日向、環にプロポーズする
環の学校が終わるのを待って、俺は環とオヤジに挨拶をしに行った。
市長室のドアが閉まった。
その音を聞いて、隣の環が俺の後ろに隠れるように下がったのが分かった。
窓を背にした椅子に、オヤジが座っていた。相変わらずの外見と凄み。まくったワイシャツの袖の下の腕は、六十二歳のものではない。
机の上には決裁書類の山。壁際には、去年もらった感謝状と、なぜか木刀。そして目を引く「仁義」という文字の入ったポスター。
「よう来たな。まあ座れ」
俺のシャツの裾が、後ろから引っぱられた。
「……だ、騙された」
声が震えていた。
振り返ると、環が少し震えている。顔が白い。というか、青い。
「何がだよ」
「日向、市役所で働いてるって言った」
「市役所だろ」
「そんなわけない、ここどこ」
「市長室」
「嘘だ……」
環が腕にしがみついてくる。力が本気だった。右腕が折れそうになる。
「日向」
「なんだ」
「ボク、まだ十七だから。何かあっても、ちゃんと帰らせて、それと警察も呼んで」
「何を想像してるんだよ」
「あの木刀は何」
「去年、剣道連盟からもらったやつだ」
「絶対嘘だ。帰る。今すぐ帰る」
オヤジはその怯えきった小動物のような様子をじっと黙って見下ろしていた。
それから、書類の山を横にどけて、こちらに手のひらを向けた。
「怖がらせたか。すまんな」
環の肩がびくりと跳ねた。
「……いえ、あの、治安の悪いおっかない街のトップの方に拉致されたわけではないと信じたいです」
「お前、オヤジになんてことを」
「ま、座り。立ったままやと話しにくいわ」
俺は半泣きの環の腕を強引に引き、ソファに座らせた。座らせても、環は膝をぴっちり閉じ、鞄を盾のように抱え、体を限界まで小さくしたままだった。
目線が、一ミリも上がらない。
「で。この子がここみっしゅに入るんか?」
「はい」
俺は即答した。
「この子しかいないと思います」
隣で、環がびくっと少し動いた気配がした。
「オヤジが俺を見つけてくれたように、俺もこの子を見つけました。この子となら、絶対にできます」
オヤジは、しばらく黙っていた。
窓の外から潮風が入り、カーテンを揺らした。
「日向」
「はい」
「わしもな。この子のことは、よう知っとる」
空気が、ピリッと変わった。
「例の、喫煙の子やろ」
隣で、環がうつむいた。
膝の上で、手が固く握られていた。
「……ボク、吸ってな……っ」
「俺、やってないと思うんです」
環が、ハッと顔を上げた気配があった。
俺はオヤジを見たまま続けた。
「証拠はありません。ただ、この子は、お客さん一人一人に向き合える子です」
「ほう」
「グロリアスの映像を見ました。グローリー・パレードの、サビのところです」
オヤジは何も言わずに聞いている。
「この子だけは客席を見てました。お客さんを見たいから、そのために努力できる子です。俺はそれが魅力的に見えた」
隣で、鞄を抱える腕にグッと力が入るのが、視界の端に映った。
「生半可な覚悟でやってた子じゃないです。その覚悟を、たった一本のタバコで捨てるとは思えない」
言い終わってから、俺は少しだけ大きく息を吸った。
「それに」
「なんや」
「俺はもう、この子と一緒がいいんです」
隣で、びくりと小さく息を呑む音がした。
オヤジが、椅子の背もたれに体を預けた。
しばらく、部屋が静まり返る。
「そか」
それから、オヤジはニヤリと笑った。
「それなら。二人とも、添い遂げる覚悟はあるんやろな」
「はい」
「ちょっ、まっ」
「俺には、この子が絶対に必要です」
「ふぇ……?あの、日向?」
「絶対に離しません」
「日向ってば!」
「俺が一生、面倒見ます。だから環と、一緒にさせてください。お願いします」
「ちょっと待ってええぇぇーーーっ!!!」
環が、ソファから盛大に跳ね上がった。
顔が、トマトよりも赤かった。いや、湯気が出ている。
「どうしたんだよ、そんな大声出して」
「……どうしたじゃないでしょ!!」
「顔、真っ赤だぞ。熱でもあんのか?」
「うるさい! 黙れこの鈍感野郎!」
環はバッと顔を背け、パーカーのフードを頭から限界まで深くかぶった。耳まで真っ赤なのが丸見えだった。
オヤジが、腹の底から豪快に笑った。机の上の書類が揺れるくらいの爆笑だった。
笑うと、額の傷跡がわずかに歪む。環がまたびくりと怯えたが、今度は恥ずかしさの方が勝っているらしく、小さく地団駄を踏んでいる。
「環さん」
「……な、なんですか」
「あんたはどうや。その、日向の『添い遂げる』『一生面倒見る』ってプロポーズ、受けるんか?」
「〜っ!!」
環はフードの隙間から、真っ赤な目を血走らせてオヤジを睨みつけた。
それから、わずかに震える指で、パーカーの裾をキュッと掴み、意を決したようにボソッと言った。
「……うける、よ」
「ん?」
「その……覚悟。……あるって、言ってるでしょ、バカ……」
言い切ったあと、環は自分の発言の破壊力に耐えきれなくなったのか、パーカーの紐を両手で引き絞り、顔面を完全に布で封印した。完全に茹でダコ状態だった。
「ありがとう環。これからずっと、よろしくな!」
「う、うん。よろしく。ボクのこと、離さないでよね」
「当たり前だ。ずっと離さない」
環が俺のことをポーッとした目で見つめている。「旅行どこ行こう」とか「ボク、ドレス着るのかな」とか呟いている。やっぱり熱があるんだな。今日は早めに切り上げよう。
「あの、オヤジ」
「なんや」
「俺、さっき夢中であんまり覚えてないんですけど、添い遂げるとか、一生面倒見るとか、誰か結婚するんですか?」
「……は?」
フードの奥から、殺意に満ちた押し殺した声がした。
「……日向、あとで地獄見せる」
「なんでだよ!俺が何したってんだよ!」
オヤジが、満足そうにまた笑った。




