こっくりさん②
「よし、輝。今から先生と一緒に、先生の友達に会いに行かないか?」
「友達……?」
「すごく頼りになるやつだ。美央を元気にできるかもしれない。」
その言葉を聞いた瞬間だった。
曇り切っていた輝の瞳に、ほんの少しだけ光が戻る。
「……本当に?」
「ああ。」
僕は力強く頷いた。
「先生も全部を説明できるわけじゃない。でも、あいつなら何か分かるかもしれない。」
輝は不安そうな表情のまま、小さく「うん」と返事をした。
——
雨はまだ降り続いていた。
僕の古い軽自動車は、濡れたアスファルトを静かに走る。
ワイパーが一定のリズムで左右へ揺れ、フロントガラスに打ち付ける雨粒を払い続けていた。
シャッ。
シャッ。
助手席の輝はシートベルトを握りしめたまま、窓の外をぼんやり眺めている。
さっきから一言も話さない。
きっと頭の中は、美央のことでいっぱいなんだろう。
僕は横目でその横顔を見て、小さくハンドルを叩いた。
「そんなに自分を責めなくて良い。」
輝は窓の外を向いたまま、小さく首を横に振る。
「……でも。」
それ以上、言葉は続かなかった。
僕も無理には聞かなかった。
灯二から送られてきた住所は、高校時代から一度も変わっていない。
東京都八王子市。尾軽の勤務する緑ヶ丘小学校から車で約20分。
駅前の喧騒から離れ、住宅街を抜け、さらに山道を少し登った先にある静かな高台。
そこが灯二の家だった。
いや、正確には。
灯二が師匠と暮らしている家だ。
高校時代、何度か遊びに来たことがある。
和風の大邸宅。
広い書斎。
武道場。
業務用かと思うほど大きなキッチン。
初めて来た時は、本気で時代劇の撮影所かと思った。
あの頃から住所は変わっていない。
灯二も。
あの人も。
元気にしているだろうか。
そんなことを考えると、自然と笑みが漏れた。
学生時代の灯二は、本当に変わったやつだった。
僕が野球部で毎日泥だらけになっている頃。
あいつは教室で文芸部の友達と小説の話をし、放課後になればロボット研究部で機械を分解していた。
学生のうちに会社を立ち上げたなんて噂も聞いた。
あれから三年以上。
あいつは今、どんな暮らしをしているんだろう。
「尾軽先生。」
助手席から声がした。
「その友達って……どんな人?変わった人?」
僕は思わず吹き出した。
「うん。」
苦笑いしながら頷く。
「かなり変わってる。」
「どれくらい?」
「高校生の頃、人間よりもロボットの方が嘘をつかない。ロボットの方がむしろ人間に向いているって真顔で言うくらい。」
「プッ、なにそれ全然意味分かんない!」
輝は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、僕も少し安心した。
—-
しばらく走ると、目的地へ到着した。
車を停め、二人で外へ出る。
雨は小降りになっていた。
輝が顔を上げる。
そして。
「……でっか。」
思わず口が開いた。
目の前に建っていたのは、“家”という言葉では片付けられない建物だった。
八王子の小高い丘の上。
広大な敷地を囲む黒塗りの板塀。
重厚な瓦屋根。
巨大な木製の門。
まるで江戸時代からそのまま残っていたような屋敷が、静かな森の中に堂々と佇んでいる。
「お、お屋敷じゃん……。」
輝は呆然と見上げた。
「時代劇とかで殿様が住んでそう……。」
「僕も初めて来た時、同じこと思ったよ。」
門も塀も純和風だ。
だが、よく目を凝らすと違和感がある。
梁の影に小型の監視カメラ。
軒下には人感センサー。
木目に溶け込むよう設置された赤外線センサー。
古びた錠前にしか見えない門の鍵も、中身は電子認証システムだ。
伝統建築と最新技術。
一見すると相反するものが、違和感なく共存している。
「ここが灯二の家。」
僕は門を見上げながら言った。
「正確には、一緒に暮らしている師匠の家だけどね。」
「秘密基地みたい……。」
輝がぽつりと呟く。
「ロボットとかいる?」
「いやぁ……。」
僕は頭をかいた。
「いない……とは言い切れないんだよな。」
「あ、いるんだ。」
「いや、僕も久しぶりだから分からない。あいつならほんとにロボットだらけの家に改造しかねないからね。」
学生時代に登録してもらった指紋認証へ指を置き、続いて顔認証を済ませる。
ピッ。
電子音が鳴った。
『その隣の子どもは?』
スピーカーから聞こえた声に、思わず笑ってしまう。
「久しぶり。」
『質問に答えろ。』
「相変わらずだな。」
僕は苦笑した。
「言っただろ。僕のクラスの子だ。相談っていうのは、この子が関係してる。」
数秒の沈黙。
『……家を荒らしたら叩き出す。』
「分かったよ。」
ガコン。
重い門が静かに開いた。
輝がごくりと唾を飲み込む。
「というわけで。」
僕は靴を脱ぎながら振り返る。
「失礼のないようにな。」
「はーい!」
元気よく返事をしたかと思えば、輝は無造作に靴を脱ぎ捨て好奇心のまま玄関の奥へ歩き始めた。
「お、おい! アキラ!」
もちろん聞こえていない。
玄関の先には長い廊下。
その向こうには雨に濡れた中庭が広がっている。
玄関の左手には武道場。
玄関からは見えないが中庭に隣接して和室や書斎もあるはず。
ロの字型に配置された部屋。
僕にとっては懐かしい景色だった。
「お邪魔しまーす!」
「だから待てって!」
その時だった。
玄関右手奥の部屋から、低く落ち着いた声が響く。
「おい。」
輝の足が止まる。
「そこで止まれ。」
まるで身体だけ時間が止まったように、輝は不自然な姿勢で固まった。最近輝とだるまさんが転んだをした時と同じポーズだ。
声の主は、本から視線を上げる。
露伴灯二。
黒縁のスクエア眼鏡の奥にある切れ長の瞳は、相変わらず感情が読めない。
さらりと流した黒髪。
深いネイビーのシャツを無造作に腕まくりし、黒のワイドスラックスを着崩す姿は、和風の屋敷なのに妙に様になっていた。
高校生の頃から整った顔立ちだったが、数年見ない間にその雰囲気はさらに洗練されていた。
韓国の俳優やアイドルのような端正な美貌。男の僕ですら、一瞬ドキッとしてしまうほどの。
人間離れした静かで儚く、だけど確かにそこにある存在感。
輝も何かを感じたのか、瞬きすら忘れたように灯二を見つめている。
灯二は読んでいた文庫本を静かに閉じた。
そして僕を見るなり、口元だけで笑う。
「相変わらず、バカみたいな筋肉してるな。」
「灯二。」
懐かしい声だった。
「尾軽。」
灯二は肩をすくめる。
「転職してベビーシッターにでもなったのか?まあ、こっくりさんに仕事のアドバイスを求めても役に立たんと思うがな。」
一拍置いて、淡々と言い放つ。
「なら助言してやる、お前には力仕事の方が向いているぞ。」
その皮肉を聞いた瞬間、僕は思わず苦笑した。
――ああ。この感じ、懐かしいな。
もっと早く会いにくれば良かった。尾軽は、込み上げてきた涙をグッと飲み込んだ。
ヴィーン。
廊下では掃除ロボットが静かに巡回し、部屋の隅では空気清浄機がほとんど音もなく稼働していた。
「灯二、お前ん家相変わらず病院みたいに空気がきれいだな。」
「本はホコリで痛むからな。」
灯二は素っ気なく答えた。
「あと、走るなよ。ホコリが舞う。」
「あの、勝手に入ってごめんなさい。」
輝は両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、不安そうに灯二を見上げた。
さっきまで屋敷の中を目を輝かせて歩き回っていた少年とは別人のように、おとなしく肩をすぼめている。
灯二はそんな輝を一瞥すると、湯気の立つ湯呑みを盆に載せたまま淡々と言った。
「転んで物が散らばったら迷惑だ。お子様は椅子に座れ。」
声は冷たい。
だが、その手つきは慣れたもので、僕と輝の前へ静かに緑茶を置いていく。
湯呑みから立ち上る爽やかな香りが、雨で冷えた身体に心地よかった。
僕は輝の耳元へ顔を寄せ、小声で囁く。
「灯二は口は悪いけど、根はいいやつだから安心しろ。」
「……うん。」
その一言だけで安心したのか、輝はぱっと表情を明るくした。
そして椅子から身を乗り出す。
「お兄さん、お名前は?」
灯二は緑茶を一口飲み、静かに湯呑みを置いた。
「露伴灯二だ。」
一拍置き、切れ長の目を輝へ向ける。
「今回は大目に見てやる。だが次から名前を聞く時は、まず自分から名乗れ。ガキ。」
「おいおい。」
僕は思わず苦笑する。
「灯二、ちょっと口が悪すぎるぞ。輝に悪影響が出る。」
灯二は僕を見もせず鼻で笑った。
「教育は教師の仕事だろ。」
「ロンハトージ!」
アキラが勢いよく手を挙げた。
「俺は佐久間アキラだぞ、ガキ!」
「ほらー、早速覚えた言葉を使いたがる。」
本人は満面の笑みで、椅子に座ったまま床に届かない足をぱたぱた揺らしている。ガキはクソガキ的な意味だと理解していなくて、灯二なりの挨拶とか輝は思ってるんじゃないか?
僕は吹き出しそうになるのを堪えた。
灯二は無表情のまま僕を見る。
「尾軽。」
「ん?」
「お前が勤めているのは幼稚園だったか?」
「いや、小学校。」
「そうかそうか。」
灯二は真顔で頷いた。
「尾軽も一緒に義務教育を受け直しているのか。」
「いやいや。」
僕は思わず笑ってしまう。
「僕、小学十八年生じゃないから。そんな大きなお友達ばかり受け入れてたら税金で国が潰れるよ。」
輝だけがきょとんとして首を傾げていた。
どうやら会話についていけていないらしい。
僕はスマホを取り出し、さっき灯二とやり取りした画面を開く。
「ほら。」
画面を輝へ向ける。画面上部にやりとりしている人のフルネームが表示される。
「この人の名前は露伴灯二。」
「ロハン……。」
輝は文字を指でなぞった。
「変な名前!」
灯二は即座に立ち上がる。
「無礼なガキは嫌いだな。帰るか?」
荷物を持つような仕草をしながら、淡々と言った。
「知ってるよ!」
輝は得意げに胸を張る。
「お兄さんみたいにおしゃべりが上手い人のこと、ロンパって言うんでしょ!」
両手を振り回しながら叫ぶ。
「だからロハンじゃない、ロンパ!ロンパ!」
「じゃあな、尾軽。今日は会えて楽しかった。次はベビーシッターの仕事を辞めてから来い。」
「待って灯二、ごめんって!話を聞いて欲しいんだ!」
僕は慌てて立ち上がる。
片手で灯二を制し、もう片方の手で輝の頭を撫でた。
当の本人である輝は、自分が何を言ったのかまったく分かっていない顔をしている。
灯二は立ち止まり、肩をすくめた。
「……ふん。」
少しだけ口元を緩める。
「冗談だ。この俺が子どもの言うことにいちいち目くじらを立てるわけがないだろう。」
そのまま冷蔵庫を開け、牛乳パックを取り出す。
新しいコップへ並々と注ぐと、一気に飲み干した。
ごく、ごく、ごく。
「ぷはっ。」
「いやめちゃくちゃストレス対策してるじゃん。」
僕は笑う。
「しかも牛乳って、ずいぶん古典的なやつ。」
「カルシウム不足は判断力を鈍らせる。」
灯二は真顔で答える。
「理にかなっている。」
アキラが目を輝かせた。
「わぁ、お兄さん、まだ大きくなるの!?俺も牛乳ちょうだい!」
「はいはい。」
灯二は呆れたようにもう一つコップを取り出した。
「輝、まずはお兄さんの名前を覚えような。」
輝は僕のスマホをじっと見つめる。
『露伴灯二』
何度も口の中で繰り返しながら首を傾げた。
真剣な顔で僕を見る。
「でもさ先生、『トージ』って呼んでたよね?」
「うん。」
「でも漢字の『二』ってカタカナの『ニ』と同じ読み方じゃん。先生間違ってるよ。」
僕は嫌な予感がした。
「だからお兄さんの名前は……。」
輝は自信満々に言い放つ。
「ロンパトーニ!」
僕は思わず片手で顔を覆った。
灯二は静かに肩をすくめる。
「そうだ。」
真顔のまま僕を指差す。
「間違っているのは全部尾軽だ。」
そして冷笑を浮かべた。
「子どもを連れてきたことを反省して帰れ。」
「理不尽すぎるだろ……。」
僕が肩を落とすと、灯二は緑茶をすすりながら続けた。
「尾軽。」
「ん?」
「お前、こっくりさんより先に、小学生の学力低下を解決した方がいいんじゃないのか。」
「うっ……。」
思わず言葉に詰まる。
そこへ輝が元気よく胸を張った。
「俺、この前の算数四十点だったもん!」
誇らしげに指を四本立てる。
「その前は三十点だったから、ちゃんと成長してる!」
「それは偉い。」
僕は笑って頷いた。
「でもな、輝。」
「うん?」
「四十点は成長だけど、自慢する点数ではないかな。」
「えー!」
輝の絶叫に灯二もフッと息を漏らしていた。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなっていた。
閑話休題。僕は湯呑みに口をつける。
灯二が淹れてくれた緑茶は驚くほど香りが良かった。
隣では輝が緑茶を飲み干したあと、「もう一杯!」と牛乳を二杯もおかわりしている。
その様子に苦笑しながら、僕は灯二へ向き直った。
湯呑みを静かに置く。
「さて、ここからが相談なんだけど。」
僕は美央のこと、こっくりさんのこと、学校で起きた出来事を、一つも漏らさないよう灯二へ話し始めた。
「こっくりさんは、紙に『はい』『いいえ』や五十音を書いて、十円玉を指に乗せて呼びかける降霊遊びだ。遊び半分でやる子どもが多いが、精神的に影響されて錯乱する子も少なくない。今回の美央も、自分は取り憑かれて心を病んでしまった。」
「取り憑かれた…ね」
灯二は真顔で相槌を打った。やはり半信半疑だろうか。
「こっくりさんをやめようとしたらさ、急に風が…吹いたんだ」
輝が口を挟んだ。
「…それで?」
「天気予報は曇りだったのに、急に大雨と風と雷が来て、窓から入ってきた風がなんだか、美央を真ん中にして集まってるみたいで」
「騒ぎを聞きつけて僕が教室に行った時、窓ガラスが何枚か割れてて美央は教室でうずくまって泣いていた。輝達は泣きながら職員室に助けを求めに来たんだ」
灯二は腕を組んだまま黙って聞いている。相づち一つ打たず、ただ必要な情報だけを頭の中で整理しているようだった。
「う、嘘じゃないよ!」
輝は真剣な眼差しを灯二に向けた。
「最低二人で始める遊びなんだけど、四人でやってはいけないって言い伝えがある。四方向を塞ぐと、こっくりさんが帰る道がなくなって誰かに取り憑くって。」
そこで僕は輝へ視線を向けた。
アキラは膝の上で拳を握りしめ、小さく息を吸うと、覚悟を決めたように口を開く。
「……俺と、美央と、あと二人。四人でやったんだ。」
「それはいつだ?」
灯二の質問は短かった。
「二週間前。その次の日から、美央は学校へ来なくなった。家に行っても出てくれないし、電話しても『こっくりさんが部屋の前に居て出られない』って。」
部屋が静まり返る。窓の外では雨音だけが一定のリズムを刻んでいた。
灯二は目を閉じ、数秒だけ考え込む。そして眼鏡を指で押し上げると、小さく頷いた。
「なるほど。つまり依頼内容はこうだな。」
僕たちは自然と灯二へ視線を向ける。
「こっくりさんに怯えた少女の心を救い出せ。そのために、こっくりさんを倒せ。」
「…そういうことだな。」
改めて言葉で整理されると、如何に荒唐無稽な相談をしているのかが分かる。
僕は身を乗り出した。
「だから灯二、力を貸してくれ!」
しかし灯二は肩をすくめるだけだった。
「最近の学校の先生は仕事が多岐にわたって大変だな。外部講師に霊媒師でも呼んだらどうだ?」
「灯二!」
思わず声が大きくなる。
「茶化さないでくれ!僕らは真面目に相談しに来たんだ!」
その横で輝も勢いよく立ち上がった。
「俺、美央のためなら何でもする!」
小さな拳を震わせながら叫ぶ姿に、灯二は初めて興味を示したように目を細める。
「ほう。ずいぶん強い意思表示だな。」
そして間髪入れずに続けた。
「輝、お前。その子が好きなのか?」
「えっ!?」
輝の顔が一瞬で真っ赤になる。
「す、好きじゃないし!」
必死に首を横へ振る姿があまりにも分かりやすく、僕は苦笑した。
「二人は家が近所なんだよ。幼稚園の頃からずっと一緒だから、兄妹みたいな感覚なんだ。」
「なるほど。その美央って子はずいぶん世話の焼ける弟を持ったんだな。」
「ち、ちげーし!あいつが俺の妹的な感じだし!俺がお兄ちゃんなんだって!」
「そうかそうか。」
灯二は興味が失せたように頷く。
「そ、それより!」
アキラは身を乗り出した。
「本当にこっくりさんを何とかできるの!?」
灯二は立ち上がると、アキラの前まで歩き、その頭へぽんと手を置いた。
「こんな面白い問題、放置できるか。」
その一言だけで空気が変わる。
僕は思わず高校時代を思い出した。
灯二がこういう笑い方をする時は、必ず何か勝算がある。
「だ、だとしても、美央への聞き取りとか、除霊の準備とか……。」
「必要ない。」
即答だった。
「今から学校へ行く。」
「「へっ!? 今から!?」」
僕とアキラの声が重なる。
灯二は当然のように頷いた。
「余裕で解決できると言っている。正直、この程度の問題を解決できない大人たちが、何を子どもに教えているのか甚だ疑問だな。」
「そ、そこまで言わなくてもいいだろ……。」
思わぬところで僕まで斬られ、肩を落とす。
灯二はそんな僕を無視して輝だけを見据えた。
「当時の状況をできるだけ再現したい。輝、お前はもう一度こっくりさんと戦う覚悟はあるんだろうな。」
輝はごくりと唾を飲み込む。怖くないはずがない。それでも美央のことを思い浮かべたのか、震える拳をぎゅっと握り締めた。
「……ある。」
「ほんとに何とかしてくれるの? トーニお兄さん、何も関係ないのに……。」
灯二は眉をぴくりと動かし、小さくため息をつく。
「やる気がないなら家へ帰れ。戦う覚悟があるなら学校へ戻るぞ。」
そう言って踵を返すと、肩越しにぼそりと付け加えた。
「……あと、その変な呼び方はやめろ。」
このシーンは灯二の「人間味」と「優しさ」を見せる場面なので、ギャグだけで終わらせず、師匠を失った喪失感を少し残すと後半の印象が強くなります。また、尾軽視点なので、灯二の心情は断定せず「そう見えた」と描写する方が自然です。
⸻
「なあ、灯二。家を出る前に、一旦先生に挨拶しておきたいんだけど。」
何気なく口にした、その一言だった。
灯二の肩が、ぴくりと小さく揺れる。
数秒の沈黙。
やがて本棚へ視線を向けたまま、小さく口を開いた。
「……先生は、三年前に死んだよ。」
その声は驚くほど静かで、感情を押し殺しているようだった。
「えっ……。」
思わず言葉を失う。
「あんなに元気だったのに……。」
高校時代、この家へ遊びに来るたびに出迎えてくれた老人の姿が脳裏によみがえる。
大柄な僕にも物怖じせず、「腹が減っとるやろ」と山盛りの料理を振る舞ってくれた人だ。灯二のことを本当の孫のように見守っていた。
「まあ、七十を過ぎていたからな。」
灯二は淡々と言った。
けれど、その横顔はどこか寂しそうに見えた。
僕は返す言葉が見つからない。
灯二は幼い頃から先生に育てられたと聞いている。親を失い、ようやく手に入れた家族まで失って、この広すぎる屋敷で三年間一人暮らしを続けてきたのだ。
「……寂しくないのか?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
「今は仕事は?」
灯二は肩をすくめる。
「本に囲まれていれば退屈はしない。ツヨシと立ち上げた会社もある。たまにこうして来客も来る。」
ツヨシ。
ロボット研究部で灯二と並ぶ天才だった同級生だ。
高校時代、工具箱を抱えながら楽しそうに灯二と機械の話をしていた姿を思い出し、思わず懐かしくなる。
隣ではアキラが空気を読んだのか、黙って牛乳を飲んでいた。
……いや、これからのこっくりさんとの対決に緊張して口を挟めないだけかもしれない。
「そうか。大学時代はめちゃくちゃ働いてたんだろ?今も同じくらい忙しいのか?」
「いや。」
灯二は首を横に振った。
「先生がいなくなってから、馬車馬みたいに働くのはやめた。元々先生に恩返しするために稼いだ金だったからな。会社の経営もほとんどツヨシに任せてる。築いた資産を投資に回して、今は静かに暮らしている。」
あの灯二が、自分から仕事を減らした。
それだけ先生の死は大きかったのだろう。
聞きたいことは山ほどある。
この三年間、どう過ごしてきたのか。
なぜ誰にも連絡しなかったのか。
でも今じゃない。これからゆっくり話せば良い。失った時間を取り戻すように。
今、一番大事なのは美央だ。
「……そっか。悪いな、いろいろ聞いて。」
「俺の方こそ、なかなか連絡できなくて悪かった。」
一瞬だけ目が合う。
高校時代なら、照れ隠しにすぐ茶化し合っていただろう。
けれど今は、お互い何も言わなかった。
その沈黙を破ったのは、アキラだった。
「トー兄さんさ。」
牛乳を飲み干したアキラが、不思議そうに首を傾げる。
「今働いてないなら、ニート兄さんってこと?」
「ぶっ!」
思わず吹き出した。
「アキラ! 何言ってるんだ!」
慌てて口を押さえる。
さすがにデリカシーがなさすぎる。
恐る恐る灯二を見ると──
「……ふっ。」
灯二は小さく笑っていた。
「そうだな。」
肩をすくめながら、どこか楽しそうに言う。
「輝の言う通り、今の俺はただの論破ニートだ。」
「自分で言うんだ、それ。」
僕も思わず笑ってしまう。
さっきまで重かった空気が、少しだけ軽くなった。
灯二は空になった湯呑みを重ねながら立ち上がる。
「無駄話に花を咲かせすぎたな。」
十六時半を指した時計へ目を向けると、淡々と続けた。
「学校へ行くぞ。時間が惜しい。俺は自分ルールで二十二時までに寝ると決めている。」
「規則正しいなあ。」
「睡眠不足の人間は判断力が落ちる。合理性の問題だ。」
相変わらず理屈っぽい。
でも、それが灯二らしい。
アキラは椅子から飛び降りると、満面の笑みで灯二を見上げた。
「ありがとう、暇人のお兄さん!」
「調子に乗るなよ、ガキ。」
そう言いながらも、灯二は輝の脇へ手を入れてひょいと持ち上げた。
「うわっ!」
そのまま軽く三回転。
「きゃはははは!」
さっきまで泣きそうだった輝が、子どもらしい笑い声を響かせる。
僕はその光景を見て、思わず頬が緩んだ。
門前払いされるかと思っていた。
皮肉ばかり言うし、口も悪い。
それでも困っている子どもを放っておけないところは、昔から何一つ変わっていない。
なんて、……本人に言ったら、また面倒くさい理屈を返されるだろうから、胸の中だけにしまっておくことにした。
「だが、その前に用事を済ませる。二十分ほど、この部屋で待っていろ」
「用事?」
「たいしたことじゃない。お前たちが気にする必要はない」
そう言い残すと、灯二は廊下の奥へ歩いていった。長い廊下の先には、書斎や灯二の寝室、仕事部屋、そして灯二の先生の部屋。いくつかの部屋が並んでいたはず。灯二がそのうちの一つの扉を開け、スーッとふすまを閉める音が微かに聞こえた。
「ロンパにい、俺好きかも」
輝がぽつりと呟いた。
「でしょ。口は悪いのが玉に瑕なんだけどね」
輝は納得したような、していないような顔で頷くと、好奇心に任せて室内を見回し始めた。
「おい、勝手に部屋を荒らすなよ。怒られるから」
「荒らさないよ、ちょっと冒険するだけ」
「人の家で冒険しちゃダメだろ。ツボ割って薬草と金回収していいのはゲームの世界だけだから」
僕の忠告が耳に入っていないのか、輝はすでに椅子から降り、あちこちを眺めている。
そのときだった。
ウィーン……。
低いモーター音が聞こえてきた。
二人が振り返ると、白い円盤状の掃除ロボットが廊下から滑るように現れた。障害物を避けながら一定の速度で進み、床の隅まで丁寧に掃除していく。
しかも、ただゴミを吸い取っているだけではない。
本体の後部から伸びたモップが床をなぞり、雨の日だというのに、廊下には水滴一つ残らない。ロボットが通過した場所は、照明をそのまま映し返すほど綺麗に磨き上げられていた。
輝が目を輝かせる。とても嫌な予感がする。
「すげー!俺、あれ、乗ってみたい!」
「ダメ!あれは乗り物じゃない!」
「でも人が乗れそうじゃん!」
子どもの発想は無限大だな。本来それは美点だし、ぜひ図工の授業で活かしてもらいたい。
「輝が猫だったら乗っていいと思うが、大きくなり過ぎた」
「ちょっとだけ!」
「そう言ってこの前学校の非常ベルを鳴らした少年を再び信用しろと!?」
全く懲りない少年の輝が掃除ロボットを追いかけ始め、僕は慌ててその後を追った。ロボットは二人を完全に無視し、規則的な軌道で床を走り続ける。
「ほら、輝!大人しくしろ!」
「待ってー!」
「待つのはお前だよ!」
輝の首根っこを捕まえてた時、掃除ロボットは廊下の角を曲がっていった。
僕は息を吐きながら立ち止まり、改めて周囲を見回した。
この家は異様なほど綺麗だった。
床に埃はほとんどなく、窓ガラスにも曇り一つない。家具は必要以上に置かれておらず、本棚に並んだ本さえ背表紙の高さまで綺麗に揃えられている。さっきから何台もの掃除ロボットが家の中を動き回っているのも、その徹底ぶりを考えれば納得できた。
それにしても。
僕は閉じられた奥の扉へ目を向けた。
今の灯二は会社の仕事をほとんどツヨシに任せ、同居している人間もいないはずだ。
では、いったい何の用事があるのだろう。
「……まあ、灯二のことだから、何か変なこと企んでるんだろうな」




