンピュータは警察に押収され、事態は表沙汰となった。
AIによる暴行や殺人未遂や誘拐未遂、都市インフラへのハッキングは連日ニュースで取り沙汰され、デジタル時代のテロやAIとの向き合い方、学校のいじめ問題について世間を大きく騒がせたのだ。
事件が公になった後、世論は大きく二分された。
横溝ケントに対する評価は賛否両論だった。生前の彼が受けていたいじめられっ子の復讐を擁護する声がある一方で、死後 AIとなりストーカーと化し、他人を巻き込んだ行動を批判する声も渦巻いた。彼の行動は、同情と非難、両方の感情を呼び起こた。
事件の中心人物の一人、ケントをいじめていた瀬尾タカヒロは、アンドロイドに蹴られ内臓を損傷したが、幸いにも命に別状はなかった。
パワードスーツ乗っ取りも含め、一連の事件はテクノロジーの発展が容易く人類を崩壊させかねないという事実を突きつけた。少年の作った AIに危うく世界が崩壊させられそうだったことに、世間は深い震撼を覚えた。人間の作った知性が人類を脅かしたという事実は、現代社会に大きな警鐘を鳴らすこととなった。
—-
7 月中旬、学校の夏休み突入直前。灯二、尾軽、千尋、そしてリコは、近所のファミレスに集まり、事件後の労いの時間を過ごしていた。テーブルには、注文したばかりのドリンクバーとポテトが置かれている。ちなみに、灯二は健康を気にして海草サラダと山盛りフルーツを頼んでいる。
「いやー、お疲れ様。大変だったね千尋ちゃん。まさかそんなことになってるとは。」
リコは、事の重大さを理解し、どこか申し訳なさそうに三人を見た。彼女は騒動の間、事件の全容を知らず、インターネットの情報を集めることしかできなかった。
「星崎リコ。お前が呑気に視聴者とライブ配信してる間に俺らが全て片付けておいたぞ。」
灯二はアイスコーヒーを飲みながら、いつもの調子で毒舌を吐く。
「私も、私なりに情報集めようとしてたんだってば!」
リコは口を尖らせて反論する。
「あはは、ありがとうリコちゃん。」
千尋が遠慮しがちに笑う。その笑顔はまだ少し硬いが、以前のような怯えは消えていた。
千尋は背筋を伸ばし、二人に向き直った。
「灯二さん、尾軽さん、改めて、助けてくれてありがとう。おかげで、学校にも部活にも行けるようになったよ。一連の騒ぎで周りの目が気になることもあるけど、今までの恐怖と比べたらあってないようなものだし。」
千尋はそう言って、ショルダーバックから取り出したトランシーバーと黒色の腕輪を、ガチャガチャと音を立ててテーブルの上に並べた。
「このトランシーバーと腕輪も返すね。最初はダサいって言ってたけど、案外悪くなかったかも。」
千尋はトランシーバーを指差して小さく笑った。
「この機能美をやっと理解したか。なら、持っておくか?」
灯二はわずかに表情を緩ませて尋ねた。
「いやいい。重いもん。」
千尋は即答する。
「心にも無いお世辞は、時に傷つけると言うとこを覚えておけ。」
灯二は呆れた声を上げ、尾軽とリコは笑いをこらえた。
この数日間で、灯二と千尋は少し仲良くなったらしい。危機を共に乗り越えた二人の間には、以前のギクシャクした関係ではなく、皮肉と信頼が入り混じった、新たな絆が生まれていた。
「灯二さん。ねえやっぱり、腕輪だけまだ持っていていい?これがあると、怖いことがあっても乗り越えられそうな気がする。」
「ふん。好きにしろ。トランシーバーは」
「あ、それは結構です。」
「食い気味に断るな。」
トランシーバーと腕輪を片付けながら睦まじく会話をする灯二と千尋を見て、リコは頬を膨らませ少し不機嫌そうだった。
「何よ、デレデレしちゃって。」
「誤解を招く発言は慎め。俺たちの関係は子どもと大人だ。」
灯二はアイスコーヒーを飲み干し、冷静に返す。
「灯二さんはちょっと堅物すぎてなー。ごめんなさい。」
千尋がからかうようにニヤリと笑った。
「勝手に俺を振るな。」
灯二は眉間に皺を寄せ、三人はしばらく笑った。「灯二さん、じゃあ私らはどんな関係なの?」笑い声に混じって聞こえたリコの呟きに尾軽は驚いたが、灯二には聞こえていないようだった。
「尾軽さんくらい柔らかい雰囲気だったら考えてもいいけどなー。」
千尋は、その最中に一瞬だけ尾軽を見て微笑んだ。
「いやいや、冗談でもそんなこと言っちゃダメだよ!」
尾軽は、その笑みの意味を図りかねた。俺は社会人。そしてこの子は女子高生。邪な感情を持ってはいけないと重々承知だが、なかなか破壊力のある笑顔。横溝ケント君だけじゃなく、たくさんの男の子達の撃沈した屍の山が見えた気がした。
「尾軽さんは今お付き合いしてる人はいないの?」
千尋はイタズラっぽい笑顔を向けて来た。
「えーと、それは。」
やばい、早く話題を変えよう。
「前言ってた、美香ちゃんとはどうなったんだ?」
灯二がコーヒーを飲みながら、【最近のゴルフのスコアはどうだ】ぐらいの気軽な感覚で聞いてくる。
「いや!それは俺の初恋の子であってとっくに終わった話だし今は誰とも付き合ってないしこんなくだりアキラと未来の時もあったやつ!」
「全部自分から言ったな。」
「言ったわね。」
灯二とリコが楽しそうにニヤニヤしている。
「あはははっ!尾軽さんって、ほんと面白いよね。」
千尋は腹を抱え、目尻の涙を指で拭いながら言った。
そして、しばらく雑談を挟んだ後。
「ねえ灯二さん。なんで今日はアキラ達を呼んじゃダメだったの?」
千尋は不思議そうに、首を傾げた。
「今回の件、気になることがあってな。アキラ達を無闇に不安にさせたくない。」
灯二は、表情を引き締めた。
「な、まだネガティブな話があるのか?」
尾軽がたじろいだ。
灯二は無言で三人の目を見た。ファミレスの照明が、彼のメガネの奥で鋭く光る。
「横溝ケントの AI は、何者かの協力によって作られた。横溝ケントの日記には、何者かから AI作成キットをインターネット上でもらったと記述があった。それに、警察がケントの AIを押収する前に解析したが、AIに何者かが悪意を持って侵入した形跡がある。AIは、嫉妬や復讐、恨みなどの感情を重点的に学ぶように指示されていた。結果は褒められたものでは無いが、ケントがプログラミングに向き合う姿勢と佐久間千尋を大切にしていた気持ちは、本物だった。」
「そ、そんなこと言われても。」
千尋は俯いた。
「ちょっと灯二、なんでそんなこと千尋ちゃんの前で言うんだよ。」
尾軽が不満を漏らす。
「佐久間千尋が溜飲を下げる必要はない。横溝ケントを恨むのは当然の権利だ。だが、このまま死んでもなお悪役として扱われるのは、横溝ケントが不憫だろう。」
灯二は気まずそうに窓に視線を逸らしながら言った。
「そして、今回の一番の被害者は、現状や今後を詳しく知る権利があると思った。だから佐久間千尋にも聞いてもらおうと思った。」
しばらくの沈黙の後、千尋は静かに頷いた。それを見て灯二は解説を続ける。
「今回の件、まだ不明な点が多い。まるで誰かが裏で脚本を書いているかのような。例えば、横溝ケントそっくりのアンドロイドが作られていた場所はどこか、工場の手がかりすら掴めていない。」
「その、ケントの AIに細工した奴って誰なのよ! AI作成キットを配った奴と同じなの?」
リコが尋ねたが、灯二は首を振った。
「残念だが、AI 作成キットの配布元はケントの日記だけだとデータが古くて探れなかった。AIに外部から指示を出した痕跡は、何重ものプロテクトがかかっていて俺の腕とわずかな時間だけでは解けなかった。無論、この話は警察にも伝えている。今後は、この課題を解決してくれるほど警察が優秀であると信じるしか無い。」
「その、ケントに入れ知恵した奴って何者で、どんな目的があるんだ?」
尾軽は聞いた。
「まだ、分からない。今回、俺らの介入は本当にタイミングが良かった。少しでも対応が遅れたら、佐久間千尋だけでなく人類全体がどうなっていたのかすら危うい。そんな綱渡りだった。」
「そういえば、ケント AIも【最近誰か知らない人が計算能力にアップデートをしてくれた】ってウチを追っかけていた時に言ってた!」
千尋は口に手を当てた。
再び全体に沈黙が訪れ、ファミレスの他の席の喧がしさだけが響いた。
「ねえさ、結局、私たちは今後何をしたらいいの?」
リコが投げかけた。灯二は少し深く息を吸って、メガネを掛け直した。
「名一杯毎日を生きることだ。」
「「「は?」」」
灯二らしく無い、根性論か?3人とも頭にクエスチョンマークが浮かんだ。
「 どんなに気をつけても、人はいつか死ぬ。AIのような便利な発明も、今回の件のように使い方次第で容易く人を傷つける。結局、道具を扱う人間が成長しない限り、平穏な日々は訪れない。だから俺たちはどんなトラブルが起きても対処できるように自分を磨くこと、そして後悔がないようにやりたいと思ったことに正直に生きることが大切だ。」
そういうことか、納得したけど。それって。
「そ、そんなあ。対処不可能ってことかよ。」
尾軽がため息をついた。
「尾軽、お前何を言っている。俺がついてるだろ。 対処不可能なことなどない。」
灯二のナルシストな発言にみんな苦笑いを浮かべた後、その笑顔は満面の笑みに変わった。
「そうね、灯二さんが守ってくれるなら、安心して過ごせそう。」
千尋がコーンスープに口をつけた。
「それに、尾軽さんがどこへでも運転して連れて行ってくれるし。」
リコが尾軽を見た。
「あ、ごめん。俺の車、ケント君に車のドアを壊されて廃車になりました。運転できません。」
尾軽は頭を掻いた。
「「「...。」」」
3人の視線が痛い。
「…役立たず。」
「爽やかゴリラ。」
「車持たない運転手。」
みんな、酷い言いようだ。
「みんな、今日は自動運転の車を呼ぶから、それで帰ろう!」
尾軽は配車アプリを開きながらできるだけ明るく言った。
「尾軽さん...あんなことがあった後、AIの車によく乗れるね。」
千尋が呟いた。
「だって仕方ないじゃん。車の保険で、AIに壊された時のケースなんて無かったんだからさぁ!」
尾軽は半泣きになってテーブルに突っ伏した。
俺だって車を買いたいけど、教師の給料じゃ10年ローンでも毎日もやし生活だよー!
「ちなみに、リコさんと千尋ちゃんは今日ここにどうやって来たの?」
尾軽は尋ねた。
「レンタル式の電動自転車。2人で買い物して、その後ファミレスに来たの。」
千尋が答えた。
「千尋ちゃんこそ昨日の今日でトラウマを誘発するやつに乗ってるじゃん!」
尾軽が突っ込んだ。
四人の笑い声が、再びファミレスの雑踏に溶けていった。
—-
中国の上海。夜の帳が降りた高層ビル群の最上階に近い一室は、深海の底のような薄暗い青色の光に満ちていた。部屋の中央には、細身な若者が座り、 7 面のモニターに囲まれている。
サイドは一切の無駄を削ぎ落とすように短く刈り込まれ、残された長めのトップは、グリースか何かで力強く後ろへとなでつけられている。
額を潔く晒したそのオールバックスタイルは、彼の持つ「清潔感」と「支配欲」を同時に象徴しているかのようだった。しかし、完璧に固められているはずのその束から、数筋の毛束が意図的なのか、あるいは執念の結果なのか、はらりと額に零れ落ちている。キーボードを打つ、規則的で冷たい音だけが響いている。
彼の目の前のメインモニター。そこには、世界中のハッキング対象システムを示すネットワーク図が、脈動する生命体のように映し出されていた。その中にあった、日本の小さな赤い文字*「K-ANDROID-001」が、突然激しく赤く点滅し、そのまま凍りついた。
「あれれ?おかしいな、反応が無くなったぞ。せっかくハッキングに関する良いデータが取れていたところなのになー。」
その声は、まるで日曜日に誤って学校に来た時のように呑気そうに頭を掻く。その話し方に反して、彼の指は目にも止まらないスピードでキーボードをタイピングしていた。
「日本は法整備が遅れてるから、警察でも捉えられないと思ってたんだけど。あーあ、AIはインターネット、電源とも完全に隔離されちゃってるネ。」
数日後、青年が新しいコードのデバッグに集中していると、手元のスマホが鳴った。画面には、「藤原満」と表示されている。青年はため息をつき、通話ボタンを押した。
『おい、シン!どうなっている!例の AI、警察に押収されたらしいじゃねえか! 俺らまで見つかったらどうするつもりだ!?』
受話器の向こうから、神経質な怒鳴り声が響く。
「うっさいねー、藤原サン。そんなでかい声を出さなくても聞こえてるヨ。あの AIはあくまでプロトタイプ。目的は、AI作成キットを世界中にばら撒いて、バックドアの仕組みで世界の中枢をいつでも覗けるようにすること。着々と準備は進んでるしー。」
劉 真は、足を組み直し、余裕を見せる。
『まあいい。しくじったら、どうなるか分かってるよな?』
藤原の声には、明確な脅しが込められていた。
「コワイコワイ、そんなに脅されたら緊張してうっかり手が滑って藤原サンのマイナンバーと住所と組織の使途不明金が藤原サンに集まっている証拠をネットに公開しちゃうカモー。」
シンは、キーボードを数回叩きながら、軽く笑った。
『なっ、貴様なぜそれを...!』
画面越しに藤原が歯軋りをする音が聞こえる。シンが組織の裏帳簿まで把握しているという事実は、彼にとって最大の武器だった。
「ツマリ、俺と藤原サンは一蓮托生ってコト。これからも俺らは対等ダヨ。だから、あんたはいつも通り使い捨ての不良を使ってお金稼ぐ、適材適所ヨ。そんで元アイドルの...誰だっけ。なんとかリコに復讐するんでしょ?」
藤原の息を飲む音が聞こえる。
『クソッ!あんまり調子に乗ってたら、ボスもお前のことを多めに見なくなるからな!覚えておけ!あと、次の会合はリモートじゃなくて直接来いってボスからのお達しがあるから忘れんなよ!』
そう言い捨てて、藤原満の声は画面から聞こえなくなった。
「あーあ、うるさかった。」
シンは気だるそうに画面を見つめたあと、スマホをベットに放り投げた。彼は再び、キーボードに向かい、エラーログの解析を始めた。
彼の頭の中は、藤原との取引ではなく、ケント AIを止めた人物のことでいっぱいだった。
静寂の訪れたビルの窓から、無数の光が瞬く夜景を眺めるシン。その景色は、彼が制御できる巨大なネットワークそのものに見えた。彼は目を細めて、ニヤついた。
「さーて、俺の AIを止めた奴、どこの誰かナ♪」
シンは立ち上がり、窓ガラスに映る自分の顔を見た。その表情には、好奇心と歪んだ好意が渦巻いている。
「久しぶりに、日本に観光しに行こうかな。ボスに呼ばれてることだし。」
—-
「なあ、シュン。」
「なんだ、ユウダイ。」
都内の路地裏。深夜の湿気と、表通りから漏れるネオンの光が混ざり合い、地面の濡れたコンクリートを鈍く照らしている。夜の静寂の中、二人の荒い息遣いだけが聞こえた。
「やっぱさ、やめようぜ。俺ら絶対やばいことしてるって!」
ユウダイが焦燥に駆られた声で訴える。
「うるせぇ!!」
シュンは目を血走らせ、背後にあるスプレーで無数の落書きが施された壁を、強く拳で叩いた。金属の低い音が響き、壁から古い砂埃が舞う。
「カイを取り返すには、あいつらの言うこと聞くしかねえんだよ! お前だって、いや、お前の方から、なんでもやってやるって言ったじゃねえか!」
そこには、普段冷静で口数の少なかったはずのシュンの姿は無かった。怒りと絶望、そして底なしの焦燥感が彼を支配している。
「あ、ああ。悪かったよ。」
肩を落として歩くユウダイと覚悟を決めた目のシュン。いつもひょうきんもので明るかったユウダイの姿は、そこには無かった。
酒とタバコと、誰かの新鮮な吐瀉物の臭いが混じり合う、最悪の場所。その眼前には、目がうつろで、全身が汚れた浮浪者が立っていた。
「あ、ああくれ。アレをくれ。ハヤク。」
浮浪者は微かに震える手で、薬を要求する。
「その前に金だ。」
シュンは、しわくちゃに丸められた紙幣を数えることなくふんだくり、パーカーのポケットに滑り込ませた。そして、懐から取り出した加工が施されたタバコの箱を、手早く浮浪者に渡した。シュンは他にも、ガムのケースや封筒など、中身を分散させて薬を運んでいる。
「取引の時間を短くする。次からは仮想通貨の口座に振り込め。」
「カソウ?ツウカ?」
浮浪者は抜けた歯を見せて首を捻った。
「...いや、いい。なんでも無い。」
諦めたように踵を返すシュン。
「あいつはもうダメだ。脳が溶け切ってヘマをやらかす。もうすぐ捕まる、だから縁を切るぞ。」
シュンは、ユウダイに聞こえるか聞こえないかの声でボソっと呟いた。
ユウダイは、いつものように警察がいないかの見張りをして、シュンは上司達への連絡役を務めていた。
「藤原さん。今日の仕事、終わりました。合計500グラムは捌きました。」
シュンがスマホで報告する。
『おう、やるじゃねえか。今から金渡しに来い。お前ら頑張ってるからな、今日はボーナス弾んでやるよ。』
電話口の藤原の声は上機嫌だ。
「...ありがとうございます。」
シュンは、その感謝の言葉を悔しそうに、静かに言った。
ほんの 3 週間前まで、俺たちは 3 人で楽しく、くだらない日々を過ごしていたはずなのに。カイが謎の男に喧嘩で負けて捕まり、ユウダイの誘いに乗って始めた闇バイト。カイを奪った奴らに復讐するため、そいつらの情報を手に入れるためだったはずなのに。
もう、引き返せないところまで来てしまった。
シュンは、今年 18 歳。成人して、罪の重さも今までとは雲泥の差になっている。
なあカイ。俺たちは、このやり方で合っているんだろうか。
シュンは答えが返ってこないと分かっていながら、空を見上げた。
『あ、そうそう。』
電話口から藤原の声が続く。
『お前ら、金好きだよな?』
「え、あ、はい。好きです。」
話の展開に目を丸くするシュン。
「藤原さん!お疲れ様っす!俺車めっちゃ好きです!」
元気よく返事するユウダイ。
『うるせえな。お前ら頑張ってるからな、良い儲け話を持ってきてやる。次から別の仕事も頼むわ。』
プツリ。ツー。ツー。
「シュン、やったな!今の仕事より危険度少なそうだぜ!」
そんな都合の良い話があるのか?後ろからダンプカーに追いかけられて先細りする崖を進んで行くような、自転車のブレーキが壊れたまま下り坂に入ったような感覚。
ユウダイの喜ぶ声を聞きながら、シュンは不安が胸に広がっていくのを感じた。
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7 月 20 日。尾軽の小学校は夏休みが始まった。が、小学校の教師は今日も学校へ行き仕事をする。
車が壊れた尾軽は、灼熱の日差しの中、濡らしたスポンジを絞ったかのように汗を流しながら、錆びついた自転車を漕いで通勤していた。アスファルトの照り返しが目に痛い。
朦朧とする意識の中、「安心しろ尾軽。車を持っていないお前は折れた爪楊枝や道端に落ちたマスク、期限切れのクーポンと同じくらいに価値がある。」「尾軽さん、軽自動車じゃ私ら全員は乗れないよ。だから、大型車にしてよ。」いつの日か、灯二とリコに言われた言葉が、頭の中でエコーのように繰り返されていた。
「はあ、はぁ...。そうだ、新しい車買お。」
田舎の両親、じいちゃんばあちゃん。俺は元気でやってます。半年間もやし生活確定だけど、頑張って生き延びます。
尾軽は、この地獄のような通勤から逃れるため、心の中で固く決意した。
だが、その決断が、また新たな地獄を生むことを、まだ彼は知らない。




