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兄さん、私もアイドルやります!

 市役所を出たのは、四時過ぎだった。


 帰り道、どちらが言い出したわけでもなく、俺たちは潮見公園に寄っていた。

 夕方の公園は、朝とは別の場所みたいに見える。じいさんばあさんの姿はなく、代わりに小学生が三人、ブランコの取り合いをしている。海の色も違う。朝は白いのに、この時間は青が濃くなる。


 ベンチは、先週から一台だけだ。

 もう一台は壊れたままで、市の予算では修繕まで三ヶ月かかるらしい。責任者は俺で、原因も俺だった。

 その残った一台に、環が腰を下ろした。


 顔はもう隠さないらしい。

「日焼けはいいのか?」と聞いてみると、俺を見て「日向がそばにいる時はいい」と返してきた。なんでかは答えてくれない。しつこく聞くと、なぜか顔を赤くして怒られた。


「あー疲れたー」

「お疲れさん」

「あの市長と話すと、なんか色々疲れる」

「いい人だろ」

「わかんない。けど、そうかもね」


 環は足をぶらぶらさせて、こちらに頭を向けた。


「日向」

「ん」

「いつものやって」


 俺は缶コーヒーをベンチに置いて、手を伸ばした。

 髪に触れる。サラサラした髪の感触。それに想像していたよりずっと柔らかい。

 撫でると、環が目を閉じた。


「……ん。もっとして」


 息が漏れる。肩の力が抜けて、体が少しだけこちらに傾いた。


 ――落ち着け。


 これは、あれだ。人間には頭を撫でられると落ち着く生理反応があるらしい。犬とか猫と同じだ。医学的な話だ。俺は今、医学的な行為をしている。いや、医学的な行為ってなんか変態みたいだ。よし、環を猫だと思うことにしよう。

 でも、目の前にいるのは、二年前までテレビの中にいた人間だ。雑誌でも見た。あの写真の中の子が、今俺の手の下で猫みたいに目を細めている。

 この顔は、たぶん、そんなに大勢が見たものじゃない。もしかしたら、俺だけが見ている顔かもしれない。


「日向」

「っ!?なんだよ」

「日向ってさ、ボクのこと……」


 環が上目遣いで俺に何か言おうとした、その時。




「兄さん」




 ビクッとして手が止まる。


「何、してるんですか……?」


 感情が感じられない声。だけど、よく知っている声。

 おそるおそる振り返る。

 公園の入口に、制服姿の結が立っていた。片側で結んだ髪。手には、コンビニの袋。

 その顔から、表情が消えていた。


「ゆ、結」

「兄さん。これってどう言うことですか」

「これは、その」

「今、その女の子の頭、撫でてましたよね」

「撫でて……ました」

「……信じられません」


 弁解の余地がない。俺の右手は、まだ環の頭の上で撫でる形のまま止まっている。

 環が、ゆっくり立ち上がった。

 俺の背中側から、一歩前に出る。


「……何、あんた」


 結の目が、環を捉えた。

 二人の身長は、ほぼ同じだ。同じ高さで、真正面から視線がぶつかった。


「そこにいる兄の妹です」

「妹?」

「浦沢結です。あなたは?」

「九条環だけど」


 結の眉が動いた。


「九条、環……」

「そう。その九条環」

「……テレビの」

「うん。そう。何か感想ある?」


 空気が張った。まずい、これはあれだ。修羅場というやつだ。

 俺は慌てて間に割って入ろうとして、両側から腕を掴まれた。

 右腕を結。左腕を環。

 同時だった。示し合わせたみたいなタイミングだった。あれ、実は仲がいいのか?


「兄さん。説明してください」

「日向。あっち行こ」

「いてててて!両側から言うな!引っ張るなー!」


 引っぱられた。右に。次に左に。


「兄さんは市役所の職員ですよね。夕方の公園で女子高生の頭を無理矢理撫でていい立場じゃありません」

「頭撫でろって言ったのはボクだけど?それに、毎朝撫でてくれてるし」

「毎朝!?なおさら悪いです!」

「なんでよ」

「兄さんはそういうことを断れない人なんです。あなたはそれを知っててやってるんじゃないですか」

「……」


 環が、一瞬黙った。図星だったらしい。


「知ってて何が悪いの。日向に頭撫でられるの、気持ちいいんだもん」

「開き直らないでください」

「開き直ってない。ボクは事実を言っただけ」

「〜っ!私だって兄さんに撫でられたことないのに!」

「じゃあ、ボクの勝ちってことだね」


 右腕が引っぱられる。左腕が引っぱられる。

 俺の肩が、両方から悲鳴を上げていた。


「あの、二人とも、腕が、そろそろもげ」

「黙っててください」

「日向は黙ってて」


 結局、俺の意見は一度も通らなかった。


「大体、兄さんはあなたと何の関係があるんですか」

「関係?」

「毎朝ここで会ってるって、それはどういう」


「ボク、『ここみっしゅ』に入ったから」


 結の動きが止まった。

 俺の右腕を掴む力が抜けて環の方に引っ張られ、結が1人になる。


「……え」

「『ここみっしゅ』って、新しいアイドルの?」

「そうだけど、あんたには関係ないでしょ」


 結が俺を見た。

 俺は目を逸らした。逸らしたのが最悪だったと、あとで気づいた。


「兄さん」

「その、今朝決まってさ。結には夜言おうと」


 コンビニの袋が、かさりと鳴った。


「兄さん、そういえば昨日の夜帰ってきませんでした」

「それは、環を説得するために」

「名前で呼んでるんですか」

「……え、まあ。うん」


 環が、俺の左腕をもう一度ぐいと引いた。

 結の方を見て、はっきりと言った。



「日向はもう、ボクのだから」



 俺は自分の耳を疑った。


「おい!」

「間違ってないでしょ」

「間違ってるだろ! いろいろ足りないだろ!」

「だってボクのプロデューサーじゃん」

「頼むから最初にそれをつけてくれ!」


 だが、遅かった。

 結がうつむく。表情が見えなくなる。

 しかし、コンビニの袋を握りしめたまま、何かを決意した目ですぐにこちらを見上げた。


「……入ります」

「え」

「私も、ここみっしゅに入ります!」


 声が、公園中に響いた。

 ブランコの小学生が、三人ともこちらを見た。

 ああ、俺も小学生になりたい。

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