こっくりさん④
——
17:30。
雨粒が窓ガラスを絶え間なく叩く夕暮れの校舎に、三人分の足音だけが響いていた。授業を終えてから時間が経っているため、廊下には人の気配がない。蛍光灯の白い光が一定の間隔で床を照らしているが、その明るささえ、雨雲に覆われた外の景色のせいか妙に頼りなく感じられた。
「儀式に使う紙はどうする?僕が書こうか?」
「必要ない。職員室に複合機があるだろ。尾軽の職員用パソコンでネットから適当な画像を調べて印刷してくれ」
「ほんとは仕事と関係ないことに使っちゃいけないんだけどな」
「関係あるだろ。生徒の危機だ。それとも職員ではない俺が代わりに職員室で作業した方がいいか?」
「あー、分かった分かった。ややこしくなるから絶対灯二は職員室に入っちゃダメだよ」
なんだよ尾軽のやつ、本気にして。ほんの冗談じゃないか。
尾軽は観念したように肩をすくめ、職員室へ走っていった。
ほどなくして、複合機が作動する音が廊下から聞こえてきた。
五年二組の教室に入ると、輝は迷うことなく教室中央の机へ向かった。
「ここだよ。二週間前もここでやった」
そう言って、輝は椅子を引いて腰を下ろす。そこは普段から輝が使っている席だった。二週間前、こっくりさんを呼び出した場所でもある。
俺は輝を横目に見ながら、教室の中を歩き始めた。
まず黒板を見る。高い位置には白いチョークの粉がところどころ残っていた。下の方は綺麗に消されているが、上部には手が届かなかったのか、文字の断片が薄く浮かんでいる。
小学生が使う教室らしい。
机と椅子は三十人分ほど。壁に貼られた掲示物や名簿を見る限り、この学校は一学年三クラス。六学年合わせれば、およそ五百五十人程度の規模か。
視線を窓へ移す。
窓ガラスの一枚だけ、他とは明らかに透明度が違った。枠も新しい。
二週間前に割れたという話があったな。こっくりさんをやった直後に何かが起きたのか、それとも単なる事故か。現時点では判断できない。
教室の後ろへ回る。
ロッカーの上には、生徒たちが書いた習字が並べられていた。どれも半紙の中央に大きく二文字が踊っている。
「成長」「友情」「努力」……。
その中に、妙に力強い字があった。
「成長」。
筆の勢いだけは一人前だ。だが、左右の大きさも高さも見事なまでに揃っていない。右側の文字が少し下がり、全体的に紙の中央から微妙にずれている。
佐久間輝の名前が隅に書かれていた。
ふふっ。
いかにもこいつらしい。
上手いとは言えない。だが、字から「成長してやる」という意思だけは嫌というほど伝わってくる。
その隣には、三条美央の作品があった。
こちらは対照的だった。
筆圧も安定していて、文字の大きさもほぼ均等。余白の取り方まで整っている。いかにも優等生らしい作品だ。
本人の性格まで文字に出るものなのだな。
「ロンパにい、何フラフラしてるの?」
背後から輝の声が飛んできた。
俺は足を止めて振り返った。さっきから教室の中を歩き回りながら、黒板や窓、ロッカー、机の配置を一通り確認していたところだった。
夕方の教室は静かだった。窓の外では雨が降り続き、ガラスを叩く雨音が一定のリズムで響いている。輝にとって生徒のいない教室は、昼間とはまるで別の場所のように感じられるだろう。
輝は自分の机の前に座り、ランドセルから筆箱を取り出していた。
黒の無地。
布製のファスナータイプ。
俺は少し意外に思った。
こいつの性格からして、もっと子どもっぽい物を使っていると思っていた。黒い竜や剣がプリントされた、マグネット式の蓋が付いた硬い箱型の筆箱でも使っていそうなものだ。
ところが、実際には妙にシンプルで大人びたデザインだった。
「……意外だな」
「何が?」
「いや、なんでもない」
輝は気にした様子もなく、筆箱のファスナーを開け、中身を整理している。
鉛筆、消しゴム、マジックペン。
中身は普通の小学生の筆箱だ。
そのとき、俺の目がファスナーの端に付いたものを捉えた。
「……!」
小さなキーホルダーだった。
デフォルメされた白い狐。
丸い身体に三角形の耳。首には赤い紐が巻かれ、その先には小さな鈴が付いている。
「輝、そのキーホルダーはなんだ?」
「ああ、これ?」
輝は筆箱を持ち上げ、狐のキーホルダーを指でつまんだ。
ぷらぷらと揺れた狐の首元で、鈴が小さく鳴る。
チリン。
雨音の中で、その音だけが妙に鮮明に聞こえた。
「ゴールデンウィーク明けに美央がくれたんだ。京都に旅行に行ったとかで、お土産だって」
「京都……。しかも、ほんの1ヶ月前だと?」
俺は狐のキーホルダーを見つめた。
「なんで狐なんだ?」
「美央、動物好きなんだよ。今回のことが起こるまでは、狐可愛いってよく言ってたし」
輝はそう言ってから、少し寂しそうに目を伏せた。
「今は……狐を見るだけでも怖いみたいだけど」
俺は黙って狐を見た。
京都。
狐。
こっくりさん。
まだ何とも言えない。
狐など珍しいものではない。京都ならなおさらだ。土産物として売られていたとしても不思議ではない。
だが、美央は以前、狐を可愛いと思っていた。
「美央は京都で、何か狐に関係するものを見たのか?」
「え?そんなの知らないよ。わざわざ聞いてない」
「そうだよな。いや、なんでもない」
まだ情報が足りない。
この程度の材料で結論を出すのは早すぎる。
俺は頭の片隅に疑問だけを残し、それ以上は考えないことにした。
輝はそんな俺の思考など知る由もなく、筆箱を机の上に横向きに置いた。
「ねぇロンパにい、そろそろ美央と電話するよ」
「ああ」
輝はスマートフォンを取り出し、筆箱の上に立てかけた。
即席のスマホスタンドらしい。
鉛筆や消しゴム、マジックペンが詰め込まれているせいか、布製の筆箱は見た目以上にずっしりしている。スマートフォンを載せても倒れることなく、しっかりと画面を支えた。
輝が画面を操作する。
やがて、美央の名前が表示された。
呼び出し音が静かな教室に響く。
俺はもう一度、机の上の狐を見た。
小さな白い狐が、筆箱の端で揺れている。
チリン。
鈴がもう一度鳴った。
俺は眉をわずかに寄せた。
だが、それだけだ。
俺には霊感などない。
見えないものを見えたことにして推理するほど、俺はオカルトを信用していない。
輝が画面をタップする。
ビデオ通話が繋がった。
数秒後、画面に美央の顔が映る。表情は以前より少し落ち着いているものの、まだ緊張が抜けていない。
『あれ、尾軽先生は?』
「今、職員室でこっくりさんの五十音表をコピーしてるよ」
『そっか、書くの大変だもんね』
「前回はどうやって紙を用意したんだ?」
「えー、サクラが用意してたからそれ使ったよ」
「サクラ?」
『桜ちゃんは、私たちのクラスメイトです。その子と真司くんと一緒に、四人でこっくりさんをしました』
「ふぅん。輝と、そのクラスメイト二人はその後体調不良はないのか?」
「俺はめっちゃ元気!」
「だろうな、見ればわかる。ちょっとは美央に取り憑いたこっくりさんを分けてもらったらどうだ。」
「….」
『….』
二人とも俯いて黙ってしまった。
しまったな、さすがに不謹慎だったか。ほんの冗談のつもりだったが。俺は尾軽のように子どもの扱いが上手くない。あいつ、何をモタモタしている。
「他の二人は…学校には来てるけど落ち込んでるでるよ。特にシンジは美央をこっくりさんに誘ったんだし。俺だって…」
『ごめん、輝。私がこっくりさんが見えるとか変なこと言うから。みんな頑張って学校行ってるのに、私だけズル休みして…』
「ズル休みなんかじゃないよ!こっくりさんのせいだ!ロンパにい、どうやってやっつけるんだよ!」
「それは…」
俺が喋ろうとした、その直後だった。
ガラガラッ。
教室の扉が勢いよく開いた。
「お待たせ! これでいい?」
尾軽が息を切らしながら入ってくる。手にはA3サイズのコピー用紙が数枚握られていた。
「遅いぞ」
「いや、職員室からここまでダッシュしてきたんだって。しかも途中で教頭に捕まって…いや、ごめんなんでもないよ。」
俺は印刷された紙を指先で持ち上げ、表面を確認する。
問題ない。
尾軽は紙を机に置いた。
俺はその一枚を手に取った。
五十音が整然と並び、その下には「はい」と「いいえ」。中央には十円玉を置くための空白が設けられている。
「これでいい」
『ねぇ、どうして、灯二さんの家でこっくりさんをやらなかったの?』
スマートフォンから美央の声が響いた。
画面の中で、彼女は不安そうに唇を噛んでいる。
俺は腕を組み、天井を見上げた。
「できるだけ二週間前と同じ状況にしないと、こっくりさんが現れないかもしれないだろ」
『……え?』
「仮に俺の家でこっくりさんが現れて退治できたとして、美央は納得できるか? 初対面の知らない男の家で『こっくりさんを倒したから安心して』と言われて、素直に頷けるか?」
『それは……』
美央は言葉を詰まらせた。
「インチキ催眠術師でも、もう少し知恵を絞るだろ」
尾軽が苦笑する。
「だからここに来た。場所も人数も道具も、可能な限り二週間前の状況を再現する必要がある。そうでなければ、こっくりさんを否定することも、証明することもできない」
俺は教室を見回した。
雨音。
薄暗い教室。
生徒の机。
そして、二週間前と同じ場所。
「……さあ、準備は整った」
俺は十円玉を取り出し、机の中央に置いた。
「狐退治といこうじゃないか」
17:20。
三人で机を囲んだ。
紙の中央に十円玉が置かれている。俺と尾軽と輝が、それぞれ硬貨の上に指先を添える。
美央はスマートフォンの画面越しに、その様子を見守っていた。
画面の向こうの彼女は、明らかに怯えている。
「……まさか、こんな子ども騙しを大人になってからやるとはな」
俺はそう呟きながら、自分の指先を確認した。
三人とも、まだ動かしていない。
尾軽が小さく息を呑んだ。
輝も唾を飲み込む。
「いくぞ」
三人で声を合わせた。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください」
一瞬。
何も起こらなかった。
聞こえるのは、窓を叩く雨音だけ。
ザー……。
次の瞬間、窓の隙間から風が吹き込んだ。
ガタガタガタッ。
窓ガラスが震え、カーテンが大きく膨らむ。
教室の空気が、ほんの少しだけ冷たくなった。
輝の肩が跳ねる。
尾軽も息を止めた。
俺は動かない。
十円玉だけを見つめる。
そして――。
じり。
硬貨が動いた。
三人の指先を引きずるように、十円玉がゆっくりと紙の上を滑っていく。
誰も押していない。
少なくとも、俺にはそう感じられた。
十円玉は迷うように一度だけ揺れ、それからゆっくりと進んでいく。
そして――。
「はい」の文字の上で、ぴたりと止まった。
「……動いた。あの日みたいに。先生、ロンパにい、動かした?」
輝の声は震えている。二週間前の恐怖を思い出しているのだろうか。自分で呼んでおいて今更怖気付いたか、と聞くのは流石に悪趣味か。からかうのは後の楽しみにとっておこう。
「いや、指は添えてるだけだよ」
尾軽は顔を青ざめさせている。にわかには信じがたい、といったところか。まあ、教師の立場として散々子どもたちにオカルトを信じるなと言っていた手前、目の前の状況を受け入れられないのも無理はない。
「なにも」
かく言う俺も同じだ。これは、一体何が起こっている? もう少し情報が必要だな。
「手始めに適当な質問をするか。佐久間輝は、最近算数の小テストで四十点を取った」
先程こっくりさんを始める前、輝の机の中にあったものを見た。おそらく、あの紙は俺の家で輝が話していたテストだろう。
十円玉が、再び動いた。
そして、迷うことなく「はい」へ移動した。
『えっ……!?』
美央がスマホ越しに声を上げ、輝は見る見るうちに顔を真っ赤にする。
「な、なんでそんなことを、こっくりさんに聞くんだよぉ!」
「おや。さっき俺の家で自信満々に言っていたじゃないか。前まで三十点だったのに成長した、と」
『ねえ輝。この前の小テスト、電話しながら一緒に勉強したところよね。すごく高い点を取ったって言ってたけど、もしかしてこれのこと?』
美央の声が、少しだけ冷たくなる。
「う、うう……美央には内緒にしてたのに」
「ごめんな美央。俺の教え方が下手なんだ。輝はこれからどんどん伸びるさ」
尾軽は申し訳なさそうに肩を落とした。
『いいえ、尾軽先生。私が甘やかすからいけないんです。とりあえず輝のママに報告しておきます』
「えぇー! やめてよぉ! お菓子三日禁止になっちゃう!」
「あんなに良かった威勢はどうした」
「灯二、お前ほんと子どもだなあ」
尾軽は困ったように笑いながら、十円玉を支えている右手とは逆の左手で輝の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「前より点数が伸びたんだ。それに輝は明るくて優しくて元気で、点数じゃ測れない良いものをたくさん持っている。それが大事だと思わないか?」
『クスッ。そうね、私もそう思います』
「尾軽先生、好き!」
「おいおい、茶番はいいが手を十円玉から離すなよ」
結局、二人して輝を甘やかしているじゃないか。今まさに正体不明の怪物と相対しているというのに、さっきまでと違って、とても緊張感がない。毒気が抜けるというか、それが輝の良いところなのだろう。
俺は尾軽と輝を交互に見た。
成果だけを求めた俺が持っていないものを、俺が欲しくて仕方ないものをこいつらは持っている。
「何笑ってんだ、灯二」
「フッ。何でもない。質問を続ける」
俺は十円玉に視線を戻した。
「お前の名前は?」
すると、俺たちの指が触れている十円玉が、一文字ずつ五十音の上を滑り始めた。
こ、つ、く、り、さ、ん。
【こっくりさん】
「ここはどこだ?」
十円玉が再び動く。
み、ど、り、が、お、か、しょ、う、が、っ、こ、う。
【みどりがおかしょうがっこう】
「今日は何月何日だ?」
ろ、く、が、つ、み、っ、か。
【ろくがつみっか】
輝の小さな指が、かすかに震えている。
「なんで、分かるんだよ……」
「と、灯二」
尾軽の顔も引き攣っている。
「落ち着け。さっきまでの質問は小手調べだ。俺たち三人が知っていることだ。誰かが動かした可能性を排除できない」
本当に問題なのは、俺たち三人が知らないことを答えられるかどうかだ。
「尾軽の高校時代好きだった子の名前は?」
「ぶっ!!」
尾軽は椅子を鳴らして立ち上がりかけた。
「おい、尾軽。立ち上がって硬貨から指が離れたらどうする。まあ座れ」
俺は左手を見せて静止を促した。
「な、なんでそれを今言う必要がある!」
十円玉がゆっくりと動く。
み、か。
【みか】
『へぇー。先生の好きな人は、みかさんって言うんだ。付き合ってるの?』
美央が画面越しに目を輝かせる。
尾軽は気まずそうに視線を逸らした。
十円玉が「いいえ」へ移動する。
『あ、付き合ってないんだ』
「先生って、現在彼女募集中じゃなかったっけ?」
輝が尋ねると、十円玉は今度は「はい」へ移動した。
美央と輝が顔を見合わせ、クスクスと笑う。
「灯二、覚えとけよ」
「なんの話だ? こっくりさんが勝手に答えを教えてくれただけだろ」
輝が知らない答えを知っている。少なくとも輝はシロだ。
当然、俺も指を動かしていない。消去法なら、尾軽がこっくりさんのフリをしていることになるが……そもそも尾軽がいない時にこっくりさんをして、美央は何かを見た。
俺は何か前提を間違っているのか?
「俺が今朝、食べたものは?」
五秒ほどの沈黙。
十円玉は動かない。
【あさごはんはたべていない】
「ほう。当たっている」
「ロンパにい、ひっかけ問題かよ!」
「灯二、ちゃんとご飯食べなきゃダメだよ」
「俺はプチ断食をしている。昼と夜だけ食べて空腹時間を伸ばすことで集中力と代謝を上げているんだ。お前の不健康なコンビニ飯生活と一緒にするな」
「またロンパにいの言ってること分からない」
「な、なんで僕がコンビニ飯ばかりって決めつけてるんだ!」
「お前、料理はからきしだっただろう。飯を作ってくれる彼女でも作れ。こっくりさんに誰がおすすめか聞いてみるか? そう言えば、みかは毎日自分で弁当を作っていたな」
「ぐぬぬぬぬ……!それができたら苦労しないんだって!」
「高三の時を思い出せ。体育祭で、重箱に手料理をたらふく詰めたみかが一緒に食べようと誘ってくれたことを忘れたか?」
「忘れるわけないだろう!あの卵焼き、最高に美味しかったなぁ。死ぬまでにもう一回食べたい…!」
尾軽は顔を真っ赤にしたかと思えば、手料理の味でも思い出したのか幸せそうな表情になり、次の瞬間には落ち込んだ。
騒がしいやつだ。揶揄い甲斐があるというものだ。
「なんで尾軽先生は嬉しそうと悲しそうがいっぱいなの?」
「輝、これが大人になるということだ」
尾軽は遠い目をしている。目尻には失恋の涙がほんの少し浮かんでいるようにも見えた。
まあ、後で話を聞いてやる。数多の女子から告白されたのに全て断って、みかに「おはよう」しか言えなかった一途なヘタレ男よ。
尾軽には言えないが、あの後俺はみかに告白され、そして断った。みかは俺に手料理を食べてもらう口実でいつも一緒にいる尾軽にも昼ごはんを誘ったらしい。
「その手料理、毎日尾軽に食わせてやったらどうだ。あいつはとても喜ぶぞ。それに裏表のない良いやつだ。」
「なにそれ…だったら灯二くんが尾軽くんと付き合えばいいじゃない!」
平手打ちを喰らい、みかやその取り巻きから総スカンを食らったわけだが……まあそこまで話す必要はないだろう。
「さて、そろそろ問題の難易度を上げようか」
俺は十円玉を見つめた。
「フィボナッチ数列の五番目の値を答えろ」
「ロンパにい、なにそれ?」
「ぼ、僕も分かんないや」
十円玉は動かない。
【……】
「ゼロから数える場合は三、一から数え始める場合の答えは五だ」
輝と尾軽が顔を見合わせる。
「一億九千九百九十九万九千九百九十七は素数か?」
今度も十円玉は動かない。
【……】
「答えは、素数ではない。例えば十九で割り切れる」
「いや、もう何言ってるか全然分かんない」
「十進数の173を二進数で表せ」
【……】
「答えは10101101だ」
輝は完全に置いていかれている。
「ねえロンパにい、それって何の問題なの?」
「簡単に言えば、コンピューターが数字をどう表しているかという話だ」
「ふーん……?」
「今は分からなくていい」
そして、俺は最後の問題を口にした。
「熱力学第二法則を一言で説明しろ」
十円玉が、ぴくりと動いた。
あ、つ、い。
【あつい】
「全然違う。熱という言葉を聞いて推測したか?考えが浅過ぎるな。浅すぎてむしろ陸だ」
俺は思わずため息をついた。
「端的に言うと、熱やエネルギーは放置すると勝手に一方向へ広がり、自然に元へ戻ることはない。専門用語でエントロピーと呼ぶ。例えばコーヒーにミルクを入れた後、ミルクは時間経過とともに拡散していく。ミルクだけを取り出すことができないのと同じだ」
『す、すごい……』
「全然分かんない。つまり、これってどういうこと?」
輝が首を傾げる。
「なんでも教えてくれるこっくりさんは、なんでも知ってるわけじゃないってことなのか?」
尾軽が俺の目を見た。
「そうだ。こっくりさん。こいつはあまり、頭が良くない」
【……】
みんなで五十音表を見つめた。
十円玉は、しばらく動かなかった。
十秒。
それ以上待っても、指先に伝わってくるような動きはない。輝は息を止めるようにして紙を見つめ、尾軽は何度も十円玉と俺たちの指を見比べている。スマートフォンの画面では、美央も固唾を呑んでこちらを見守っていた。
やがて――十円玉が、ほんのわずかに震えた。
「……動くぞ」
俺が呟いた直後、硬貨はゆっくりと滑り始めた。
【し】
「……し?」
輝が小さく声を漏らす。
十円玉は止まらない。そのまま隣の文字へ進み、ぴたりと止まった。
【ね】
「……」
誰も口を開かなかった。
五十音表の上に並んだ二つの文字を、俺たちはただ見つめていた。
【しね】
その瞬間だった。
肌にまとわりついていた空気が、唐突に冷えた。
「……!」
首筋を撫でるような冷気が走る。
温度計を見たわけではない。だが、明らかに先ほどまでとは違う。窓の外から吹き込んでくる普通の風とは違う、身体の内側まで染み込んでくるような冷たさだった。
まるで、教室そのものが別の場所にすり替わったような感覚。
「……なんだ、これ」
尾軽の声が震えた。
その直後――。
ガタガタガタンッ!
突然、窓が激しく揺れた。
「うわっ!」
猛烈な風が教室へ吹き込んできた。
教室後方の壁に貼られていた書道の半紙や学年だよりが一斉に大きくはためき、画鋲が弾けるように外れる。紙が何枚も宙へ舞い上がり、教室中を不規則に飛び回った。
当然、こんな時間に窓が開いているはずがない。
こっくりさんを始める前、俺自身が確認している。五年二組の窓は確かに閉まっていた。鍵もかかっていた。
だが――。
横目で窓を確認すると、五年二組の窓は全開になっていた。
「……」
俺は眉をひそめた。
風で鍵が外れた?
いや、それなら窓が開く方向がおかしい。しかも、さっきまで窓には一切動きがなかった。
そのとき、一枚の半紙が視界を横切った。
輝の習字だった。
力強く書かれた文字。
左右の大きさも高さも微妙に揃っていない。それでも、筆に込められた勢いだけは伝わってくる。
――成長。
半紙は空中で一度大きく翻り、そのまま床へ落ちた。
「ひっ……!」
輝が小さく悲鳴を上げ、反射的に身体を後ろへ引いた。
「ダメだ輝っ! 指を離すな!」
尾軽が叫ぶ。
「あ、ああ!」
輝は慌てて指を戻そうとした。
だが、椅子が大きく揺れた。
「うわっ!」
輝の身体が後方へ傾く。
まずい。
俺がそう判断するより早く、尾軽が左手を伸ばした。
「輝!」
尾軽は椅子から転げ落ちそうになった輝の身体を抱き留め、そのまま床へ倒れ込んだ。
バタン!
「ぐっ……!」
鈍い音が教室に響く。
俺はすぐに二人の様子を確認した。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……」
尾軽は輝を抱えたまま顔を上げた。だが、その顔には明らかな恐怖が浮かんでいる。
その瞬間、バチィと俺の指先に衝撃が走った。デコピン、いや輪ゴムを引っ張って放ったかのような鈍く鋭い痛みが、十円玉を固定していた人差し指に走った…ような気がした。
「…っ」
そして俺は机を見た。
「ろ、ロンパにい……」
輝は震えている。
『ふ、二人とも大丈夫!?』
スマートフォンの向こうから美央の声が響いた。
「大丈夫だ、美央。僕たちに怪我はないよ。それより、ご、ごめん灯二! 俺――」
「いい。気にするな。それより早く立て」
俺は五十音表を指差した。
「面白いものが見えるぞ」
「おもしろい……?」
尾軽が身体を起こし、俺の視線を追う。
「……うわっ!」
「わぷっ。先生、苦しい」
輝が悲鳴を上げる前に、尾軽がその顔を手で覆った。
「輝、見るな!」
「なんでだよ!?」
「いいから!」
同時に尾軽は身体をずらし、スマートフォンのカメラまで自分の背中で隠した。
「先生、何してるの?」
『何が起きてるの? 見えないよ!』
「美央も今は見ない方がいい!」
「尾軽、お前は過保護だな」
俺は冷静に呟いた。
俺もすでに十円玉から指を離している。
それなのに――。
十円玉は動いていた。
誰にも触れられていない。
五十音表の上を、ひとりでに滑っている。
【し】
【ね】
【し】
【ね】
まるで何かを訴えるように、同じ二文字の間を何度も往復していた。
シャッ。
シャッ。
シャッ。
紙の上を硬貨が擦れる音が、静まり返った教室に響く。
【しね】
【しね】
【しね】
【しね】
「……」
俺は十円玉を見つめた。
先ほどまでは、俺たちの指が触れていた。だから、誰かが無意識に動かしていた可能性を完全には否定できなかった。
だが今は違う。
俺たちは全員、十円玉から指を離している。
それでも硬貨は動いている。
しかも、風に押されているだけなら、これほど正確に同じ二文字を往復するはずがない。
そして、この強風吹き荒ぶ教室で半紙が舞う中、五十音が書かれた紙とその上の十円玉がピタリと机に一体化している。
「窓が開いていて、その風の影響……と考えるには、いささか不自然すぎるな」
自分の声が、妙に冷静に聞こえた。
正体が何なのかは分からない。
錯覚かもしれない。
何かのトリックなのか?
教室の天井を見上げたが何か操り糸のような物はない。というか、あったとして誰がそんな悪質で手の込んだイタズラをする?メリットがない。
あるいは――本当に、俺たちの理解できない何かがここにいるのかもしれない。
目に見えず、超常の力を操る存在。オカルトなんて信じちゃいないが、もし仮にいるとしたら、俺の専門外だ。倒し方なんてとてもじゃないが分からない。
だが、一つだけ分かった。
今までとは違う。
こいつは、俺たちの質問にただ答えているわけではない。
初めて、こちらに向かって感情を返してきた。
感情があり、対話できるのなら、まだ俺にもやれることはある。
俺は十円玉から目を離さず、口の端をわずかに上げた。
「やっと、お前の言葉を使ったな。こっくりさん」
その直後――。
ゴロゴロゴロッ!
校舎の外で雷鳴が轟いた。
窓ガラスがびりびりと震える。
数分前まで小雨だった空が、急に騒がしくなっていた。
俺は窓の外へ一瞬だけ視線を向け、それから再び十円玉を見る。
「ここからが本番ってことだな」




