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何のために踊るのか

 結論から言おう。できる気がしない。


 午後十一時、市役所の会議室。プロジェクターでライブ映像を壁に映して俺は一人でそれを追いかけている。


『――ワン、ツー、スリー、フォー』


 止める。巻き戻す。再生。

 右手が上がる。同時に左足。半歩下がって、体を四十五度。

 やってみる。

 右手が上がる。左足が動かない。


「……なんでだ」


 頭では完全に覚えた。分かっているのに、体が遅れて別のことをする。


「……頭を使うほうが得意なんだよ、俺は」


 言った後に虚しさしか感じない。

 時計が日付を跨ぎ、午前三時。

 俺は床に大の字になって、天井のシミを数えていた。汗が冷えて、シャツが背中に貼りついている。


 サビの十六小節が、どうしても入らない。

 あそこだけリズムが裏に入る。裏に入ってから、フォーメーションが激しく変化する。


 ……無理かもしれない。

 その言葉が、頭の中に、初めてはっきりと浮かんだ。

 プロが作った振り付けだ。素人の俺が一晩で踊れるようになるものじゃないんだ。

 ふと、環の諦めの混じった目が浮かぶ。


「……くそ」


 俺は起き上がって、もう一度映像を頭から見ようとした。


 疲れていたんだと思う。


 手元が狂って、指がスマホの上を滑った。

 過去のグロリアスのライブ映像に切り替わる。環が映っているものだ。

 この曲の初お披露目の時らしい。観客の歓声が聞こえてくる。 

 サビの真ん中。

 俺はそこで動きを止めた。


 ――あれ?


 巻き戻す。今度はコンマ単位で。

 サビ。

 環以外の六人が、必死だった。

 誰も手を抜いていない。全員上手いのだが、目が床を見て次の位置を確認している。

 やはり相当難しいのだろう。

 だが、一人だけ。

 右から二番目にいる、環だけ。


 ――客席に向けて、笑っていた。


 床なんか見ていない。センターでもない。画面の端で、半分見切れかけている。

 なのにその子は、こちらも見惚れるほどの笑顔で客席のほうを見ていた。

 この子は、サビの振り付けの中でたった一人だけ、客席を見る余裕を持っている。


 いや、違う。


 余裕があるから見ているんじゃない。

 見たいから。そのために余裕を作れるところまで練習したんだ。


 俺は、床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。

 昨日の夜、テレビで見た写真を思い出した。フラッシュに囲まれて、両手で顔を隠していた九条環。

 今朝の、「しょうがないなあ」と言った時の九条環。


 あの子は本当に、不祥事を起こしたのか?

 俺はあの子に、聞いたのか?


 ――ふざけるな。


 誰に対する怒りなのか、自分でもよく分からなかった。

 週刊誌か。事務所か。テレビ局か。それを面白がった世間か。


 俺は立ち上がった。

 外見じゃない。ダンスが上手いからでもない。

 あいつはずっと、俺の愚痴を聞いてくれた。俺自身、救われたことが何回もある。

 それだけの理由で、俺は、どうしてもこいつを――


「……こいつを、プロデュースしたい」


 声に出した。

 誰もいない会議室に、思ったよりはっきり響いた。

 俺はプロジェクターの前に戻って、曲を頭から再生した。


   ※


 <環(たまき)視点>


 朝の公園は、六時半を過ぎるとじいさんばあさんが増える。

 ラジオ体操の集まりが解散したあと、なんとなく残った人たちが、ベンチだのブランコだのに腰かけて世間話をしている。今日は特に多い気がする。

 毎朝会っている「あの人」が、坂を上ってくるのが見えた。

 ボクは思わず眉をひそめた。顔色が悪い。シャツはよれている。足取りは、こう、なんというか生まれたての子鹿だ。

「おはよう」

「……寝てないでしょ」

「まあな」

 ボクはため息をついた。

「じゃ、見せて」

 スマホを取り出して、スピーカーをオンにする。


 ――本当は、ボクはこの人が来ないと思っていた。


 いや、来たとしても、「ごめん無理でした」と頭を下げて終わりだと思っていた。それでもよかった。それで終わりにして、もう会わないつもりだった。

 だってグローリー・パレードだ。

 あの曲は、グロリアスの中で一番きつい。ボクだって、完璧に入れるまで三週間かかった。当時のメンバーで初日から通せた子は一人もいない。


 できるわけがない。


 できなかった時、この人は他の大人と同じ顔になる。しょうがないよね、と笑って、次の話をする。それを見て、ボクは安心して明日からまた顔を隠して生きていける。


 ――だからこれは、そういう儀式だった。


 イントロが流れる。

 彼が、構えた。

 ボクは腕を組んで、その場に立っていた。


 ……ああ。


 それだけで、もう分かった。

 肩が上がってる。力み過ぎ。腕が伸びきってない。ステップ、ワンテンポ遅い。目線が下。数えてるのが丸見え。

 ほら、また間違えた。

 二番の入り、右足からだよ。

 練習したのは分かる。手の動きだけ妙に正確なのは、鏡じゃなくて映像を、たぶん何回も止めながら覚えたからだ。頭で覚えたんだろう。

 でもそれだけ。素人ならこんなもんだよね。


 ――なのに。なんでだろう。


 ボクはこの人から目が離せなかった。

 なんで。

 汗が飛ぶ。息が上がってる。二番の途中で、明らかに膝が限界を迎えている。それでも止まらない。


「……なんで」


 気づくと、周りに人が集まっていた。

 じいさんが二人。ばあさんが三人。若い女の子が一人。


「なんだいなんだい」

「兄ちゃん、やるじゃないか」


 拍手が起きた。手拍子が始まった。ばあさんの一人が、ずれた手拍子で堂々とリズムを外している。


「この曲知ってるよ。孫が聴いてたねえ」

「テレビでやってるやつだろ」

「もっと腰入れな、腰!」


 みんな、笑っていた。

 朝のなんでもない時間に、こんな、何もない公園で。


 ――なんで?


 ボクは、その光景を見ていた。

 この人、下手じゃん。ボクが現役の頃にやっていたものとは、比べ物にならない。

 なのに、なんでみんな笑顔なの。

 胸の奥が、何かが叫んでいる。

 覚えがある言葉。ずっと蓋をしていて、それでも今なお大切な言葉。


 最後のサビ。


 彼は、当然のように間違えた。二回転のところで完全に方向を見失って、あさっての方を向いた。

 その途中、足元じゃなくて。


 ボクと目を合わせて、笑った。


 心臓がうるさい。

 曲が終わる。

 最後のポーズを、彼はぎりぎりで決めて、そのまま膝に手をついて崩れ落ちた。

 拍手が起きた。

 じいさんもばあさんも犬も、朝の公園にいた全員が、手を叩いていた。


 ――懐かしい。


 この音をボクは知っている。

 ボクは、この音のためにあの世界にいたはずだった。

 目の奥がじわりと熱くなった。


 だめだ。

 こんなところで泣くとか、ありえない。


 ボクは、深呼吸をして、用意していた最後の質問を口にする。

 これを聞いて終わりにしようと思った。


「ねえ」

「……ああ」

「この曲で、一番難しかったところ、どこだった?」


 サビだと言うはずだ。誰でもそう言う。あの振り付けだと。


 ーー騙されるな。


 この人も、今までの大人と同じなんだ。

 ずっと助けて欲しくて泣いていたボクを笑って見ていた大人たちと。


 彼は息を切らせながら顔を上げた。

 そして、こう言った。


「俺が、ずっとかんが、えてたのは、さ」


「君を、」


 ーーえ。


「笑顔に、する、ことだよ」


 ――風が吹いた。

 海のほうから上がってくる風。

 ボクは、その場に立ち尽くしていた。


 それは。


 それはボクが、アイドルをやっていたときに一番大切にしていたことだった。


 誰にも言ったことがない。事務所にもメンバーにも。ステージの上で、暗い客席の一番後ろの顔も見えない誰かを笑顔にする。そのためだけにボクは踊っていたことを。


 この人はボクを笑顔にするために踊ったんだ。


 ーードクン。


 なんだこれ。心臓の音がうるさい。それに、視界が滲む。

 ボクは慌てて顔を背けて目元をこすった。

 動悸が止まらない。


 ーーもしかして、ボクはまだ。


「……責任とってもらうから」

「え?」

「なんでもない!」


 ボクもやりたい。

 ボクも、みんなを幸せにしたい。

 もう、そう思ってしまった。


「ねえ」

「なんだ」

「名前、教えてよ」


 彼はきょとんとした顔をした。

 それから、汗を袖で拭ってまっすぐこっちを見て言った。


「日向(ひなた)だ。浦沢日向(うらさわひなた)」

「日向」


 声に出してみた。

 胸が温かくなっていく。

 ボクは、目元をもう一回だけ強くこすって、それから顔を上げた。


「日向」

「おう」


「ボクがアイドルやるからには、一番とるからな」


 彼が目を丸くした。

 朝日が坂の上から差し込んできて公園全部を白くした。

 ボクは二年ぶりに、誰かに向かって笑うことができた。

環さん加入回でした。環さん、いかがでしたでしょう?

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